にんいん入りの熊カレー
弥生は、礼雄へのおみやげのケーキを買って笹野宅へと向かっていた。
時刻は午後6時を回っており、雅雄との話し合いの約束もあったので、歩く速度は自然とあがっていた。
「ふう」
不意にため息が漏れる。
ただ、それも仕方ないように思えた。なにせ今日はいろいろとショッキングな出来事が多すぎた。四通目の脅迫状に母親の怪我。それから、父親は幼い弥生にイタズラをするような最低な人間で、すでに死んでしまっているということもわかった。さらには、葛貫の母親である可能性が極めて高い、芳恵という人物にまで会ってしまったのだ。
こんなに嫌なことだらけの一日だったが、ほっとしたことがひとつだけあった。
それは、葉月の怪我が今回のケンジの脅迫の件とはなんの因果関係もなかったということだ。結局は早とちりだったわけなので、笹野に説明するのは少し恥ずかしいものがある。だが、今朝の脅迫状はただのこけおどしだとわかったのだ。それだけでも、弥生にとっては嬉しい事実といえた。
「ママー!」
三角公園前まで来たところで、聞き覚えのある声が弥生の耳に届いた。
前方を確認すると、礼雄と笹野がわざわざ家の外まで出迎えてくれていた。
「笹野さん。今日は本当にありがとうございました」
数時間振りの再会でしかないのに、礼雄はまるで十数年会ってなかったかのように懐に飛び込んでくる。そんな息子の背中を優しく包みつつ、弥生は笹野に感謝の言葉を述べた。
「いえいえ。それよりも、お母様の具合はいかがでしたか?」
笹野は相変わらず柔らかい物腰で尋ねてくる。
その姿を見て、弥生は少しだけ憂鬱になってしまう。
今まで、心のどこかでこの人が自分の父親なのではないだろうかという思いがあった。なにせ、人殺しの罪を黙認してくれているのだ。そんな妄想をしてしまうのもしかたないといえるだろう。だが、葉月の言葉でその願望はあっさりと否定されてしまった。しかも、本当の父親は笹野とは正反対の人物であることもわかってしまった。
笹野は父親ではない。そんな現実を突きつけられてから数時間しか経っていないうちに、その当人と顔を合わせ、弥生は勝手に気まずさを覚えていたのだ。
それでも、礼雄をこんな時間まで預かってもらっていた人に悪い態度は見せられない。弥生は努めていつも通りの口調で返した。
「足を骨折しているだけで、いたって元気そうでした。それから、ケンジのことなんですけど……」
「やはりケンジの仕業でしたか?」
「いえ。私の早とちりだったみたいで、自分で足を滑らせて落っこちただけでした」
「それはよかった。……いや、お母様が怪我なされているのによかったというのも不謹慎でしたかな」
そうはいっているものの、笹野の顔は心底ほっとしたものになっていた。
「ふふふ、いいんですよ。私もケンジが関係ないってわかって安心してますし……あ、そういえば、病院で葛貫の母親らしき人に会ったんですよ。彼女も入院していたみたいで、偶然にも私の母と同室だったんですよ」
「なんと……。それで、彼女はどういった様子でしたか?」
この奇跡的な偶然に笹野も驚きを隠せないようで、目を丸くしていた。
「どういったもなにも、葛貫の事件は発覚すらしてませんから、普通でしたよ。自分の息子が死んでしまっていることすら知らないんですから」
「まあ、そりゃそうですな。本当にたまたま同じ病院に入院したということでしょうな」
「それよりも、今日は礼雄がご迷惑などおかけしませんでしたか?」
「とんでもないです。ちゃんとお利口にしてましたよ。まあ、私もどう遊んであげたらいいのかわからなかったので、お借りしたDVDを多分に活用させていただきましたが」
「お昼からずーっと、いー・ぶい・いーを観てたよ」
礼雄が弥生の腹部に顔を埋めたまま、補足するようにしゃべる。
やはり、子育て経験もない笹野には礼雄の遊び相手というのは荷が重かったようだ。笹野が悪戦苦闘するも、最後は諦めてテレビのアニメキャラに助けを求める姿が容易に想像できた。
「ははは、面目ない。ですけど、夕ご飯は礼雄君のためにカレーをつくってあげたんですよ」
照れたように頬を掻いて笹野はいった。
「まあ。夕ご飯までつくっていただいたんですか? ありがとうございます」
「ちょっと早めの夕飯になってしまいましたがね。というのも、知り合いのマタギから熊肉をいただきましてね。それを礼雄君にも振る舞ってあげたいなと思いまして」
「へー、熊肉ですか。礼雄どうだった? おいしかった?」
弥生はマタギというのがなにかはわからなかったが、話の流れを切るのもなんだと思い、礼雄へ感想を尋ねる。
「うん。おいしかったよ! それから、礼雄、にんいんも全部たべたんあよ」
礼雄は、ようやく顔をあげてこちらを見返すと、褒めてくれといわんばかりに、目をぱあっと見開いた。
礼雄の人参嫌いは筋金入りで、どんなに細かく刻んだり、調味料でごまかしたりしてもすぐに吐き出してしまうほどだった。弥生が、礼雄に人参を食べさせようと試行錯誤した料理には手すらつけてくれないことも多いので、笹野のカレーがいかに魅力的だったかがよくわかる。それでも、自分の手で人参嫌いを克服させたいという思いもあったので、少しだけ悔しを感じていた。
「わー、さすが一年生。偉い偉い」
そんな感情を隠すように礼雄の頭をくしゃくしゃとなでてやると「ふひひひ」と嬉しそうな声で応えてくれた。
「よかったら、渋谷さんもどうです? 熊カレー」
「そうですね……。でも、今日は遠慮しておきます」
本当は、実家に帰ったり、病院に行ったりで昼食は食べておらず腹ぺこだった。だが、もうすでに日も暮れかけていたので、笹野の薦めをやんわりと拒否する。
「そんなこといわずに、食べてもらえませんか? ちょっと作りすぎちゃったんですよ」
相当な自信作なのだろうか、笹野が珍しく無理強いしてくる。ここまでいわれると、どんなものか食べてみたくなってしまう。
それでも、今日は雅雄との約束もあるので「あんまりおなか空いてなくて」と、失礼にならない程度の嘘をついた。
「そうですか。……残念です」
笹野もこれ以上に無理に勧めることはなかった。だが、明らかに落胆しているようで、小柄な体がいつも以上に小さく見えた。
「……あ、そういえば、笹野さんにもケーキを買ってきたんですよ。よかったらどうぞ」
弥生は話題を変えるためにおみやげのケーキを差し出した。
「すいませんな、気を遣わせてしまって」
「駅前で評判のケーキ屋さんなんで、笹野さんのお口にも合うかと思いますよ」
実は弥生自身もそのケーキ屋で買い物するのは初めてだったのだが、なにせアンテナさんのご推薦なのだ。間違っても不味いなんてことはないと確信していた。
「ほう。では遠慮なくいただきます」
甘いものが好きなのだろうか。笹野は少年のような満面の笑みでケーキの箱を受け取った。
その様子を見ていた礼雄が、慌てた顔をして尋ねてくる。
「ママー。礼雄のは?」
「心配しなくてもちゃんとあるわよ」
弥生はそういって、かかげるようにもうひとつのケーキの箱を息子に見せつけた。
「わー。早く帰って食べよー」
礼雄は我慢できないらしく、弥生の手を引っ張って家路へと向かわそうとする。
「もう。しょうがないわね」
弥生はたまらず苦笑してしまう。
「じゃあ、私達は帰らせてもらいますね」
「脅迫状の件もありますし、お家までお送りしますよ」
「歩いても十五分くらいの距離ですし大丈夫ですよ。それに、今日は礼雄を預かってもらいましたし、これ以上ご迷惑をかけられませんもの」
「そうですか……。わかりました。でも、十分に気をつけてくださいね」
本当なら、家までついてきてもらったほうが安全であっただろう。ただ、今日ばかりは早く笹野と別れたい気持ちが強かった。笹野と一緒にいると、どうしても父親のことを考えてしまうからだ。
「はい。本当に今日はありがとうございました。ほら、礼雄。笹野さんにきちんと挨拶なさい」
礼雄は「笹野さん、バイバーイ」と、弥生の腕を左手で引っ張りながら、右手をブンブンと振り回す。
それに対し笹野は、気を害した様子もなく「うん。さようなら」と、にっこり微笑んだ。
本当にいい人だと思った。同時に、先ほどの熊カレーの件を申し訳なく思った。
父親でなかったことは残念ではあるが、笹野はいつだって力になってくれたのだ。それこそ父親のように。過去の最低な父親のことなど、もう考えるのはよそう。今、自分には笹野という実の父親以上に頼れる人がいるのだ。もし、明日になっても熊カレーが残っているようなら、そのときは遠慮せずにいただくことにしよう。
弥生はそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます