父親の顔


 学生の下校時刻とかち合ってしまったようで、帰りの電車内はとても混雑していた。だが、幸運なことに目の前に座っていた男性がすぐに降車したので、弥生は満員電車の中で立っていることをなんとか避けることができた。

 座席に深く腰掛けると、先ほど弥生が立っていた場所は乗車してきた人々によって埋められていく。


 弥生は、こういった状況になると、いつも自分がどこを見ていればいいのかわからずに困ってしまう。立っていれば窓を流れる景色を見て過ごすことができるのだが、座っていると目の前には他人の腰があるのだ。そんなものをじろじろと眺めていたら、不審者に思われてしまう可能性だってある。かといって、乗り物酔いしやすい体質の弥生には、本を読んだり、携帯電話をいじったりするのも、なるべく避けたい行為であった。

 しかたなく弥生は目をつむることにした。決して眠たかったわけではない。あくまでも寝た振りであり、瞳を閉じて自分の瞼の裏側の暗闇をジーッと見つめていた。

 だが、突然の母の入院で自分が思っていた以上に疲れていたのだろう。電車がゆりかごのように揺れているということも相まって、弥生はいつの間にか眠ってしまっていた。


 ――そして、夢をみた。


 それは、弥生が礼雄と同い年くらいの頃の、遠い過去の夢だった。

 母親の葉月は仕事にでも出かけているのだろう、弥生はひとり留守番をしている。

 しばらくはお気に入りのバービー人形を使って、ひとりでおままごとをしていた。だが、遊んでいる途中、ふとした拍子に人形の右腕が肩からはずれてしまう。


 弥生は、その人形のパッチリとした目が気に入っていたのだが、片腕がなくなった途端に、なんだかその目が見開いてこちらを睨んでいるようにみえてきた。

 恐怖を覚えた弥生は、辺りを見回して母の助けを求めたが、家には誰もいない。不意に自分がこの世界にひとりしかいなくなったような感覚にとらわれ、幼い弥生はわんわんと泣き出してしまう。


 どのくらい泣いていただろうか。辺りも薄暗くなり、日も傾き空が夕日で赤く染まった頃、玄関の扉が開く音が聞こえた。


 弥生は、母が帰ってきたと思い、涙を拭いて玄関へと出向く。

 だが、予想に反し、そこにいたのはヨレヨレのスーツ姿の醜く太った男だった。


「弥生、ただいまー」


 少し赤らんだ顔で男はこちらに顔を近づけた。なま暖かい吐息が吹きかかり、弥生は思わず顔を背ける。帰る途中に嘔吐でもしたのだろうか、ツンと鼻につく臭いが男の口から漏れていた。

 弥生はこの男が怖かった。いつも母に暴力を振るって泣かせていたからだ。弥生はこの男に殴られたことはなかったのだが、母がいなければ自分にその暴力が向くのではないかと、いつもビクビクしていた。


 そして今、ここに母はいない。

 危機感を覚えた弥生の目からは、自然と涙がこぼれていた。


 それを見た男は、面倒くさそうな声で「葉月ー!」と母の名前を呼んでいた。もちろん、不在の母から返事などあるわけがなく、男の大声がむなしく廊下に響く。


「葉月はまだ帰ってないのか?」


 男はそう尋ねてきたので、弥生は目を擦りながらも正直に頷く。

 すると、男はニヤリと笑ってこちらに近づいてきた。そして、弥生の頭に左手を乗せると、全身の毛が逆立ってしまうくらい優しい声でこういった。


「いい子だから静かにするんだよ」


 そして、空いている右手で弥生の頬をそっと撫で始めた。

 弥生には男がなにをしようとしているのかはわからなかったが、本能的に危険を察知し、逃げるように身をよじる。だが、男の左手が頭をがっちりと掴んでいるので、思うように動くことができなかった。

 その間も、男は蛞蝓なめくじが這うように右手をねっとりと動かし、弥生の顔を撫で回していた。


「ほら、パパがいいこいいこしてあげるからね」


 そういいながら、男の右手は、顎、首、肩、と次第に下がっていく。

 男の口からは「ふぅふぅ」と荒い呼吸が漏れている。目も大きく見開いており、弥生には先ほど片腕がもげた人形の瞳と同じに見えた。


「あああああー!」


 突如大声をあげると、男は弥生を押し倒し、その上に覆い被さった。

 男の重い体を一身に受けたため、呼吸が苦しくなり、弥生の意識はぷっつりと途絶えてしまう――


 ハッと目を覚ますと、電車は渋谷家の最寄り駅に着いており、他の乗客がぞろぞろと降りていくところだった。

 危うく寝過ごしてしまうところだったが、タイミングよく目を覚ますことができたようだ。弥生は持ち物を確認すると、前の人々に続き駅のホームに降り立った。


 夕方だというのに、外の空気がやけに暑く感じる。

 冷房でキンキンに冷えていた車内から外に出ていたためというのが、その感覚の原因であることは間違いない。ただ、弥生の心臓が激しい鼓動を繰り返して、血の巡りをよくしているというのも、ひとつの要因となっていた。


 ふと、弥生は自分の頬にひとすじの涙が流れていることに気づいた。


 恥ずかしさも相まって、いそいで涙を手の甲で拭うが、その矢先に目から新たな涙がこぼれ落ちる。なんども、なんども拭っていたが、ついには目に溜まっていた涙が、決壊したダムのように止めどなく流れ始めた。


 先ほどの夢――いや、現実の続きを思い出していた。


 男にのしかかられて気絶していた弥生が、意識を取り戻したのは金属音にも似た悲鳴によってだった。

 すぐにその耳障りな音の出所を確かめようと上体を起こす。すると、葉月が顔を真っ青にしながら、男に詰め寄っているのが目に入った。

 いつもは男に理不尽な暴力を受けても文句ひとついわずにいた母が、こんなに激昂していることに弥生は戸惑っていた。だが、それよりも違和感を覚えたのが自分自身の状態についてだった。

 一切の衣服をまとっておらず、重たい気怠さと痺れるような痛みが全身につきまとっていたのだ。なにより、口の中が妙になま暖かく気持ち悪い。


 自分の異変を不審に思いながらも、口内を洗い流すかのようにゴクリと唾を飲み込むと、そのなま暖かさが喉を通り、胃へと落ちるのがわかった。


 不意にドドドドドと音をたてて血液が体の中を巡っていく。そして、飲み込んだ唾が、胃液と化学反応して爆発したかのように胃が熱くなっていった。

 胃の燃えるような熱さに耐えきれなくなった弥生は、そのままの状態でゴボゴボと嘔吐してしまう。自分の体内から出てきた吐しゃ物であったが、その強烈な臭いで鼻がもげるかと思った。


 幼い頃の弥生には、その自分の体の異変がなんなのか理解できなかった。


 だが今ならよくわかった。あのとき、自分が実の父親に性的虐待を受けていたということが。

 弥生はそんな残酷な現実を思い出してしまい、ここが駅のホームであるにも関わらず泣き崩れてしまっていた。

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