笹野の想いは?


 雅雄が出ていった後も、弥生は狂ったように泣き続けた。本当は大声で叫ぶように泣きたいほどであったが、こんな時でも二階で寝ている息子のことを気にしてしまい、声を押し殺すように泣き伏せた。朝までこうしていようかとも思っていたが、一時間以上も繰り返し袖を濡らしていると、体内の水分が尽きたかのように不意に涙がピタリと止んだ。


 いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。まだ、できることがあるはずだ。そう考えた弥生は、電話機の前にまで歩みよる。

 弥生は受話器を手に持つと、いまだにディスプレーに表示されていた番号に電話をかけた。この番号が雅雄が出ていく決め手になってしまったわけだが、それでも弥生にとって唯一の頼りであることに変わりなかった。


「はい、笹野です」


 すぐにいつも通りの穏やかな声が弥生の耳を包んだ。


「夜分遅くにすいません。渋谷です」


「おお、渋谷さん。どうかなさいましたか。――まさか、ケンジが?」


「はい。じつは、家に帰って庭を見てみたらペットの柴犬がお腹を裂かれて殺されていたんです」


 先ほど見た、冷たくなったイチローの姿が頭に浮かび嫌な気分になる。次に雅雄や礼雄がそうなっている可能性もありえるのだ。それだけはなんとしてでも防がなくてはならなかった。


「なんと……」


「もう限界かもしれません」


 そう、限界だった。ペットとはいえひとつの命が奪われ、さらには夫も出ていったのだ。今までは、ケンジの出方を窺ってばかりだったが、もうこれ以上後手にまわるのはごめんだった。


「私、ケンジにお金を渡してしまおうかと思っています。それで、万事が丸く収まるならもういいかなと思って……」


「そんな、早まってはいけません。以前も申し上げたかとは思いますが、一度こういった脅迫に屈してしまうと、脅迫者というのはつけあがって二度、三度とまた脅迫を繰り返すものなのですよ」


「それでも、もうなにもしないなんてできないんです。……じつはお恥ずかしい話なんですが、夫が出ていっちゃったんです。なんだか、私が隠し事していることに感づいたみたいで。早く解決しないと私の大切な家族がバラバラになっちゃうかもしれないんです」


 夫が出ていったことまでも話し、限界が近いことも正直に吐露した。それでも、雅雄が笹野との関係を疑っているといことを話さなかったのは、本人に伝えるのはあまりにも失礼かと感じたためであった。


「大切な家族ですか……」


 寂しそうにぽつりとつぶやく。


「そうです。笹野さんもわかってくださいますよね? 家族の大切さを」


「ええ、もちろんです。……そうですね。大切な家族のためには、そろそろ本格的に行動を起こすしかないですよね」


 家族という言葉がだいぶ心に響いたようで、笹野はすんなりと弥生の案に乗ってくれた。


「ありがとうございます。……それでお金を渡すにしても、いったいどうやって渡したらいいかと思いまして」


「なるほど……。まあ、渋谷さんはケンジの住まいも知らないわけですしね」


「ええ。十年前の住所はだいたい覚えていますけど、さすがに今も同じところに住んでいるとは考えにくいですし」


「そうですな」


「それでひとつの案を考えてみたんですが、うちの郵便受けにお金の入った封筒を入れておくのはどうでしょうか? これだったらケンジが脅迫状を入れるときに気づいてくれると思いますし、会わなくてもすむから危険も少なく思うんですが」


「残念ながらそれは良案とはいい難いですね。私の考えでは、お金の受け渡しは一方的な押しつけではダメです。渡したのにうやむやにされてしまう可能性もありますからね」


 確かに郵便受けに入れていては誰が回収したかなどもわかりようがない。弥生は笹野に否定され、自分の考えの甘さに恥を感じた。


「なるほど。それもそうですね」


「……渋谷さんには内緒にしていたのですが、じつはこの前の金の受け渡しの日、ジェイソンからケンジの後をつけて彼の自宅を確認しておいたんです」


「え、それは本当ですか? なんでそんな大事なことなんで教えておいてくれなかったんですか?」


「申し訳ない。渋谷さんに教えたら、ひとりでそこに向かってしまう可能性もありましたから、いざというときまで黙っておこうと決めていたんです」


「……私のことを考えてのことだったんですよね。こちらこそ責めるようないいかたをしてしまってすいません」


「いえ、隠していたのは事実ですから謝らないでください」


 笹野は本題にはいるかのようにひとつ咳払いをする。


「ですので、明日の朝に私の家に来ていただけませんか? ケンジの住所をお教えするのと、お金のほうもお渡ししたいですから」


「お金?」


「ええ。念のために、要求された八十万より二十万多い百万円を少し前から用意しておいたんです」


「そんな。お金は自分で用意しますので大丈夫ですよ」


「いえ、渋谷さんの話を聞く限りでは、私の用意したお金を使ったほうがいいと思われます」


「といいますと?」


「旦那さんは渋谷さんの行動を怪しんでいるとおっしゃってましたよね? そうなると、この時期に貯金の額が大幅に変動するのは、さらなる疑いを持たれてしまうおそれがあります」


「ですが……」


「まあ、渋谷さんが躊躇する気持ちもわかります。……では、百万円はお譲りするのではなく、お貸しするということではどうでしょうか? 気が向いたときにちょっとずつ返していただければ構いませんので」


「……そういうことでしたら、はい」


 笹野の提案に弥生は素直に頷いた。


「本音をいうと、八十万なんて大金どうしようかと思っていたんで助かります」


 しかし、弥生にはひとつの疑問が浮かぶ。笹野がどうしてここまでよくしてくれるのかということだ。葉月がきっぱりと否定したため、笹野が自分の父親でないことは確かである。ふつう、そんな赤の他人、それも出会って一週間ほどの人間に百万円なんて大金を貸したりするだろうか。


 ――笹野の爺さんは間違いなくお前に惚れ込んでるんだろうよ。


 雅雄の言葉が頭をよぎる。

 まさか、本当にそういうことなのだろうか。誰かに好かれること自体は悪い気はしないが、自分には家庭があるのだ。しかも、親子ほど歳の離れた人に好かれても、こちらにはそんな趣味など微塵もない。


 すべて片が付いたら笹野とは距離をおくようにしよう。弥生はそう心に決めた。


「それでは、明日お待ちしておりますね。大丈夫、明日でこの悪夢を終わらせましょう」


 笹野の言葉を聞いて、出尽くしたと思われていた涙が、再び弥生の頬を伝った。

 だが、自分自身にもその涙が笹野の優しさによるものか、笹野との別れを決めた寂しさによるものかわからなかった。

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