ふたりの母


 弥生は四ノ倉病院に着くと、母の病室を受付で確認し、すぐにその場所へと向かった。


「お母さん! 大丈夫?」


 病室に飛び込むように入ってきた弥生に対し、葉月は目を丸くして驚いていた。


「まったく、なによー、そんな大声出しちゃって。個室ならいいけど、大部屋なんだから恥ずかしいじゃないのよ」


 相部屋の人とリクライニングベッドを起こして話をしている最中だったようで「娘なんですよ」と隣のベッドの婦人に弥生のことを紹介し始める。

 その様子は普段通りの母の姿にみえる。だが、右足に目を向けると、ガッチリとギブスで固定されて吊されていた。もし、これがケンジの仕業であったなら、弥生はケンジを許すことができないと思った。


「こんにちは」


 不意に葉月と話をしていた婦人がこちらに微笑みを投げかける。

 年齢は葉月と同じ五十代くらいであろうか。話をしているだけならもっと若くも見えるが、笑った時にできる目尻の皺は人生の経験値がくっきりと刻まれていた。

 ただ、葉月の話に対しての相づちの打ち方などは、どことなく気品に満ちており、どこかの令嬢のような印象も受けた。


 弥生は、そんな婦人に見つめられ、なんだか恥ずかしくなってしまう。すぐに「あ、こんにちは」と頭をさげるも、自分でも顔が赤くなっているのがわかった。


「でも、いいですわね。娘さんがすぐに駆けつけてくれるなんて」


「いえいえ、そんなことないですよ。この子、今でこそ結婚もして子どももいますけど、昔はすごいグレていたんですよ。本当に困った子だったんです」


 そういいつつも葉月の顔はどこか誇らしげだった。

 ただ、弥生にしてみれば、そんな隠しておきたい過去の話を他人にされるのは、恥以外のなんでもなかった。


「いいじゃないですか。今では立派になられているんですから」


「立派だなんてことはないですよ。まあ、人並みの幸せを手にしてくれてよかったなとは思いますわ」


「それだけで十分じゃないですか。私のところなんかもう何年も連絡すらつかないんですもの……って、せっかくの親子水入らずの時間を邪魔しちゃいけませんよね。ごめんなさいね」


 最後の謝罪は弥生のほうに向けられていた。

 別に迷惑というわけではなかったが、早くケンジのことを確認したかったのも事実なので、その心遣いはありがたかった。


「すいません。なんだか気を遣わせてしまって」


「いえいえ、ゆっくりしてくださいね。ふふ、私の家ってわけじゃないですけどね」


 婦人はそういって、ベッドの端に置いてあった文庫本を手に取り読み始めた。

 もしかしたら、おしゃべりな葉月に付き合っていただけで、最初から本を読みたかったのかもしれない。自分のせいではないにしても少し申し訳なく思った。


「はい、これ。わざわざ一回家まで行ってから、ここに来たんだからね」


 婦人の読書を邪魔してはいけないと思い、少しだけ声のボリュームを落とすと、着替えが入っている紙袋を葉月に差し出す。


「あら、もう家のほうにいってきたの? 私も読みかけの小説があったから、持ってきてもらおうと思っていたのに」


「もう。そんなのいいでしょ。また今度来るときに持ってくるから」


「わかったわよ。……そういえば礼雄ちゃんはどうしたの? 幼稚園、もうすぐ終わる時間じゃないの?」


「礼雄は近所の人に預けてあるから」


「なによぉ、どうせなら礼雄ちゃんも連れてきてくれればよかったのに。これじゃあ、本当に骨折り損のくたびれ儲けじゃない」


 うまいことをいったつもりなのだろう。葉月は満足そうな顔で弥生の顔を見返していた。

 とりあえず、こんな馬鹿なことをいえるのだから体のことは心配はいらないようだ。


 だが、弥生がここに来た目的はくだらないジョークを聞くためではない。階段から落ちた時の詳細を聞こうと思っていたのだ。

 だが、誰かに突き落とされたんじゃないかなんていうのは直接的すぎる。かといって、ケンジの情報を得ないまま帰るわけにもいかない。

 弥生はいろいろ考えたのち、葉月にこう尋ねた。


「ねえ、階段から落ちたって話だったけど、その時お母さんのほかに誰かいたりしなかった?」


 その問いに、葉月はきょとんとした顔でこちらを見返したかと思うと、堰を切ったように声をあげて笑い始めた。


「な、なんでそんなに笑うのよ」


「あー、ごめんごめん。だって、ほかに誰かいなかったって」


 葉月は笑って乱れた呼吸を大きく息を吸って整える。


「そんなのいるわけないじゃない。私が落ちたのは家の階段なんだから。ひとりで階段から落ちて、ひとりで骨を折って、ひとりで救急車を呼んだのよ」


「え?」


 階段から落ちたとしか聞いていなかったため、勝手に駅の階段とか、歩道橋の階段などの外での出来事だと勘違いをしていた。まさか、家の階段だったとは。

 ケンジだって、こっそりと家の中に侵入して、葉月が階段を降りている最中に、気づかれないように突き落とすなんて不可能に決まっている。

 そうなると、ケンジはこの件に関しては無関係ということになるだろう。ケンジからの脅迫状が届いた日に、たまたま母親が足を滑らせたというだけだったのだ。


「なんだ、家の階段だったの? 外で誰かを巻き込んだりしてたらどうしようって思ってたんだから」


「そんなことになっていたら、もっと申し訳なさそうにしてるわよ」


「そりゃそうだ」


 今度は二人で笑い合う。

 ケンジの脅迫状が届いてから、無意識のうちに気を張っていたのだろう。こんなに安心した気持ちは久々なように思えた。


「弥生は本当にそそっかしいんだから。いったい誰に似たのかしら」


「お父さんかもね」


 無意識のうちに発した弥生の言葉が、和やかだった二人の間にピリッとした緊張が走らせる。

 弥生は、今まで葉月に父親のことを聞いたことなどなかった。物心ついた時から父親の存在などなかったし、葉月からも「弥生が小さい頃に別れちゃったのよ」としか聞いてない。だから、父親については話してはいけないことだと思っていたし、知りたいと思ったこともなかった。


 それなのに、自然な流れでこの言葉を口にしてしまっていた。それは、張りつめた気が安堵によって緩んでしまったからというのもあったが、笹野という安心できる存在に出会ってから、父親のことを知りたいと思うようになっていたという理由が大きかったのであろう。

 本当はこんなことを聞くために母の元へ駆けつけたわけではない。だが、お父さんという言葉を口にしたことにより、自分の父親がどんな人だったかどんどん知りたくなっていた。


「そんなわけないわ」


 葉月は、先ほどまでとは比べものにならない低いトーンで娘の言葉を否定する。


「そんなわけないっていわれても、私はお父さんのことなにも知らないんんだもの。ねえ、私のお父さんってどんな人だったの?」


「どうしてそんなことを聞くの? 今までそんなこと聞いてこなかったじゃない」


「私だってもう物事の分別がつくおとなになったのよ。どんな人かくらい教えてくれたっていいじゃない」


「……だめよ」


 それでも葉月は首を縦に振ってはくれなかった。


「それならひとつ聞いてもいい?」


 聞いてみたかった。ずっと、もしかしたらと考えていたことをだ。

 可能性としては万が一どころの話ではない。でも、億が一その夢のようなことがあったら、弥生は嬉しくて小躍りでもしてしまうのではないかと思っていた。


「お父さんって、笹野って苗字だったりしない?」


 意を決して口から出した言葉により、心臓がバクンバクンと唸りをあげている。


「それで、仕事は暴力団担当の刑事じゃない?」


 その言葉を聞いても、葉月は動揺の色を見せることはなかった。ただ眉をひそめ、あきれ顔でこちらを眺めていた。


「違う?」


「弥生がなにを期待しているのか知らないけど、まったく違うわ」


「そっか……」


 こうもあっさり否定されると、自分でも万が一以下の可能性とわかっていたはずなのに、落胆せざるを得なかった。


「……そうね。今後変な期待を抱かせないように、少しくらいどんな人だったか教えておいたほうがいいのかもね」


 落ち込んだ様子の弥生を見て、葉月は諦めたように語り始めた。


「さっき弥生は刑事とかいっていたけど、あなたの父親はそれとは正反対の人だったわ」


 初めて葉月の口から父親の話を聞ける。それは弥生自身が望んだことのはずなのに、これ以上聞くのが恐ろしくもあった。

 笹野という可能性が消えた以上、どうあがいても理想の父親像に届くことなどないとわかっていたから。そして、淡く覚えている父親との記憶が、毒々しいほど濃く色づいた現実になってしまう気がしたのだ。


「お酒にだらしない人でね、家に帰ってくると体からアルコールの臭いがいつだって染み出ていたわ。そして、なにかというと私に暴力を振るった。いわゆるDVってやつね。飯がまずいだの、風呂がぬるいだの、本当にたわいない理由で鉄拳が飛んできたわ」


「そんな……」


「それでもあの人は、あなただけは殴ったりしなかった。だから、私さえ我慢すればいいと思っていたの」


 当時を思い出しているのだろうか、葉月の顔が苦々しく歪んだ。


「だけど! ……だけど、あの人はついにあなたにまで手を出したの」


「私にも……」


 憧れていた父親が自分にまで手をあげていたと知り、弥生はショックを隠しきれなかった。それでも、葉月の話をとめなかったのは自分が言い出したことなので意地になっていたのかもしれない。 


「私は、そのことを知ってすぐに離婚を申し出たわ。あの人は最初こそ拒否していたけど、私が今まで受けたDVの証拠を『出るとこ出てもいいのよ』って突きつけたらすぐに頷いたわ。それでめでたく離婚成立。慰謝料や養育費は一切なしだったけどね。今でこそ貰っておけばよかったって思うけど、その時は一刻も早くあの人から逃げなきゃっていう気持ちのほうが強かったから……」


「それで……その人は今どうしているの?」


 父親のろくでもない話を聞いた後では、さすがにお父さんと呼ぶことができなかった。それなのに所在を確かめたのは、父親が更正して、笹野のようなまっとうな人間になっている可能性を捨てたくなかったかもしれない。


「死んだわ」


 葉月はあっさりと告げた。


「離婚して三年くらいだったかしら、その報せがきたのは。なんでも、酔っぱらったまま車を運転して、そのまま電柱に突っ込んだらしいわ。死因を聞いたとき、本当にあの人らしい死に方だと思ったものよ」


 そういって葉月はため息混じりに笑った。

 その表情はスッキリとしており、まるで憑き物が落ちたかのようであった。おそらく、葉月自身も二十年以上もの間、娘に父親のことを隠していたことを気にしていたのであろう。


「だから、さっきいっていた笹野さんっていう人が父親っていうことはないわ」


「……そうだよね。ごめんね、変なこと聞いて」


「いいのよ。あなただって知る権利はあるもの」


「ありがとう」


 そうはいったものの、弥生は聞いてしまったことを後悔していた。なにも知らないまま妄想の中の父親に浸っていたほうがずっとよかったように思えたからだ。葉月も最後まで話さずにいてくれればよかったのにと、母に責任転嫁までしてしまいたくなる。


「……じゃあ、私もう帰るね。着替えは渡したし、あんまり遅くなったら、礼雄を預かってくれてる人にも悪いしね」


 変な空気になってしまったため、弥生は退室の意を葉月に伝えた。


「そう、わかったわ。それじゃあ、お隣さんにもちゃんと挨拶してね」


 お隣さんといわれてアンテナさんを思い浮かべたが、すぐに葉月のいっているのが隣のベッドの婦人のことだというのに気づいた。

 すっかり忘れていたが、この病室は大部屋で隣の話し声など筒抜けなのだ。今までの話を婦人に聞かれてしまったかと思うと、顔から火が出そうになった。


 葉月はそんなことを気にする様子もなく、婦人に声をかける。


「お騒がせしてごめんなさいね、葛貫さん」


 ぞわり。


 例えるなら、足下から数十匹のムカデが這いあがってくるような、そんな感覚だった。

 弥生は慌てて婦人のベッドの端にあるネームプレートを確認する。


 ――葛貫芳恵よしえ


 ただ同姓なだけ。そう思おうとしたが、こんなに珍しい苗字なのだ。十年前に殺してしまった葛貫幸介と無関係であるわけがないように思えた。

 ふと、先ほどの芳恵の発言が頭をよぎる。


 ――私のところなんてもう何年も連絡すらつかないんですもの。


 このことから考えるに、一番高い可能性はこの芳恵という婦人が葛貫の母親であるということだった。

 なんたる偶然なのだろうか。加害者の母親と被害者の母親が、同じ病室でベッドを並べているのだ。もちろん、事件すら発覚していないのだから、当の本人達がそんなことに気づくわけがないだろう。そうはわかっていても、弥生の手からは嫌な汗が止まらずにいた。


「あら、もうお帰りになるの? せっかくの親子水入らずなんですから、もっとゆっくりなさればよかったのに」


 芳恵は手にしていた文庫本を閉じると、弥生のほうを見た。

 葛貫を殺してしまったという後ろめたい気持ちがあったからだろうか。こちらに向けられたその目は、睨みつけているようにしか感じられなかった。


「どうも」


 居心地の悪さを感じそう返すのが精一杯だった。


 芳恵は、そんな無愛想にもみえる弥生の言葉に対してもニッコリと微笑んで会釈を返してくれた。その姿は様になっており、ハッと息を飲む美しさをもっていた。

 それでも弥生には、芳恵の目の奥が笑っていないように感じてしまう。自然と、黒く光るその瞳から目をそらしてしまう。


「じゃあ、今度は礼雄を連れてくるから」


 弥生は気まずさを感じ、慌てて葉月に話題を振る。


「約束よ。病院じゃ電話もろくにできないから、礼雄ちゃんの声もしばらく聞けないと思うと憂鬱ねー」


 葉月はそういって、思い出したかのように芳恵のほうに顔を向ける。


「あ、葛貫さん。礼雄ちゃんっていうのはこの子の娘。つまり私の孫なのよ」


「そうなんですか。お孫さんなんていいですわね」


「本当に礼雄ちゃんは私の生きがいなのよ。そうだ、写真見ます? いつも持ち歩いているの。ほら、見て。可愛いでしょ?」


 葉月は礼雄の写真を取り出すと、芳恵に孫自慢をし始める。

 弥生はそんな二人を残して静かにその場を後にした。

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