幸せの裏っかわ

笛希 真

プロローグ

現実の悪夢


 弥生やよいは、床にぶちまけてしまった吐しゃ物の突き刺さるような臭いが辺りに漂う中、部屋の角でしゃがみこんでいた。自然と涙がこぼれてしまっていたが、それを悟られないように手の甲でそっと目の端をぬぐう。


 そんな弥生から少し離れた所で全裸の男がこちらを見下ろすかたちで立っていた。

 華奢な男の全身にはいくつもの傷があり、血が滲んでいるものから、皮膚に黒く浮き出て痣となっているものと様々であった。それらは、彼の薄い肌の色との対比によって、より毒々しく見えていた。

 男は、もみあげをぽりぽりと掻きながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。股下に張り付いている逸物いちもつは、すっかり腫れ上がり天を向いていた。


 弥生の体が恐怖で震える。


 だが、その感情の原因は限界まで膨張させているペニスではなく、彼の顔に常に張り付いている不自然な笑みによるものだった。

 胃が絞られるようにきりきりと痛む。この男に出会ってから数時間しかたっていないが、彼の笑顔を見るたびに胃のムカつきは悪化していた。


 一歩、また一歩と、男が距離を詰めてくる。それに比例するように、弥生の腹の中に渦巻く感情は少しずつ大きくなっていった。


 ついに、男は目の前までやってきた。

 もう感情を抑えることは不可能だった。弥生はしゃがんだ体制から、飛び込むように男を思い切り突き飛ばす。見た目以上に男の体は軽く、非力な弥生の力でも簡単に尻餅をつかせることができた。


 状況はうってかわり、今度はこちらが男を見下ろすかたちとなっていた。

 自然と荒い呼吸が漏れそうになったが、弥生は必死でそれをこらえた。自分が優位に立っていることを男に示したかったからだ。


 突き飛ばされた男は驚いたように目を見開いていたが、体勢はそのままですぐにあの気味の悪い笑顔へと戻っていた。

 それをみた弥生は、自分の頭に血がのぼっていくのがわかった。

 活発になった脳から暴力的な指令が体へと送られる。その指令に身を任せ、弥生は男の腹部を思い切り踏みつけていた。


 男の口から「ギッ」という奇妙な音が漏れる。それは、以前誤ってカエルを踏みつぶしてしまったときに聞いた断末魔の鳴き声に似ている気がした。

 弥生は、全身の毛が逆立つ感覚を味わいながらも、もう一度男の体を踏みつけた。

 男の皮膚を通して、肉だか内蔵だか定かではないが、生ぬるい感触が足の裏に伝わる。


 男は再び言葉にならない声をあげ、苦しそうに涎を垂らしている。それなのに、顔にはやはりあの笑みが浮かんでいた。


「なんで笑っているの? ねえ、なんで!? なんで!」


 弥生はたまらず声を荒らげるも、その足は男の体を踏み続けていた。


 不意にゲラゲラと下品な笑い声が耳に届く。それは、弥生が踏みつけている男から発されたものではなかった。そうわかっているはずなのに、暴力を振るうという興奮で体はいうことをきかなくなっていた。


「笑うな! 笑うな! 笑うな!」


 一言ごとに男の腹に向けて右足を踏みおろす。そのたびにビクンビクンと男の体は跳ね上がった。

 繰り返し踏みつけた後、再び男の顔を確認してみる。だが、その顔を見た弥生は思わず息を飲んでしまう。

 というのも、やせ細った男の顔が、いつのまにか弥生自身とまったく同じ顔に変化していたのだ。

 男の体は細く痣だらけのままなのに、顔は自分と瓜二つの造りで、あの気味の悪い笑みを浮かべ、こちらをじーっと見上げていた。その様子はまるで、弥生の姿を醜く写す捻れた鏡のようであった。


「ひいぃー!」


 訳の分からない出来事に混乱し、なさけない声が自然と出てしまう。自分と同じ顔が、あんな気味の悪い笑顔を作っていることを認めたくなかったのだ。

 そして、恐怖の感情のままに、ついにはその顔に向かって足を踏み落としていた。


 腹部を踏みつけていた時とは明らかに違う、堅い骨がギシギシと軋む音が、足の裏からの体へと流れ伝わる。その刺激は、弥生の中の恐怖心をいくらか和らげてくれているようにも感じた。

 弥生は男の顔についた皮膚を剥がすかのように、そして恐怖を打ち消すように、何度も何度も男の顔面を踏みつけた。


 時折、歯であろうか、なにか硬く尖った部位が足裏に当たり、痺れるような痛みを感じる。それでも、弥生は踏みつけるのをやめることはできなかった。

 そのころになると、弥生自身にも今の自分を突き動かしているのが恐怖なのか怒りなのかわからなくなっていた。


 とにかく踏みつけた。


 右足に男の血がドロドロとまとわりつき熱くなる。


 構わず踏みつけた。


 ぶりゅっという音と共に男の顔からなにかゼリー状のものが飛び出る。


 それでも踏みつけた。


 誰かの慌てたような声が聞こえる。


 気にせず踏みつけた。


 その顔が醜く潰れるまで、何度も、何度も。

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