気持ちのズレ


 午後6時30分。


 渋谷家に主である政雄の「ただいま」の声が響く。

 政雄は普段の帰宅時刻は早くてもだいたい午後8時~9時くらいで、MRという仕事柄、時には病院の先生との付き合いで午前様になることもある。そう考えると、本日の帰宅はずいぶんと早いものといえた。


「おかえりなさーい」


 弥生はそのことが嬉しくて、少し高めの声で出迎える。

 だが、政雄の顔を見て夫婦の気持ちにズレがあることがすぐにわかった。リビングに入ってきた夫は、なぜかとても浮かない顔をしていたのだ。


「おかえりなさい。早めに帰れるなら電話してくれればよかったのにー」


「ああ」


 政雄は、ソファーに投げるように身を預けると、埋もれるくらいに深く腰を沈めた。


「でも、今日の晩ご飯は親子丼だから、すぐにできちゃうんだけどね」


「そうか」


 こちらがわざと明るい口調で話しているのに対して、政雄はむすっとした表情で淡泊な返事しかしてくれない。


「なによ。どうしたの? 仕事でなにかあったの?」


「べつに仕事ではないよ」


 仕事ではない? では、それ以外のところでなにかあったということであろうか。


 嫌な予感が胸の中を侵食していく。弥生はその不安を振り払うように、努めて明るく振る舞った。


「なによー、気になるじゃない。なにがあったの?」


 声がわずかに震えている。それでも、平静を装うには問題ない程度であった。これなら政雄に気取られることもないであろう。

 だが、政雄はなにも答えてくれない。


「……なにがあったの?」


 仕方がないので、もう一度同じことを尋ねる。だが、今度は自分でも情けないほどに声が震えていた。


「会ったんだよ」


 雅雄がぶっきらぼうに放った言葉に、弥生は体中に寒気が走った。


 会った。たった一言だったが、なぜこんなにも恐怖を覚えるのか。

 それは人間がいつだって最悪の答えを一番最初に予想してしまうからだ。崖があれば落ちたらどうなるのだろうと思い、人を殺せば捕まった時のことを想像してしまうものだからだ。

 ならば、この場合の最悪とは? 


 決まっている。会った相手がケンジであるということだ。


 その最悪の想像が話の続きを促すことを躊躇わせた。それでも、弥生は続きを聞かなければならない。そうしなければ、その最悪が現実なのか、ただのくだらない幻想だったのかも知ることはできないからだ。

 悪い想像が心にこびりついているということは、同じくらいの悪い現実を見せられるよりもつらいことのほうが多い。なぜなら、現実は見つめて対処できるが、想像は考えることをやめない限り脳裏につきまとうからだ。


「……誰に?」


 こんな短い一言をいうのに、ここまで葛藤したと誰が思おうか。弥生は緊張した顔を隠すこともなく雅雄の言葉を待った。


「アンテナさんだよ」


「アンテナさん?」


 舌先が上顎にくっつくくらいに緊張していただけに、政雄のなんてことない返答に拍子抜けしてしまう。


 だが、すぐに次の疑問が浮かぶ。

 雅雄は、アンテナさんに会っただけで、なぜこんなにも不機嫌な態度をとっているのだろうか。アンテナさんはおしゃべりが過ぎるところはあるが、人を嫌な気分にさせるようなことをいう人ではないということを弥生はよく知っていた。


「さっき、アンテナさんが夕刊を取りに外に出てるところに、ちょうど俺が帰ってきたんだ」


 政雄はこちらを見ようともせずに成り行きを話す。その態度に少しカチンときたが、今は話を聞くことが先だと思い、突っかかておくのはやめておいた。


「それで、少し世間話をしてたんだよ。そしたら、アンテナさんが今日この家に笹野さんが来ていたっていうんだけど、本当か?」


「ええ。確かにお昼前くらいに笹野さんがいらしていたわ」


 政雄の不機嫌の理由が未だにわからず、困惑しながらも本当のことを答えた。


「なんで?」


「なんでって……。防犯チェックをしてもらおうと思って」


「ふーん。防犯チェックねぇ……」


「ねえ、なにがいいたいの?」


 政雄の挑発的な言い方に、弥生のほうも少し苛立ちながら尋ねた。


「いや、べつに……」


「べつにってことはないでしょ? そんな小馬鹿にするような言い方しておいて、なにがべつになの?」


「……前にもいったけど、お前、最近なんかおかしいぞ」


 政雄はこの会話の中で初めてこちらを向くも、そこにいつもの優しい眼差しはなかった。あったのは、まるで愚者を見るような冷たい目だけだった。


 なんでそんな目で見られなきゃいけないのだろうか。こちらは、ケンジに今ある幸せを奪われないように常に気を揉んでいるというのに。

 そう思うと、弥生はついつい大声で政雄に問いただしてしまっていた。


「おかしいってなによ? 自分の家の防犯に関心を持つことがそんなにおかしいことなの? 礼雄だっているんだから、そういうことに気を遣うのは当たり前じゃない! それっておかしいことだったの?」


「なにをそんなに怒っているんだよ。前まではそんなことくらいで怒鳴ったりしなかったぞ」


「おかしいっていわれて怒らないほうがおかしいでしょ! あなたのほうがよっぽどおかしいわよ! なに? あなたはこの家に泥棒でも入ったほうがいいっていうの? あなたが留守の間に私や礼雄が殺されればいいと思っているの?」


「なんでそうなるんだよ……」


 政雄は呆れたようにため息をつく。


 その仕草がよけいに弥生を苛つかせた。

 だが、その怒りを夫にぶつけることはなかった。先ほど出した大声で礼雄が目を覚ましたようで「どうしたのー?」とリビングにおりてきたからだ。


「なんでもないわ。風邪ひいているんだから礼雄は上で寝てなさい」


 弥生は感情を押さえながらいったので、どうしても冷淡な口調になってしまう。


「……ごえんなさい」


「おい。礼雄にあたることはないだろ」


 そういうと政雄は、妻を見るものとは思えないほどの恐ろしい目でこちらを睨む。


「あたってなんかないわよ」


「よし、礼雄。パパが一緒に寝てやるからな。上に行こうな?」


 政雄は、弥生の言い分を無視して礼雄に近づくと、優しい声でいった。


「……うん」


 母親に冷たくあしらわれた礼雄はすっかりしょげていた。下唇を噛みしめているところを見ると、泣くのを我慢しているのだろう。

 政雄は、そんな礼雄の背中を慰めるようにさすって、リビングを後にしようとした。


「ちょっと待ってよ。話が終わってないでしょ? 逃げるの?」


「今日はもう終わりだ。互いに冷静じゃないだろ。明日だ。明日、俺が帰ってからまた話そう」


 そういって政雄は背中を向ける。


「あと、今日はもう晩飯いいや」


「待って――」


 その言葉に反応することもなく、夫と息子はリビングをでていく。ガチャンと扉の閉まる音が部屋にむなしく響く。

 ひとり残された弥生は、ただその場に立ち尽くしていた。扉ひとつ先には夫と息子がいるというのに、その扉を開けてふたりを追うことができなかった。


 どうしてこうなった。そもそも政雄はなにに対して怒っているのだろうか。ケンジのためというは隠しているが、防犯の意識を高めようとしているというのは事実なのだ。それがそんなに気に食わないのだろうか。


 わからない。


 夫の気持ちも、ケンジの考えも、これからどうすればいいのかも弥生にはわからなかった。

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