第五章

母の事故


 木曜日。


 電話が鳴っている。


 その日は朝から嫌なことが重なった。

 政雄は、昨日の口論のこともあり、ほとんど会話することもなく会社へと向かった。唯一話したのは、礼雄の風邪のことで、熱は平温までさがったが様子を見るために今日も幼稚園は休ませると伝えると「そうか」と一言だけ返してくれた。

 もし礼雄がいなかったら、夫婦関係はもっと険悪なものになっていたかもしれない。そう思うと、家族崩壊の危機をつなぎ止めていてくれる息子がたまらなく愛おしく感じた。礼雄のためにも、この家庭の崩壊の危機を脱しなければならないと思った。


 だが、その決意を鈍らせるように悪いことが続く。

 政雄が出勤した後に、郵便受けを確認してみると四通目の脅迫状が届いていたのだ。


 ――地獄を見せてやる。


 茶封筒の中には、いつも通りボールペンでそう書かれた大学ノートが入っていた。

 こちらがこんなに苦しんでいるというのに、さらになにかをしようとしているのだろうか。しかも、予告めいた書き方なのでいやが上にも不安になってしまう。

 そのことを報告するために、すぐに笹野に電話をかけるも、出かけているのかコール音だけが延々と続くだけで、いっこうに応答がない。

 なにかあったらすぐに電話をくれといっておきながら、肝心な時には家を留守にしているなんて、なんてタイミングが悪い人なのだろうか。

 そう思いながらも、頼るべき人は笹野しかいないのは弥生自身もわかっている。そのため、彼のいいつけ通り、午前中は家の中でいつも通り家事をこなして、午後になったら改めて連絡をしようと考えていた。


 脅迫状のことは気になる。だが、家の中にいればケンジだって、こちらに手を出すことはできないはずである。もちろん、同じ鉄を踏むことがないように、礼雄に「あつーい」と文句いわれながらも、寝室の窓の鍵はしっかりと閉めておいた。

 あとは昼まで家にこもっていればいい。


 そう思っていたところで、電話が鳴った。

 笹野からかと思ったが、電話機のディスプレイに表示された番号はまったく覚えのないものであった。こうも嫌なことばかり続くと、どうしても悪い方向へと考えてしまう。


 ケンジが脅迫状では飽きたらず、脅迫電話をもかけてくる。可能性としては十分考えられるものであった。

 この電話をとってしまったら、状況が悪化してしまうのではないか。その思いが、弥生の受話器をあげる手を躊躇わせていた。


「ママー、えんわが鳴ってるよ?」


 鳴り続ける電話の音が気になったようで、礼雄がリビングにおりてきた。


「ええ。わかっているわ」


 息子に指摘された以上、このままコール音を静聴しているわけにもいかなかった。弥生は覚悟を決めると、ゆっくりと受話器を持ち上げた。


「もしもし?」


「もしもし。そちら、渋谷政雄さんのお宅で間違いないでしょうか?」


 電話の声は予想に反し若い女性のものだった。


「はい、そうですが」


「失礼ですが、奥様の弥生さんでいらっしゃいますか?」


「はい。えっと、どちら様でしょうか?」


「あ、すいません。私、四ノ倉しのくら総合病院のものなのですが……」


 四ノ倉総合病院。一瞬、雅雄の担当先の病院かとも思ったが、すぐに弥生の実家の最寄り駅の近くにある県立病院が同じ名前であったことを思い出した。

 そうなると、こちらに電話がくる理由はひとつしかないように思えた。


「母になにかあったのですか?」


「お母様のお名前は葉月さんでお間違いないですか?」


「ええ、間違いないです。それで、母になにかあったんですか?」


 新人なのだろうか。マイペースな病院の女性の応対に少し苛つきながらも、弥生は話を促した。


「お母様、階段で転んで足の骨を折ってしまわれたんです。それで、しばらく入院が必要になりまして」


 その言葉を聞いて、不意に弥生の頭の中に映像が浮かぶ。

 葉月が階段を降りている途中、そっと誰かが後ろに忍び寄り、その背中を思い切り突き飛ばす。ゴロゴロと転がる葉月の姿を見て、そいつは心底おかしそうに笑うのだ。その笑い声は、いつか聞いたケンジのものとまったく同じで喉の奥をクククッと鳴らすものであった。

 勝手な妄想だとわかっていたが、このタイミングのよさからいって、可能性はかなり高いように思えた。


「そんな……」


「葉月さんから娘さんが近くに住んでいるということだったので、よろしければ着替えなどの荷物を準備していただけないかと」


「はい。わかりました」


 近くといっても、実際は乗り換えも含めて電車で二時間はかかる距離なのだが、母のことが心配であるのと、突き落とした人物のことを一刻でも早く聞かなくてはという考えから、すぐにそれを了承した。


「それから、頭をうっていたようだったので、他にも検査してみましたが、特に問題はありませんでしたのでご安心ください」


「そうですか。よかった……」


 とりあえず命に別状はないということなので、弥生はほっと一息つく。

 そして、なるべく早く病院へ向かうということを告げ、電話を終えた。


 ――地獄を見せてやる。


 こういうことだったのか。

 こちらに対してなにかをするというわけでなく、周りの人間に危害を加え、弥生が苦しむのを見ているのだ。


 なんて卑怯で姑息なやり方なのだろう。礼雄に直接会ったのになにもしてこなかったことなどから、自分以外の人間には手を出してこないのではないかと考えてもいたが、どうやら思い違いであったらしい。しかも、その標的を年老いた母にするなんて、ケンジは十年前よりもずっと汚い人間になっているように思えた。

 このままでは、礼雄にも危害を加えてくる可能性もある。息子を家に残してひとりで母の元へと向かおうかとも考えたが、さすがにこの状況で何時間も留守を頼むのは不安だった。かといって、病み上がりの礼雄を連れていくのは気が引ける。


 となると、残る選択肢はひとつしかない。だれかに礼雄を預かってもらうのだ。

 そして、預ける人もひとりしか考えられなかった。ケンジが襲ってきても冷静に対応できる人物。

 笹野に再び連絡を試みるため、弥生は受話器を持ち上げた。 

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