第一章

幸せな日常


 渋谷しぶや弥生はカーテンの隙間から舞い込む光によって目を覚ました。

 すぐに枕元にある目覚まし時計を確認する。

 午前6時15分。アラームがセットしてある時間の5分前。いつも通りの起床時間であった。だが、気分はいつもよりもすぐれない。首筋は寝汗でぐっしょりと濡れている。


 やっと忘れることができたと思っていたのにもかかわらず、今更あのときの夢をみてしまったのだ。気分が悪いのも当然といえた。

 ふと、隣で寝ている夫の雅雄まさおと六歳になるひとり息子に目を向ける。二人は、いつも通りぐっすりと眠っていた。雅雄にいたっては、だらしなく開かれた口からよだれがこぼれている。


 夫と結婚してもうすぐ八年になる。雅雄は弥生より五歳年上の三十三歳で、大手製薬会社に勤めている。病院に自社の薬の説明や情報を伝える、いわゆるMRエムアールという仕事をしているらしい。詳しい仕事内容までは把握していないが、三十代前半で庭付きの一軒家を建てることができるほどの給料はもらっていた。

 そんな雅雄の唯一の欠点ともいえるのは、多少ヤキモチ焼きなところであろうか。弥生がテレビに映るアイドルなどを格好いいなどといって褒めると、あからさまに不機嫌になるときがある。それでも、夫婦喧嘩にまで発展したことはないし、テレビ画面の向こう側にまで嫉妬する雅雄を弥生は可愛らしく思っていた。

 そんなほとんど完璧ともいえる夫の間に最愛の一人息子も授かり、自分はまさに幸せの絶頂にいるといえるだろう。


「よし」


 弥生は嫌な夢を払い去るように自身の今の幸せを確認すると、寝ている二人を起こさぬようにそっとベッドから抜け出した。


 弥生の起床してからの行動はだいたい決まっていた。まずは玄関から外に出て郵便受けの中の朝刊を取る。その足で庭に向かうと、飼っている柴犬のイチローに餌をやる。次に、ダイニングキッチンに戻り、いつものようにコーヒーメーカーを起動させる。そして、朝のメインイベントともいえる、息子である礼雄れおの弁当づくりに取りかかるのだ。

 ここまでが毎朝おこなう習慣行事ともいえた。

 行動自体は毎朝同じなのだが、弁当の中身に関しては毎日違う見た目のものを作っている。弥生がこしらえているのは、いわゆるキャラ弁というもので、ご飯やおかずで子供に人気のアニメやゲームのキャラクターのかたちにするというものだった。

 もともとは幼稚園のママ友のほとんどがキャラ弁をつくっているから、仲間はずれにされないために仕方なくつくっていた。だが、いざやってみるとおもしろいもので、今では弥生自身の毎日の楽しみとなっていた。


 今日は簡単に顔がアンパンのアニメヒーローをモチーフにした弁当をつくることにしよう。


 そう意気込むと早速作業にうつる。まずはご飯に鮭フレークを混ぜ合わせて、丸く握る。そうして出来上がった鮭おにぎりを顔のベースとし、そこに食材でつくった目や鼻などの部位を組み合わせて形にしていくのだ。

 赤いほっぺたには薄く切った人参を茹でたものを使用し、ご飯からずれないようにマヨネーズを裏につけて乗せる。鼻も同じように作ろうかと思ったが、人参嫌いの礼雄のことだ、どうせ残してしまうと思い、そこには種の抜いた梅干しを代用することにした。


「弥生、おはよう」


 海苔をハサミで切り取り眉毛をつくっていると、雅雄が大きなあくびをしながらダイニングに入ってきた。その髪には寝癖がついており、マンガの登場人物のような奇抜な髪型となっていた。


「おはよう。すぐにコーヒーを淹れるね」


「ああ、ありがとう」


 弁当をつくる手を中断し、雅雄のマイカップにコーヒーを注ぐ。朝食も皿に乗せコーヒーと一緒に彼の前に差し出した。今朝はトーストとスクランブルエッグだ。


「それにしても、今日は暑そうだな」


 雅雄はきつね色のトーストにピーナッツバターを塗りたくりながら、窓から差し込む朝日をまぶしそうに見つめる。庭では食事を終えたばかりのイチローが、植えてある柿の木の下で退屈そうに丸まっていた。


「そりゃ、もう7月ですからね」


「そうか、もうそんな季節か。年が明けてもう半年経っているんだよな。なんだか、時間が経つのが年々早くなっていく気がするな」


「やだ、それっておじさんになっている証拠よ」


 弥生はそういって笑いながらも、暑さのことについて話題を戻した。


「なんでも、今日から夏の暑さを感じるようになるって天気予報でいっていたわよ」


「うわぁ、それを聞いたら外に出るのが憂鬱になってきたな。汗かくかもしれないから、タオルでも持って行こうかな」


「それがいいかもしれないわね。私も、イチローの散歩をするだけで汗だくになっちゃうから、外に出るときはいつもハンドタオルを持ってるわ」


「弥生は汗っかきだからな。……そういや、あいつの吠え癖はやっぱ治らない?」


 雅雄はトーストをかじると顎でイチローを指す。

 イチローは渋谷家に来てまもなく一年ほど経つのだが、とにかく人に向かって吠える犬で、しつけをするのは骨が折れる作業といえた。飼い始めたころなど、餌を持ってきてやった弥生に対しても牙を剥いていたものだ。


「だいぶ良くなってきたと思うわよ。よく会う近所の人なんかには一切吠えなくなったもの。ただ、まったく知らない人とかには未だにすぐ吠えちゃうわね。だから散歩なんていっても、うちの近くをぐるぐると何周かするしかできないのよ」


「そうか。じゃあ番犬としては優秀ってことになるのかな」


「そうともいえるわね」


 くすりと笑いながら壁時計を見上げると、時刻は7時半を回っていた。


「あら、もうこんな時間。礼雄を起こさなくちゃ」


 そういって慌てて寝室に向かおうと思ったところで、礼雄が父親と同じように大きなあくびをしながら「おはよー」とダイニングへと入ってきた。

 似たもの親子だなと微笑ましく感じながらも、すぐに息子の分の朝食を彼のお気に入りのキャラクターがかたどられたプレートにのせて席に置いてあげる。


「おはよう。偉いわね、一人でちゃんと起きてくるなんて」 


「うん! あって、もうすぐいちえんせいあもん」


 礼雄はそういうと、満面の笑みを弥生に見せる。


 礼雄は言葉を覚えるのが他の子よりも遅く、三歳を過ぎたところでやっと簡単な会話ができるようになった。そのためなのかは定かではないが、少し滑舌が悪く聞き取りにくい。弥生も心配して、雅雄の知り合いの医者などにも診てもらったりもしたのだが、成長すれば自然とよくなっていくだろうから問題はないという診断をうけていた。

 なにより、礼雄自身がしゃべることが大好きなようなので、このことに関しては無理に直そうとはせずに、様子をみておこうと雅雄と決めていた。

 ちなみに先ほどの発言は「だって、もうすぐ一年生だもん」といっていた。


「もう、まだ半年以上も先の話じゃないの」


 弥生は苦笑しながらも、息子の無邪気な笑顔に愛おしさを感じてしまう。


「そんなこといったって、楽しみなんだからしょうがないよなー? カッコいいランドセル買ってやるからな。礼雄は何色のランドセルがいい?」


「うーんとね、うーんとね。青!」


「おっ、カッコいいな。じゃあ、春までに青いランドセルの似合うカッコいい男になるんだぞ」


 そういうと、雅雄は息子の頭をくしゃくしゃと撫でていた。礼雄は、くすぐったそうに身をよじりながらも、その顔はどこか嬉しそうであった。

 家族団らんのときを満喫していたかったが、朝は主婦にとってもっとも忙しい時間だ。いつまでもくつろいでいてはいられない。弥生は名残惜しく思いながらも、キャラ弁づくりの残りの作業へと戻っていった。

 とはいえあとはおかずのみだ。ミートボールと礼雄が大好きなカップグラタンをいれて、彩りを考えてレタスやトマトをそえれば――完成。


「ママー。今日のお弁当はなーに?」


 朝食を食べ終えた礼雄が、背伸びをして弁当箱の中身をのぞき込もうとしながら聞いてくる。礼雄も毎日の弁当をとても楽しみにしてくれているのだ。


「今見たら楽しみがなくなっちゃうでしょ。お弁当の時間まで我慢してね」


「はーい」


 右腕をピンと垂直に伸ばしながら礼雄は返事をした。


「よし、お利口さん。じゃあ、ご飯食べ終わったならお着替えしなくちゃね」


「うん。ひとりえ、お着替えする」


「え? ひとりでお着替えできる?」


 着替えはいつも弥生が手伝っていたので、唐突の一人立ち宣言に少し困惑してしまう。


「うん!」


 礼雄は強く頷くと、こちらの言葉を待たずして部屋を飛び出していった。


 そうか、もうすぐ一年生だもんね。

 弥生は日に日に成長する息子を誇らしくも思いながらも、少しだけ寂しさも感じていた。

 礼雄はまだ六歳なのだ。これからどんどん成長していくであろうし、身長だってすぐに抜かされてしまうだろう。いつかはガールフレンドなんかを家に連れてきたりもするかもしれない。そのたびにこの複雑な感情を覚えることになるのだろうか。

 だが、弥生にはそれが子育てであり、幸せな家庭の象徴とも思えた。


「幸せだなあ」


 思っていたことが不意に口をつく。


「うん? なにかいった?」


 その声に反応して新聞を読んでいた雅雄が顔をあげる。いつの間にか寝癖を直したようで、髪の毛は濡れてつやつやと光を反射していた。


「ううん、なんでもない。ほら、もうこんな時間。早く準備しなきゃ遅刻しちゃうわよ」


 弥生は、独り言を聞かれた恥ずかしさから、いつも通りの時間であるにも関わらず雅雄を急かしていた。


「おう」


 独り言のことも、時間のこともとくに気にする様子もなく、雅雄はのんびりとした口調で返す。

 弥生は、そんなマイペースで優しい夫と、彼との間に生まれた礼雄というかけがえのない息子を心の底から愛していた。


 このときには今朝にみた夢のことなどすっかり頭から離れていた。

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