元刑事の笹野さん
昼前に家を出ると、外は雲ひとつない、まさに快晴といえる天気だった。そのため日差しも強く、無防備に歩いたら肌の弱い弥生はすぐに日焼けしてしまいそうであった。
お気に入りの白い日傘を広げると三角公園へと向かう。脅迫状が届いてから、きちんと外出したのはこれが初めてだった。弥生は少し歩いただけで、自分が浮き足立っていることがわかった。
頭の中は、ケンジにつけられているのではないか、あの角でケンジが待ち伏せしているのではないか、というような妄想で溢れかえっていた。そのため、三角公園の前に着くまでに、何度も振り向いて周囲を確認したりしていたが、結局それらしい人影を見つけることはなかった。
お昼前だからか遊具の少ない公園だからかはわからないが、公園にはひとりも人の姿は見あたらない。無人の公園というのはどことなく不気味で、これから重大な秘密を打ち明けることになるかもしれない弥生は不安が増していた。
「えーっと、この通りの端っこの青い屋根の家だから……」
弥生は、その不安をぬぐい去るように独り言をつぶやく。
目的の笹野の表札をかかげる家はすぐに見つけることができた。引っ越してきたばかりと聞いていたが、くすんだ壁の色や少し錆びている門扉から新築ではないのが一目でわかった。
一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと呼び鈴を鳴らす。
「はい、笹野です」
すぐにインターホン越しから穏和そうな声が聞こえてくる。緊張でいっぱいだった弥生は少しだけ気が楽になったように思えた。
「私、安西さんの隣人の渋谷と申します。笹野さんが以前警察で勤務されていたと聞きまして、今日は訪ねさせていただきました」
「ああ、はいはい、安西さんからお話は聞いてます。ちょっとお待ちくださいね」
通話を終えるとすぐに玄関の扉が開かれた。元刑事というので勝手に頑固そうで屈強な男を想像していたが、目の前に現れた人物はニコニコと笑顔を浮かべた、愛想のよさそうな老人だった。
笹野は身長は160センチくらいで、弥生よりも少し背が高い程度であった。髪の毛は前頭部がずいぶんと寂しいが、それでも見た目に若さを感じるのは、還暦過ぎにしてはピンと伸びた背筋と皺の少ないきれいな肌が要因であろう。
「えーっと、渋谷さんでしたかな?」
「はい。今日は突然伺うかたちになってしまい申し訳ございません」
「いえいえ。私は安西さんと違って無趣味な人間ですから、暇を持て余しているんで問題ないですよ」
そういうと笹野は薄い頭を恥ずかしそうにかいた。
「さあ、こんなところで立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」
「はい、おじゃまします」
弥生は笹野にいわれるままに家の中に上がり込んだ。客間に通されると、お茶をいれてくるので座布団に座って待っているように促される。
家の中は外観と同じく、くたびれた印象を受けた。引っ越して日が浅いためか物は少なく、部屋はやけに広く、そして寂しく感じた。
「いやあ、お待たせしてすいません。外は暑かったので、冷たい麦茶にしておきましたよ」
笹野は手にグラスが乗った盆を持ちながら、足で器用にふすまを開けて入ってくる。グラスの中の氷がカラカラと涼しげな音を奏でていた。
「ありがとうございます。でも、そんなにお気遣いなさらないでください。こちらが急に訪ねているんですから」
「いやあ、好きでやっていることですから。私は、あまり知り合いも多いほうではないですし、家に誰かが来てくださるだけで嬉しいものなんですよ」
そういうと笹野は寂しそうに肩をすくめた。
もしかしたら、この人はずっと仕事に追われる人生だったのかもしれない。そして引退したときにはなにも残っていなかった。だからこそ、人恋しいのに友人がいない、老後を楽しみたいのに無趣味、という矛盾した状態にいるのではないかと、弥生は勝手に考えていた。
「ご家族はいらっしゃらないんですか?」
「一回だけ結婚というものをしてみましたが、いかんせん、私が家庭をかえりみずに仕事ばかりしていたものですから、女房に愛想をつかされてしまいました。子供もひとりもうけたんですが、小さい頃に別れたっきりでもう数十年会っていませんね」
そういうと笹野は自嘲気味に笑った。
「……失礼なこと聞いてしまってごめんなさい」
「いえ、気になさらないでください。しかし、安西さんのお知り合いなんていうから、なんというか、私と同年代くらいのかたが来られるのかと思ってましたよ。まさか、こんな若くてお綺麗な方がいらっしゃるとは」
笹野はお世辞にしかとれない発言をしながらも、その頬はほんのり赤く染まっていた。
「そんな……。若いなんてことないですよ。私もあと数年で三十になりますし」
弥生はそういいながらも悪い気はしなかった。なにせ、雅雄とは結婚して八年も経つのだ。「綺麗」だの「可愛い」だのそういった甘い言葉にはさっぱり縁遠くなっていた。そのため、そういうありふれたお世辞にもついつい心が躍ってしまう。
とりあえず、笹野に悪い印象は受けなかった。これならばケンジのことも相談できそうだと思った。
「それで、今日はどういったご用事ですかな? 安西さんはパトロールしてくれとかおっしゃってましたが、安西さんの話では、いかんせん要点がつかめなくて」
笹野は膝をかばうようにゆっくり座りながら話を進める。
「その、笹野さんは、最近この近辺で不審者がでていることをご存じですか?」
本題に入り、弥生は改めて姿勢を正す。その重い雰囲気を察知したのか、笹野の表情は先ほどの照れ笑いからうってかわって真剣なものになっていた。
「いえ、私はちょっと知りませんでしたね。しかし、なるほど。今回のご相談というのは、その不審者というのがうろついているから、定期的にこの近辺を巡回をしてほしいということですかな?」
「安西さんにお話した建前上はそういうことです」
「といいますと?」
意味深な返しに笹野は広いおでこに皺を寄せる。
「その……、昨日、うちの郵便受けにその不審者からの手紙が入ってたんです」
「なんと。あなた宛にですか?」
脅迫状が届いたから相談にきたというのは、まったく想定していなかったのだろう。笹野は驚いたように目を丸くした。
「はい。内容はお金を要求するようなものだったんですけど、心当たりがまったくないんです」
「それで私に相談するためにここにいらしたというわけですか」
「ほかに嫌がらせも受けていないので、警察に行くのもどうかと思ったんです。でも、なにもしないのも不安になるじゃないですか。それで、元刑事の笹野さんならなにかいい案をだしてくれるのではないかと思いまして」
弥生は昨日ベッドの中で考えた理由をゆっくりと、そして丁寧に告げた。
「……なるほど。それで、その手紙というのは今日はお持ちなのですかな?」
「はい、これです」
ハンドバッグから茶封筒を取り出すと笹野へと渡した。笹野は封筒をざっと眺めると、中身を取り出しじっくりと読み始めた。
しばし無言の時間が続く。その緊迫した空気に、弥生はくっつくような喉の乾きを覚えた。それを麦茶で潤すと再び笹野の言葉を待つ。
笹野は、あの文字の少ないたった二枚の紙を五分以上、穴があきそうなほど調べている。ジェイソンまでの地図が描かれた最後の紙を読み終えると「なるほど」と、ようやく小声でつぶやいた。
「このジェイソンというとことには訪れたことは?」
「何回かいったことはありますけど」
「では、十年前というのになにか心当たりはありませんか?」
「まったくないです」
調べる方法などないのだから、とにかく知らぬ存ぜぬで通せば問題なく切り抜けられるはずだ。弥生はそう考えていた。
「あなたは一人暮らしですか? それとも家族と一緒に暮らしてらっしゃいますか?」
「結婚して息子もひとりいますが……」
家族の有無が脅迫状となにか関係あるのか、弥生にはよくわからなかったが、嘘をつく必要性もないので正直に答えた。
「旦那さんにはご相談を?」
「いえ。無駄に心配をかけるのもなんなので相談はしてません」
「うーん」
弥生の答えに納得していないのか、笹野は唸るような声を出すと、こめかみをぐっと押さえてしばらく沈黙した。その仕草は、客間であるこの場所が取調室ではないかと錯覚してしまうほどに緊張感を帯びていた。
「……申し訳ないが、本当のことを話していただけないでしょうか。嘘をつかれたままでは相談になんて乗りようがない」
笹野は眉を八の字にして、悲しそうな瞳で弥生を見つめてくる。
「う、嘘だなんて。私は本当に結婚してますし、子供もいます。嘘だと思うなら安西さんにでも確かめてみてください」
「違います。私はこの脅迫状に嘘があるといっているんです」
「どこに嘘があるっていうんですか!」
すっかり動揺してしまい、思わず笹野にくってかかってしまう。そんな弥生に対し、笹野は落ち着いた声で話を続けた。
「まず、この脅迫状を送ったのが、どうして最近噂になっている不審者からだと思ったのですか? この手紙には住所どころか差出人の名前も書いていない。もしかしたら、不審者とこの脅迫者は別人かもしれないじゃないですか。でも、あなたは不審者からだとはっきりおっしゃった。その理由はなんですか?」
「そ、それは、不審者の情報と同じ容姿の男がこの封筒を郵便受けにいれていたのを見たので……」
「ほう、この封筒を入れるところを偶然見ていたと? 確率はかなり低いように思えますが、まあ、いいでしょう。では、これがどうしてあなた宛だと思ったんですか? 宛名もない。十年前という重要そうなワードにも心当たりがないとおっしゃる。それにあなたは一人暮らしでもない。もしかしたら、旦那さんに宛てたものかもしれないですよね? それなのに、あなたは旦那さんにも相談せずに私の所へ来た。なぜです?」
「それは……」
元刑事の推理に対して、弥生はすでにいいわけのひとつも思いつかずにいた。
「渋谷さん。あなたは、私になにか情報を隠しているとしか思えないんですよ」
もう頭の中は真っ白でただ黙っていることしかできなかった。それでも笹野は演説をするかの如く話し続ける。
「前述させていただいたことから、少なくとも、渋谷さんは脅迫をされる覚えがあるはずです。しかも、その内容は警察に相談できないものでしょう。それを確信させる要素は二つあります。まずはこの文字。乱雑な文字とはいえ、こういった脅迫状に自筆で書く犯人はあまり多くはいないんです。捕まった後に筆跡鑑定なんかされたら完全に言い訳の余地がなくなりますからね。次に、金の受け渡しの場所。ジェイソンってたしかファミリーレストランですよね? 出入り口もひとつしかなく、防犯カメラだって確実にある場所を金の受け渡し場にするというのもどうも腑に落ちない。渋谷さんが警察に相談したらすぐに捕まってしまうでしょうからね」
笹野は手に持っている地図の書かれた紙を指でピンとはじくと、弥生に鋭く目を向ける。
「つまり、脅迫する相手が警察に相談しない、あるいはできないと確信しているからこそ、こんな脅迫状をだすことができるんですよ」
「……」
なにか反論すべく口を開くも、そこから言葉はなにもでてこない。弥生はなにか発言することを諦めると、ただ俯いて笹野の話を聞いていた。
「一枚目の紙に書かれていることから、あなたは十年前になにか犯罪に関わるようなことをしてしまったのでしょう。そして、この脅迫者は、その犯罪の目撃者、もしくは共犯者であると思われます」
まさか、この数枚の紙切れだけでここまで言い当てられるとは思ってもいなかった。さきほどまではどこにでもいそうな老人と思っていたが、矛盾を突きつける様はまさに犯人を追いつめる刑事そのものにみえた。
「……すいません、少し出しゃばりすぎましたかな。これまでの話はあくまでも私の推測ですから、もし間違っていたのなら謝罪します」
「……いえ」
ようやく言葉を発せたものの、なにが「いえ」なのか自分でもわからなかった。
「察するにかなり重たい話になるかと思いますが、よければ私に話していただけませんか? できるなら、私はあなたの力になりたい」
笹野の優しい声が弥生の胸をうつ。
脅迫状をもらってからというもの、だれにも相談ができずにひとりであれこれ考えてきた。だが、結局ひとりではなにもできないのが痛いほどわかっていた。
不意に弥生の目からポロポロと涙がこぼれ始める。自分の無力さと、笹野の優しい言葉を受けてほっとしたことが合わさって、涙という形となったのであろう。
そんな姿を見た笹野はオロオロと慌てているようだったが、しばらくすると弥生の頭を軽く撫で始めた。それは優しく暖かな手で、なんだか懐かしい感覚であった。
「渋谷さん、泣かないでください。あなたはなにも悪くない。私はなにがあってもあなたの味方ですから」
味方という言葉が弥生の心に反響する。
この人は味方になってくれるというのだ。信じてもいいのだろうか。いや、信じたい。どちらにせよ、ひとりではもう限界なのだ。弥生はそう結論づけると、ゆっくりと顔をあげて笹野に謝罪した。
「すいません。私、笹野さんに嘘をついていました。全部お話します」
弥生は涙を拭うと、すべてを語ることを決心した。
心の裏側に隠し続けた過去のすべてをだ。
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