第六章

亀裂


 雅雄が帰ってきたのは、イチローを埋め終わってから一時間ほど経ってからだった。そのため、染み着いた血のに臭いをシャワーで十分に洗い落とすことができた。


「礼雄は?」


 開口一番、夫が気にかけたのは息子のことだった。


「もう寝ているわ。熱はすっかり下がったけど念のためにね」


「そうか」


 雅雄はネクタイをはずし、リビングのソファーに腰をおろす。


「えっと、ご飯はどうする?」


「後でいいよ」


「そう。まあ、今日いろいろあって、ご飯ていってもスーパーの出来合いを買ってきただけだけど」


「いろいろって、なんかあったのか?」


「そういえば、あなたに連絡するのすっかり忘れてたけど、お母さんが階段から落ちて入院することになっちゃって」


「お義母さんが? おい、なんでそんな大事なことを連絡しなかったんだよ! 鍵の件もそうだったけど、ちゃんと連絡くらいしてくれよ!」


 連絡をするのを忘れていただけなのに、雅雄は弥生に対し烈火の如く怒った。


「ご、ごめんなさい。私、お母さんが階段から落ちたって聞いて、気が動転してて」


 そんなに怒ることないではないかとも思ったが、話し合う前から夫の気を逆撫でさせたくはなかった。そのため、弥生は慌てて謝罪の言葉を口にした。


「……いや、今のは俺のほうが悪かった、すまない。母親が入院なんて聞いたら誰だって慌てるよな。で、お義母さんは大丈夫だったのか?」


「ええ。足を骨折しちゃったみたいだけど、一ヶ月ほどの入院で退院できるっていう話だから心配らないわ」


「そうか。それくらいですんだんなら不幸中の幸いってとこか。入院することになったとはいえ、お義母さんも礼雄に会えて喜んでいたんじゃないか?」


 孫を甘やかす葉月の様子でも想像したのだろうか、雅雄はそういって苦笑する。


「それが礼雄は連れていかなかったから、骨折り損だって文句いっていたわ」


「あれ? 礼雄は留守番していたのか? 実家まで帰ったってことは数時間も出かけていたわけだろ? まさか、ひとりで留守番させていたのか」


「いやだ。そんなわけないじゃない。預けておいたのよ」


「ああ、アンテナさんにでも頼んだのか」


 雅雄は納得したように頷く。


「いいえ。今日は笹野さんにお願いしたのよ」


 笹野という言葉を聞いて雅雄の眉がピクリとあがる。そして、ひとつ短いため息をつくとこちらを睨むように見つめてきた。明らかに不満げな表情であったが、弥生にはその理由がわからなかった。


「なに?」


「あのさ、なんで笹野さんなんだよ?」


「え? なんでってどういうこと?」


「アンテナさんに頼めばよかったじゃん」


「ああ。アンテナさん風邪引いているのよ。だから迷惑になっちゃう――」


「だとしても! だとしてもだ! なんでその笹野ってじいさんに預けるって発想になるんだって聞いてるんだよ。だっておかしいだろ? たしか、そのじいさんの家って、ここから歩いて十五分くらいかかる距離にあるんだろ? それならもっと近所に頼める人くらいいただろ!」


 雅雄は鬱憤が爆発したかのように大声で怒鳴り散らす。


「それは……」


 もちろんケンジに狙われたら困るからという理由なのだが、それを知らない雅雄からしてみれば、たしかにおかしい話に思えてしまうのだろう。弥生は思わず言葉に詰まってしまうが、ここで言い淀んでいるわけにもいかなかった。


「ほら、元刑事さんだからなにかと安心じゃない」


「は? 元保育士ならともかく、なんで元刑事に子どもを任せて安心なんだよ!」


 雅雄の刺さるような鋭い反論は、まさにその通りで返す言葉もない。弥生はなんとか次の言い訳を模索し始めたが、雅雄を納得させれるようなものを思いつくことができず、最終的には黙ってしまっていた。

 しかし、雅雄がなぜここまで怒るのか。アンテナさんなら大丈夫で、笹野だとダメなのか、弥生には理解できなかった。

 雅雄は自分を落ち着かせるかのように、大きく深呼吸をしている。そして、決心したかのような表情で尋ねてきた。


「正直にいってくれ。お前、その笹野って爺さんとどういう関係なんだ?」


「え?」


 弥生は、しばらくの間、発言の意味がわからず困った顔で思案していた。だが、雅雄の真意を理解すると、自分の顔が熱くなっていくのがわかった。

 雅雄は、自分の妻が歳が三十以上離れている老人と肉体関係にあり、不倫しているのではないかと疑っているのだ。笹野に対し好意を持っているのはたしかだが、それはあくまでも頼れる父親的な存在としてだ。弥生が笹野のことをひとりの男性として見たことなど一度たりともなかった。


「あなた本気でいっているの? 悪いけど、あなたが思っているような関係なんてありませんから」


「ふん。じゃあ、お前はその爺さんのことをなんとも思っていないわけか?」


「ええ、あたりまえでしょ。歳がどれほど違うと思っているのよ」


「いいだろう。百歩譲ってそうだとしても、笹野って爺さんは間違いなくお前に惚れ込んでるんだろうよ」


「そんなこと……」


「ないって? いや、あるね。考えてもみろよ。一週間程前に知り合ったばかりの人間の子どもを普通預かるか? 鍵のことなんかもそうだ。なんで他人の家の防犯のことをそんなに気にしてくれるんだよ。しかも無償でやってくれるなんておかしいだろ」


「それは、元刑事だから……」


「その言い訳はもういい」


「言い訳じゃないわよ!」


「……そうか。じゃあ、決定的な証拠を出してやるよ」


 雅雄はそういってソファーを立ち上がると、リビングにおいてある電話の親機のほうに歩き始めた。


「ちょっと、なにをする気?」


 弥生の言葉を無視して、雅雄は黙々と電話機をいじっている。そして、しばらくすると弥生を手招きして、電話機のディスプレーを見せつけた。


「この一週間でこの番号からの着信、発信が異様に多い。もし、この番号にかけて笹野じゃない人間がでたなら、俺はお前のいうことを信じることにするよ」


 そういってこちらに受話器を差し出す。雅雄の顔を見返すと、お前がかけろと目で訴えていた。

 だが、弥生はそれを受け取ることができなかった。なぜなら、そこに表示されている電話番号は紛れもなく笹野のものであったからだ。こんなことになるなら笹野のとの通話記録は随時消しておくべきだったと今更ながら後悔していた。


 雅雄のいっているような淫らな関係では断じてないのだが、そんな誤解をとくには笹野との本当の関係を話すしかなくなる。すなわちケンジのことや、過去の殺人のことも話さなくてはならない。

 弥生にそんなことできるわけもなく、ただただ目の前に突き出された受話器を睨みつけていた。


「かけられないってことは、そういうことって考えていいんだな?」


 雅雄は怒りを押さえたような声と共にふっとため息をついた。


「ちが――」


「もういい。今日はもう終わりにしよう。俺は、どっかホテルにでも泊まってくるわ。さすがに気分悪いからな」


 そういって脱いでいた上着を再び羽織ると、玄関に向かって歩きだした。


「ちょっと待ってよ」


「今日は終わりだっていっているだろ。今後のこともふくめて、また明日にでも話そう」


 今後のこと。


 雅雄の顔を見る限り、明るい未来のことを話し合うつもりではないようだった。最悪の未来である離婚の二文字が嫌でも頭の中に浮かぶ。そんなことを考えていると、涙がこみ上げてくるのを止めることができなかった。


「……ねえ、待ってよ」


 なんとか絞り出したその声は、かさかさに掠れて今にも消え入りそうなものだった。

 耳に届いてすらいなかったのだろう。雅雄は、崩れ落ち咽び泣く弥生に目を向けることもなく家を出ていった。

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