アンテナさん
翌日、礼雄を送り出すと早速お隣の家のインターホンを鳴らした。
「はーい。あら、渋谷さんじゃない。どうかされたの?」
玄関から顔をのぞかせたアンテナさんは、朝早くの訪問であるにも関わらず、ひとつも嫌な顔は見せなかった。
「あ、アン……安西さん。お、おはようございます」
インターホン越しに待ちかまえていたので、虚を衝かれる形になってしまった。そのため、思わず「アンテナさん」という秘密のあだ名で彼女を呼んでしまいそうになり、弥生はひとりであたふたしてしまう。
「あらあら、落ちついてください。なにかありましたの?」
「いえ、特になにかあったというわけではないんですけど、昨日、安西さんに教えてもらったお蕎麦屋さんの出前をとって食べたんですよ」
とりあえず、自分を落ち着かせるためにも、弥生は昨日の蕎麦屋の話で様子を窺うことにした。
「あー、
この言葉を聞いてわかる通り、アンテナさんはひとつ声をかけると、その倍以上の答えを返すのが特徴である。悪い人ではないのだが、会話をしているだけで疲れてしまうというのが、弥生の本音であった。
「ええ、本当においしかったです。それでお礼をいっておこうと思いまして……」
「やーだ、私は自分がおいしいと思ったお店を勝手に薦めただけよ。ご近所付き合いっていうのは情報のやりとりなんだから、そんなこと気にしなくていいわよー。だけど、もし渋谷さんがそういった情報を仕入れたら、そのときは私にも教えて頂戴ね」
「わかりました。いいお店を見つけたら、すぐに安西さんに紹介しますわ」
話の本題に入るべく、コホンと短い咳払いをする。
「じつは、今日はひとつ安西さんにお尋ねしたいことがありまして……」
「あら、なにかしら。評判のお店だったらまだまだお教えできるけど……。だけどねー、私と渋谷さんとじゃ年齢が違いすぎるから、必ずしもお口に合うかはわからないわよ。歳をとっちゃうとどうしても薄味しか受け付けなくて、本当にダメよね。若い人はやっぱり、ガッツリ系っていうか、味が濃いほうがいいんでしょ? そうなると満足いくお店を紹介できるかはわからないわよ?」
「いえ、お食事どころを探しているわけではないんですよ」
「あら、そうなの? いやだわ、私ったら早とちりしちゃって。じゃあ聞きたいことっていうのは?」
「この前、この近所に元刑事の方が住んでいるとおっしゃっていたじゃないですか? その方のご住所を教えていただけないかなと思いまして」
不意に、アンテナさんの目がキラリと光ったようにみえた。
「あら、
忘れていた。アンテナさんがアンテナさんである由縁を。彼女の前で元警官のことを教えてほしいなんて言うのは、自ら噂の種を差し出しているようなものだった。ただ、そうはいっても、アンテナさんから情報を得なければ元刑事にはたどり着けないのも事実だった。
「いえ、そんな大した話では――」
「旦那さんのこと? それとも礼雄くんのことかしら? あら、でもそういう家族間のことを刑事だった方に相談してもあまり力になれないんじゃないかしら。そういうのは私のほうが的確なアドバイスをあげられると思うわよ。なんたって、三人もの息子を育て上げましたもの。まあ、とはいっても、その息子もそれぞれ家庭を持ってから、帰ってくるのは正月くらいなのよね……」
「ですから、そういった相談じゃないんですよ」
「あら、そうなの。じゃあ、笹野さんにいったいなんのご用事?」
アンテナさんは明らかに落胆した顔をして訊いてきた。
「最近、この近くに不審者がでてるっていうじゃないですか。ですので、なにかあった時に――その、笹野さんですか? その人に力になってもらえるかなと思いまして」
「不審者! そうなのよ! 私も変な男を見たわ。一昨日だったかしら、つるっぱげの若いお兄ちゃんが、その角でぼーっと突っ立ているのよ。本当になにをするでもなく、ただ立っているだけなのよ? おかしいでしょ? 私、そのとき社交ダンスの帰りだったんだけど、もう怖くて怖くて、疲れているのに早歩きで通り過ぎちゃったわよ。あれって絶対に不審者よね」
アンテナさんは、昨日の朝に弥生がケンジを見つけた同じ場所を指すと、興奮気味に語った。
「私の夫も怪しい人を見かけたっていうんで、元刑事の方に見回りでもしていただけたら心強いかなと思っているんですよ」
「そうねぇ。でも、笹野さんって見た目は本当にごく普通のおじいちゃんて感じじゃない? ――ああ、渋谷さんは会ったことないんだったわね。本当に普通よ。昼下がりの河原でゲートボールでもしていそうな感じ。あの人じゃ、不審者を見つけても取り押さえられそうにないと思うわよ。私、昔に合気道をかじっていたから、もしかしたら笹野さんより私のほうが強いかもしれないわね」
「そうなんですか? でも、いろいろ防犯のことも聞いてみたいですし」
「うーん、まあそれもそうかもしれないわね。それに笹野さん独り身で、結構寂しい老後をおくっているようだから、渋谷さんがお話相手にでもなってあげなさいな。最近、身寄りのない老人の孤独死とかよくニュースになるじゃない。本当に嫌になっちゃうわよね。ああいうの聞くだけで私、涙がでちゃうわ。歳をとると涙もろくなるってよくいうけど、あれ本当ね。感動ドキュメントなんか観ちゃうと、ティッシュがいくつあってもたりないもの」
先ほどから、アンテナさんの話す内容があらぬ方向に飛んでいくので、なかなか話が進まない。弥生は心のなかで舌を出しながらも、辛抱強く話につきあった。
「――それで、その笹野さんのお家というのはどの辺りなのでしょうか?」
弥生がもう一度その質問をすることができたのは、最初の質問から二十分程経過したところであった。途中、なぜか地球温暖化などの環境問題にまで話が飛んでしまったので、そのたびに方向を修正を試みるのは骨が折れる作業といえた。
「え? ああ、そうだったわね。三角公園はわかるわよね?」
「はい。バス停近くにある、遊具が滑り台と砂場しかない小さい公園ですよね」
礼雄を遊ばせたことが何度かあったのでその公園のことはよく知っていた。
「そうそう、その小っこい公園。私、たまに近所をジョギングしているんだけど、三角公園でよく休憩するのよ。それで、そこで初めて笹野さんに話しかけられたの。笹野さん、最近引っ越してきたばかりで話し相手もいないなんて言うもんですから、少しお話してあげていたら、実は元刑事なんですっていうもんだからびっくりしちゃったわよ。私、生まれてきてから警察にやっかいになったことなんてなかったから、妙に緊張しちゃったわ。もちろん、なにか
「……あの、それでお家の場所は?」
やはり話がずれてしまうので、弥生はもう一度質問をする。
「ああ、お家ね。その三角公園の前の通りの端っこの青い屋根のところが笹野さんのお家よ」
「三角公園の近くとなると、歩いても十五分くらいで着く距離ですね。それなら、今日にでも伺ってみようかしら」
昼過ぎには礼雄が帰ってきてしまうが、その程度の距離なら時間の余裕は十分にあるといえた。
「あら、それなら私が笹野さんに電話して、渋谷さんが訪ねるって伝えといてあげるわ」
「それは助かります。では、お昼前には伺うということをお伝えしてください。今日はありがとうございました」
ようやく用件を終えた弥生は、アンテナさんが再び話し始める前にそそくさとその場を後にしたのだった。
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