第二章

弥生の過去


 学生時代の弥生は今の幸せとはほど遠い状態だった。

 両親は、弥生が幼い頃に離婚していて母子家庭という環境で育った。

 離婚の理由は定かではないが、母の葉月は慰謝料などは受け取っていないようで、昼はデパートなどの清掃の仕事、夜はスナックで酔っ払いの相手をして日々の生活費を得ていた。そのため、弥生との親子の時間というものは、ほかの一般的な家庭よりも希薄なものになっていた。


 家庭をもった今なら、葉月が自分を育てるために必死だったというのが痛いほどわかる。だが、子供にはそんな親の苦労など理解などできないのだ。子供は親を経験したことがないのだから。

 学生の頃の弥生もそれは同じで、母親が仕事ばかりしているのは自分への拒絶だと感じていた。


 母親に嫌われたら、ひとりぼっちになってしまう。


 その思いから、小学生の頃の弥生はとにかく嫌われないように、できれば好かれるように考えて日々を過ごしていた。

 ただ、弥生は学校生活で結果を残せるタイプの人間ではなかった。学業も運動も平均以下の成績で、親が誇れるような娘とはいい難かったように思う。テストの点数もいつも低く、毎回見せるのは憂鬱であったが、葉月は「残念だったね。次はもうちょっと頑張ろうね」と優しく慰めてくれた。


 弥生は焦っていた。母はああいってくれるが、呆れられているのではないか、捨てられてしまうのではないか。幼心にそんな危機感を覚えていた。

 そこで、弥生が打開策として考えたのが、できる限り笑顔でいることだった。いつも笑っていれば好かれることはあっても、嫌われることはないとそう思っていたのだ。


 だが、そんな理由で作られた弥生の笑顔は、ほかの子がする純粋な笑顔とはやはり違っていた。人に媚びを売るような、偽り笑みでしかなかったのだ。

 最初のほうこそ曖昧な笑顔を返していてくれた葉月であったが、しだいに弥生の笑顔を見る度に苛立ちを隠しきれないようになっていた。弥生のほうも母の感情を察知し、嫌われたくない一心で、さらに作り笑いを顔に張り付けるという悪循環に陥っていた。


 決定的な事件が起きたのは、弥生が小学校六年生のときの母の日だった。


 その日、葉月が出かけたのを見計らって、自分の机の上のブタの貯金箱をたたき割った。この日に母へカーネーションを買うために、月々の少ない小遣いをこつこつ貯めていたのだ。百円玉ばかりで千九百円。これでどれだけの量の花束を買えるのかはよくわからなかったが、それをすべて財布におさめ、パーカーのポケットに入れると、スキップ混じりで花屋へと出かけた。

 目的の花屋でカーネーションの値段を確認してみると、思っていたよりも安く手持ちのお金で十本以上の花束が余裕で買えるようだった。すぐに赤いカーネーションの花束を頼むと、花屋の店員のお姉さんはにっこりと微笑んだ。


「偉いわね。お母さんにプレゼント?」


 その言葉に得意の作り笑顔で応えると、お金を払おうとポケットに手を突っ込む。だが、財布を取り出そうとした弥生は、ポケットの中の自分の手になにも触れないことに気づいた。

 サッと自分の顔から血の気が引くのを感じた。


 財布がない。


 花屋に向かう途中で落としてしまったのだろうか。もしかしたら、家に忘れたのかもしれない。

 弥生は、そんなことを考えながらただ立ち尽くしていた。


 お姉さんは、すぐに異変に気づいたようで「大丈夫?」と問いかけてきてくれた。

 だが、慌てている弥生にはそんな優しい声にすら耳に入らない。心配そうな顔をしているお姉さんになにも答えることもなく、すぐに今来た道を走って引き返した。

 家に戻る途中、財布が落ちていないか地面を確認しながら走っていく。だが、落ちているのは犬の糞くらいで目的の財布はどこにも見つからなかった。


 家に帰ると、すぐに心当たりを探してみるも見つけることはできない。弥生は途方に暮れてしまっていた。母の日なのにプレゼントすら用意できないなんて絶対に嫌われてしまうと思った。

 諦めきれなかった弥生は、改めてパーカーのポケットを弄ってみる。すると、硬い円形のものが指先に触れた。すぐに取り出して確認してみると、それは銀色に光る一枚の百円玉であった。


 天の助けだと思った。弥生はその百円玉を握りしめると、今度は落とさないように慎重に花屋へと向かった。

 だが、花屋に着いてすぐに弥生は愕然としてしまう。一番安いカーネーションでも一輪百二十円もしたのだ。右手に握りしめている硬貨一枚が全財産の弥生には到底買うことのできない値段であった。

 もう無理だと弥生はその場にしゃがみこんでしまう。涙がこぼれそうになるのをなんとか堪えていると、不意に後ろから声がかかった。


「どうかしたの?」


 振り向くと、先ほどの店員のお姉さんが心配そうな顔で覗き込んでいた。

 弥生は恥ずかしさを覚えながらも、今までの事情をすべて説明した。するとお姉さんは、こちらの目を見て優しく微笑んだ。


「そっか、大変だったね。じゃあ、今回だけ特別に百円でいいよ」


 お姉さんは、そういって弥生の手に一輪の赤いカーネーションを持たせてくれる。あまりにも嬉しくて、顔には久しぶりに作り物でない笑みが自然と浮かんでいた。


 弥生は足取りも軽く家へと戻ったが、一輪のカーネーションを見て不安を覚えた。


 たった一本で母は喜んでくれるだろうか。もともと十本以上買おうと思っていたのだから、一本では割に合わないような気がする。だったらどうするか。答えはひとつしかないように思えた。

 夕方になり、葉月が家に帰ってくると、早速そのカーネーションを手渡した。もちろん、その時のために鏡の前で三十分ほど練習した笑顔と一緒にだ。


「なんで、そんな顔をするの!」


 母は、弥生の顔を見るなりそう怒鳴りつけた。今思えば、葉月は、自分の娘の他人行儀な笑みを見るのが限界だったのだろう。悲鳴にもにた怒声を弥生にぶつけた後、手渡されたカーネーションをこちらに向かって投げつけた。


「親を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」


 予想とは正反対の反応に泣きそうになったが、ぐっと耐えて笑顔を維持する。


「ひとつしか買えなくてごめんなさい。でも――」 


 バチンとなにかが弾ける音で弥生の言葉は途絶えた。

 頬にビリビリと走る痛みで、ようやく自分が母からビンタを食らったのだと理解した。


 葉月は続けざまに肩を思い切り突き飛ばす。そして、尻餅をついた弥生の頭を今度は拳で殴りつけた。何度も。何度も。


「子供のくせに。子供のくせに」


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 弥生は自分の身を守るために亀の子のように丸まった。それでも、葉月は後頭部、背中、腕、ところ構わず殴り続ける。床には赤いカーネーションの潰れた花びらが、血溜まりのように広がっているのがみえた。


「子供のくせに。子供のくせに」


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 母からの暴力は、このかみ合わない言葉のやりとりとともに、実に二十分ほど続いた。

 理不尽だと思った。好かれるためにこちらは頑張ってきたというのに、あんなに苦労してカーネーションを手に入れたのに、その結果がこんな暴力だなんて理不尽だと思った。


 弥生が母から暴力を受けたのは、後にも先にもこの一回きりだった。だが、不安定だった親子関係を壊すのには十分すぎた。

 娘に手をあげた気まずさからか、葉月は今までよりも仕事の量を増やし弥生との時間をさらに削った。弥生のほうも自分の思いを理解してくれない母に対しての不信感が芽生えて、顔を合わせても作り笑顔すらできない状態になってしまっていた。

 中学生になっても関係は変わらずにいた。最低限の会話をするだけで、なるべくお互いに関わらないようにしていた。


 そんな状況ということもあり、弥生は必然的に非行の道に走ることになる。

 高校に入ると家に帰るのも苦痛になっていた。友人の家へ泊まることが多くなり、友人やその家族が心配してきたら、また別の友人の家へと渡り歩いていく。誰も都合のつかない日などはインターネットカフェへ安息の地を求めた。アルバイトをしていなかった弥生は、そのたびに葉月のタンス貯金からいくらかをくすねていたりもした。

 だが、葉月は弥生のことを咎めることはせず、見て見ぬふりをしていた。

 弥生のほうも、叱ることもしてくれない葉月を嫌っていたし、最低の母親だと思っていた。


 そんな頃に出会ったのが、ケンジと葛貫くずぬきという二人の男であった。

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