イチロー
渋谷家には明かりが灯っておらず、そのことが主である雅雄がまだ帰宅していないことを告げていた。機嫌が悪かった夫を待たせていたら嫌だったので、弥生はほっと胸を撫で下ろす。
鍵を開け玄関口に入ったところで、弥生はあることに気づいた。
今日は午前中からから出かけていてので、イチローに昼の餌と水をあたえていなかったのだ。普段なら一日餌をあたえなかっただけで衰弱することはないだろう。だがこの暑さだ。脱水症状などを起こしていることも十分に考えられた。
「礼雄。ママはイチローにご飯あげてくるから、ケーキはひとりで食べててくれる?」
「はーい」
「お皿やフォークの場所はわかるわよね?」
「うん、わかるよ」
「じゃあ、気をつけて持つのよ」
そういって差し出したケーキの箱を、礼雄は繊細なガラス細工を扱うかのように受け取る。そして転ばぬように、だけどもなるべく早足で、リビングの中へと消えていった。
その後ろ姿を見届けると、弥生は再び外に出る。そして、庭へ向かおうと数メートル歩いたところで、慌てて玄関の鍵をかけに舞い戻った。弥生が帰宅したこの状況で、押し入ったりなどの直接的な行動をケンジが起こすとは考えにくかったが、防犯意識を常に持っておくことは笹野との約束だったのを思い出したのだ。
しっかりと施錠されたことを確認すると、改めてイチローが待つ庭へと足を向けた。
どうせ、定位置である柿の木の下でふてくされたように丸まっているのだろう。あるいは、餌をあたえ忘れた自分に向かって、責めるように吠えたててくるかもしれない。
そう思いながら庭へと踏み込んだ弥生を出迎えたのは、丸まったイチローでも、耳障りな鳴き声でもなかった。
異臭。
土が腐ったような臭いが止めどなく鼻の奥へと流れ込む。弥生にとって、鼻につくけどどこか懐かしい、そんな臭いだった。
なぜか頭に父親の姿が浮かんだ。
父親の口から漏れるアルコールが混じった吐息が鼻元へと吹きかかる。そんな過去の思い出が連想された。
弥生はブルブルと頭を左右に振って、そんなくだらない思考を外に追いやると、鼻をひくつかせながらその臭いの根源を辿った。
すぐに臭いの元は見つかった。
薄暗くなった空の下でもはっきりとわかる、息を飲むほど鮮やかな赤。その赤色が柿の木から辺り一面に広がっていた。
何度か見たことがあったので、すぐにそれが血だと気づく。そして、その血液の主がイチローであることもすぐにわかった。血溜まりの中心に茶色と白の毛で覆われた塊が横たわっていたからだ。
弥生は悲鳴をあげそうになるのを必死でこらえ、イチローの元へと駆け寄る。
見ただけで死んでいるのは明らかだった。腹を切り裂かれ、そこから内蔵がだらしなくはみ出ている。毛に固まりこびりついた血と冷たくなった肉体が、イチローが死期を迎えてからだいぶ時間が経っていることを示していた。
弥生は服が汚れることをかえりみず、イチローを抱きかかえる。その体は生前よりもずっと軽く感じられ、そのことがより死を実感させられた。
――地獄を見せてやる。
なんてことだろうか。脅迫状に書かれていたのは、このことだったのだ。すっかり、ケンジのこけおどしだとばかり思っていたので、弥生は不意をつかれるかたちとなっていた。
血みどろになりながらも、弥生は今後のことを冷静に考えた。
まず、ケンジがこの近くに隠れている可能性は低いとみていいだろう。イチローは死後数時間ほど経過しているようであるし、なにより今までのやり方からして、ケンジはこちらにじわじわと恐怖をあたえようとしている節がある。それならば、今日はこれ以上なにかが起こる可能性は低いように思えた。
そうなると、腕の中にあるイチローの死骸の処理方法が、最も早く解決すべき問題となってくる。
ケンジが関わっているため、警察に連絡することはできない。こんな無惨な殺され方をしている以上、動物病院や、葬儀屋に連絡することも、結局警察に行き着いてしまうので得策ではない。カラスの死骸のときのようにゴミと一緒に捨ててしまおうかとも思ったが、次の可燃ゴミの回収日は月曜なので、四日間も死骸を保管しなくてはならない。さすがに日数が多すぎるので、これも名案とはいえなかった。
このまま埋めてしまおう。それが一番の理にかなった行動、というよりも唯一おこなうことができる行動に思えた。
そう結論づけた弥生は、早速、庭いじりのために買って、そのままほったらかしになっていたスコップを物置から取り出す。そして、柿の根のあたりの血に汚れた地面を掘り起こした。
葛貫の時もこうやって土を掘っていたなと思いながら、固い土にスコップを差し込む。その経験が活きているのだろうか、さくさくと作業を進めることができた。それに、あのときは人ひとり分の大きさが必要だったが、今回は小柄な犬一匹だけなのだ。そう考えると、簡単に掘り進めることができるのも当然に思えた。
そういうこともあり、数分足らずで適当な穴が完成していた。
その穴の中にイチローの死骸を放り込むと、その上に掘り起こした土を戻し始める。
桜の木の下には死体が埋まっていて、その血を吸って花がピンクに染まるなんて都市伝説みたいな話があるが、この場合はどうなるのだろう。やはり血を吸って赤い柿でも実るのだろうか。
そんなくだらないことを考えでもしなければ、いやでも悪いことを考えてしまいそうだった。この後、雅雄との話し合いがあるのだからネガティブになるわけにはいかなかったのだ。
イチローの死骸がすっかり見えなくなったのを確認すると、被せた土をスコップの腹でで叩いて固める。パンパンと土と金属がぶつかる音が薄暗い空に溶ける中、弥生は不意に背中に突き刺さるような視線を感じた。
ハッと後ろを振り返ると、ダイニングの窓から礼雄がこちらを見つめていた。いつから見ていたのかは定かではないが、その目はどこか無機質で、普段の愛らしさは身を潜めているように感じた。
「ママ、なにしてるの?」
「あ、えっと……」
「イチローをうえているの?」
「埋めているっていうか、イチローはお星様になっちゃ――」
「イチロー、死んいゃったの?」
イチローの死をオブラートにつつむ言い方で伝えようとしたのだが、その前に礼雄がストレートに尋ねてくる。普段はチャーミングに思える舌足らずなしゃべり方も、このときばかりは不気味に感じてしまった。
「どうして死んいゃったの?」
「どうしてって……、その……」
「病気?」
「そ、そうなのよ。イチローも病気になっちゃったみたいね」
腹から内蔵をぶちまける病気があるのかは知らないが、礼雄にはそう伝えるしかなかった。
礼雄はそんなとんでもない話でも納得したのか「そうなんあー」と頷いている。
「明日でいいから、礼雄もイチローが天国にいけるようにお祈りしてあげてね」
「うん」
「じ……じゃあ、今日はもう寝ちゃいなさい。熱がぶり返さないようなら、明日からまた幼稚園いくんだから」
「はーい」
そういって、礼雄は本当にいつも通り右手を垂直にのばし、笑顔でその場を後にした。
子どもだから死というものを正しく理解していないのであろうことはわかっているが、息子のドライな対応に弥生はショックを受けていた。たった一年とはいえ、一緒に過ごしたペットが死んでしまったのだ。少しくらい感傷に浸ってほしかった。
弥生は心に昨日と同じような痒みを覚えていた。
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