殺人と指切り
マンションは想像していたものよりもずっと豪華で、八階建てのオートロックつきであった。エレベーターもついてはいたが、二人の住まいは二階の202号室ということで弥生達は階段を登り部屋へと向かっていた。
「なかなか豪華なところに住んでるんだね」
弥生は率直な感想を述べる。
「まあ、そうだね。でも俺たちの住んでいるの二階だから、上の階に比べたらずいぶん安いほうだよ」
ケンジは、後ろを金魚の糞のようについて歩いてくる葛貫に向き直る。
「十三万だっけ? 家賃」
「じゅ、十三万五千円だよ」
葛貫は遠慮がちに訂正をした。
「ちっ、五千円の誤差なんていちいち指摘すんなよ」
そう舌打ちをすると、ケンジは不意に葛貫の腰のあたりに回し蹴りをあびせた。
その蹴りの強さはどう見ても冗談の範囲を越えていた。葛貫は「ぐぅ」と空気が抜けるような音を口から漏らすと、その場に力なく膝をついた。
「ちょっと。そこまでしなくても」
ケンジが躊躇なく暴力を振るったので、さすがの弥生も心配になり、しゃがみ込んでいる葛貫に歩み寄った。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だって。こいつ慣れているから。な?」
ケンジは冷めた目で葛貫を見下す。
「う……うん。だ……大丈夫だよ」
葛貫は口の端から地面へと、だらりと粘つく唾液を垂らしながらも、未だに笑顔を崩さずにいた。
その光景を見ていた弥生は、怒りの感情を覚えた。唐突に暴力に走ったケンジにではない。その暴力にすら媚びへつらった笑顔で受けてしまう葛貫にだ。
「で、なんだっけ。ああ、金の話か」
ケンジはすでに葛貫に目すら向けていない。話しも自然に暴力を振るう前の内容に戻っていた。
「だけどさ、今ピンチなんだよね。今まではクズのお袋に生活費とかいって金を振り込ませてたけど、野郎が勘当されちゃったからさ、ちょっとここの家賃もきびしくなりそうなんだよね」
「はあ」
弥生は曖昧な返事しかできなかった。このまま二人の部屋についていっても嫌な思いしかしない。そんな予感がしていた。
「ほい。ここが俺らの部屋。どうぞお姫様」
ケンジは202とかかれた扉を開けると、弥生に対し大げさに頭をさげた。葛貫のほうも蹴られたわき腹を押さえながらも、手で入るように促している。もう後戻りはできない状況にあった。
入るしかない。
弥生がそう覚悟を決め部屋にあがると、すぐにリビングに通された。そこは十三畳ほどのフローリングで、部屋の真ん中には黒い革張りのソファーがあり、そのソファーと31インチのテレビを挟むように白い楕円形のテーブルが置かれていた。
「ふーん。男二人っていうわりには結構片づいているね」
「そりゃあ、クズ公が毎日掃除してるからな」
ケンジは早速たばこに火をつけながらいった。
「へー。結構きれい好き――」
弥生は思わず言葉を詰まらせ、唖然としてしまう。葛貫に声をかけようと振り向くと、その当人が着ているものを次々に脱ぎ始めていたからだ。
葛貫は、そんな弥生のことなど気にするでなく、黙々と衣類を脱ぎ続けていた。
ふと、ひとつの考えが頭をよぎる。それはケンジが葛貫に自分を犯させようとしているのではないかという、なんともおぞましいものであった。
「あ、心配しなくて大丈夫だから。クズ公、家に帰ると全裸になりたがるタイプなんだよ」
考えを察したのかケンジはにっこりと微笑む。深く、黒い、沼のような笑みだと弥生は思った。
「だからって」
反論する間もなく、葛貫は最後の一枚である白いブリーフをなんの躊躇もなくおろす。そこにはガリガリの体つきに似合わない、太く大きい赤黒い陰茎がぶら下がっていた。だが、弥生にはそれよりも気になるものがあった。それは体中にあるどこかにぶつけたような痣、そして黒い斑点のような火傷のあとだった。
「ははははっ、サイコーだろ? こいつ超キモいだろ?」
ケンジは煙を吐き出しながら、心底おかしそうに笑いだした。
「これはケンジが……?」
「そう、全部俺がつけてやったんだよ。あ、でも勘違いすんなよ。こいつだって喜んで受けてんだって。なあ?」
ケンジの問いかけに、葛貫は相変わらずヘラヘラとしながらも少し困ったように小首を傾げる。
すると、ケンジが葛貫に少し近づき再びおなかに蹴りを食らわした。ドッと鈍い音がし、葛貫は崩れるようにうずくまると「うーうー」と唸りながらおなかを抱えこむ。だが、ケンジがもう一度「喜んでいるんだよな?」と聞くと首をこくこくと縦に振った。
弥生は、先ほどおさめたはずの胃のムカつきがぶり返していた。
「ほら、クズ公も喜んでるって。だからさ弥生ちゃんもやってみない? セックスなんかよりも気持ちいいかもよ」
ケンジはそういうと笑いながらこちらを振り向いた。
心から楽しそうな笑顔だった。
「いや、私は……」
いい終わる間もなく、ケンジは再びうずくまる葛貫の尻を勢いよく蹴りつける。「いっ」と小さな悲鳴が弥生の耳にまで届いた。
「ほらやってみない?」
断れば自分が葛貫のような目にあうのかもしれない。そう思うと、ケンジの提案を否定できずにいた。
だが、結局はそれは言い訳だったのだろう。というのも、弥生は自分の体の中から湧き出る好奇心が押さえきれずにいたのだ。
「そうか。まあ、最初は緊張しちゃうよね。じゃあこれは?」
自分の感情に戸惑い言葉を出せずにいた弥生に対し、ケンジは持っていた吸いかけのタバコを差し出した。それでなにをしろというのかは葛貫の体を見れば明白であった。
「背中でいいよ」
そうつぶやくケンジから、たばこを受け取るとゆっくりと葛貫に近づいた。
亀のように背中を見せて丸まっているので顔は見えないが、この男は間違いなく笑っているのだろう。そう考えると、この行為も許されるものに思えた。
弥生は心の中でケンジの命令で仕方なくなんだと自分に言い訳をすると、おそるおそる葛貫の浮き出た肩胛骨あたりにタバコを押しつけた。
「いぎぃぃぃぃー!」
ジュッという皮膚を焦がす音とともに、葛貫は獣の如き悲鳴をあげた。同時に信じられないくらいに体を仰け反らせると、自分についた火をけすかのようにゴロゴロと床を転げ回っていた。
「バカ、こんな時間にそんな大声出したら近所迷惑だろうが」
葛貫の頭をはたきながらも、ケンジはおかしそうにクックッと喉で笑う。
ふうふうと荒い呼吸使いのなかも「ごめんね」と答えた葛貫の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃではあったが、予想通りの笑顔であった。
狂っている。その顔は明らかに狂っていた。過去の自分も同じ顔をしていたのかと思うと二の腕に鳥肌が広がっていた。
思わず葛貫から目を逸らす。見ていると、胃がひっくり返るような感じを覚えたためだった。
その直後、押さえられない感情が吐しゃ物となり弥生の口から勢いよく流れ落ちる。口に手をあてて体内に押し戻そうとするも、指の隙間から黄色い液体が漏れてしまう。これは手遅れだと悟った弥生は、すぐに部屋の角にしゃがむと、ビチャビチャと水音をたてながらフィレステーキだったものをすべてぶちまけてた。
「あーあー、こりゃずいぶん派手にやってくれちゃったね。クズ公、タオルもってこい」
ケンジは特に動じるでもなく淡々と葛貫に命じている。ドタドタと部屋を離れる足音を聞きながらも弥生はその場を動けずにいた。胃が絞られ、痙攣している感じが未だに残っていた。
ゲホゲホと、口内に残った消化しきれていないフィレステーキを粘つく涎とともに吐き出す。同時に一粒の涙がポロリと床に流れ落ちた。
他人の家で、しかも初めて訪れた家で吐いてしまうなんて惨めだと思った。
「だ……大丈夫? これ、タ……タオル」
すぐに戻ってきた葛貫が心配そうな声をかけながらタオルを差し出す。
「……大丈夫」
誰のせいでこんな事態になったんだと思いながらも、弥生はタオルを受け取ろうと振り向いた。
もちろん、そこには全裸で痣だらけの葛貫がいたわけなのだが、なぜか彼の陰茎は怒張していた。心拍にあわせてわずかにピクピクと上下している様は、さながら瀕死状態の蛇のようであった。
葛貫はすぐに弥生の視線に気づいたようで、屹立させた逸物を体を捻って隠すと距離をとる。そして、ごまかすようにお決まりの表情を見せて頭を掻いていた。
その顔を見た途端に、弥生の体は震えが止まらなくなる。そして、ようやく自分がこの葛貫という男に恐怖を感じていることに気づいた。もしかしたら、自分もこの男のようになっていたのかもしれない。そう考えただけで、ぞっとした。
せり上がるような吐き気が再び襲う。その場で、からになったはずの胃から口外へと透明な液体がドロリと流れ出た。
「あ……ああ、どうしよう」
慌てた声を出しながらも葛貫の顔に変化はない。改めてゆっくりこちらに近づいてくる。
この時点で、弥生の理性はすでに感情に支配されつつあった。暴力的で許されざる感情にだ。
体が勝手に動き、弥生は飛び込むように葛貫を押し倒していた。
そして、怒りと恐怖に身を任せ葛貫の体を何度も踏みつけた。感情に浸食されてしまったはずの頭の片隅で、母もこんな気持ちで自分を殴っていたのかなと、どこか冷静に思っていた。
その後のことは正確には覚えていない。とにかく夢中だった。葛貫を踏みつけて、踏みつけて、踏みつけて、踏みつけ続けた。
「おい! いい加減ヤベーって!」
その言葉と共に、急にケンジが体を突き飛ばしてきた。弥生はその勢いで壁に体をぶつけて我に返ったが、寸前の記憶が曖昧なため現状が理解できない。
「くそっ、どうすんだよ。マジでやりすぎだよ。勘弁してくれよ」
ケンジは、ぶつぶつとつぶやきながら足下を凝視している。これまでに見せていた無邪気な笑顔はそこにはなかった。その顔は真っ青で、つるつるの頭からは無数の汗が吹き出していた。
弥生はおそるおそるケンジの視線の先を確認する。そこには裸の葛貫が横たわっていた。だが、その顔は、かつての媚びた笑みを浮かべていた葛貫のものとはまるで別人だった。顔全体が血塗れで、鼻はぐにゃりとくの字に曲がっている。左目部分にいたっては完全に潰れてしまっているようで、べっこりとへこみ瞼の隙間からは血があふれていた。
ただ、呆けたように開かれた口からは「ひー、ひー」と、等間隔で喉を震わせる音が聞こえていた。それがなければ、葛貫がまだ生きているとは思えなかったであろう。
「ひっ」
目の前の光景を見た弥生は思わず息をのんだ。そして、自分のしてしまったことをようやく理解した。
「おい! どうすんだよ、これ!」
ケンジはこちらに向き直ると葛貫を指さしながら怒号をあげる。だが、その声は妙に上擦っており、そこからケンジがいかに動揺しているかが窺えた。
「きゅ、救急車を……」
弥生のほうもなんとか冷静な提案を口にしたものの、その言葉は自分でも驚くほどに掠れていた。
「ダメだ。救急車なんて」
「なんで?」
「わかんねーのかよ。そんなことしたら警察に捕まっちまうだろ」
「でも、私がやっちゃったことだし……」
「バカ。こいつの痣のほとんどは俺がつけたもんだぞ。俺も警察に捕まっちまうってことだよ。俺はそんなのゴメンだ」
ケンジはそういうと神経質そうに親指の爪をかじった。
「でも、このままじゃ死んじゃう」
言葉通り葛貫の口から漏れる呼吸は弱々しく、今にも止まってしまいそうだった。
弥生は自分の不運を呪った。
ケンジがこのマンションに誘って来なければよかったのに。
葛貫が声をかけなければよかったのに。
そもそも、両親が離婚していなければ非行に走ることなんてなかったのに。そうすれば、こんな最悪な状況に陥ることなんてなかったのだから。
「おい、クズ公! しっかりしろ!」
ケンジは屈んで葛貫に声をかけたが、意識が飛んでしまっているようでまったく反応はなかった。しばらくの間、繰り返し耳元で叫んでいたが、ふとなにかを決心したかのように立ち上がった。
「……殺すしかないか」
「え?」
ケンジの予想外の発言に弥生は自分の耳を疑った。
「だから殺すんだよ」
「そんな……」
「大丈夫だ。さっきも話したけど、こいつ母親から勘当されちまってるし、友達や定期的に連絡をとる知り合いなんかもいやしない。それに、このマンションだって俺の名義で借りてるからな。つまり、こいつがいなくなっても誰も心配したり、怪しんだりしないんだよ」
顔こそ青ざめたままであったが、その目は覚悟を決めたようにギラギラと妖しく光っていた。
「でも……」
「悪いがお前に選択権はないぜ。お前がここまでやったのは事実なんだ。それに、お前だって捕まりたかないだろ?」
「そりゃ……、できれば捕まりたくない」
「問題は死体の処理方法だな。とりあえず、車をとばして人のいない山にでも埋めちまおう。大丈夫。たとえ死体が発見されても身元さえばれなきゃいいんだ。数ヶ月も経てば腐ってどこのだれだかわかりゃしねーだろ。それに、都合よく裸で顔もグチャグチャだからな。現時点で誰だかわかんねーよ」
ケンジはそういうとクククッと声をたてて笑った。その顔は心からおかしそうで、見ているとこちらまでつられて笑ってしまいそうになる。
ケンジのいうとおりならば、葛貫がいなくなって不審に思う人間はいないらしい。ならば、弥生だってむざむざ警察に捕まるのはさすがに馬鹿らしく思えた。
「わかった。ケンジのいうとおりにするよ」
「おし。弥生ちゃんならそういってくれると思ったぜ」
ケンジは嬉しそうに笑うと、脱ぎ捨てられている葛貫のTシャツを拾い上げた。
「じゃあ、これをこいつの首にまいて、端を互いに引っ張って絞め殺そう。弥生ちゃんも手伝って」
「でも、そんなこする必要はないんじゃない? この状態ならほっとけば勝手に死んでくれるでしょ」
葛貫をここまでの状態にしたのは弥生自身だったが、それは無意識のうちであったので、とどめをさすというのはさすがに躊躇してしまう。その旨を伝えてみたが、ケンジはあくまでもすぐに殺すということを譲らなかった。
「俺達は共犯になるんだぜ。つまり、ここでふたりで殺すっていうのは契約みたいなものだよ。一番重い罪をお互いに分け合うことで、なんつーか、信頼しあえるし、裏切りにくくもなるだろ?」
確かに、人殺しの罪を分け合うのはいい案だと思った。というのも、このまま放置しておいて死んだ場合、自分のほうに罪の比重が偏ってしまう気がしたからだ。
弥生は決心を固めると、力強く頷いた。
「よし。じゃあ、こうしてと」
ケンジは早速、葛貫の首にTシャツを巻き付ける。
「じゃあ、いっせーのせで弥生ちゃんはこっち側を引っ張って」
Tシャツの端を受け取ると、弥生は了解の意を伝えるために再び深く頷く。声を出さなかったのは緊張で口の中がカラカラに渇いていたためだった。
胃が燃えるような熱さを覚えた。ただ、それは先ほどの吐き気やムカつきとは違い、心地の良い興奮からくるものだった。
「じゃあいくよ。いっせーの……せ!」
そのかけ声と同時に弥生は体重を後ろに預け思い切りTシャツを引っ張る。ケンジのほうも歯を食いしばりながら必死に引っ張っていた。そんな二人の間の葛貫は、身動きひとつせずにその細い首にTシャツをめり込ませていた。力を入れるたびに、潰れた左目や鼻の穴から血がピューッと吹き出す様はなにかのコントのようにもみえる。
それでも、口から漏れていた呼吸音は完全に途絶えており、彼が死へと向かっているのは明らかであった。
葛貫を挟んだケンジとの綱引きは実に十五分以上続いた。そんなに長時間絞めている必要はなかったのかもしれない。だが、弥生もケンジも初めて人を殺すので、嫌でも慎重になっていたのだろう。さらには、自分の手で人の命を奪い取るという、滅多にできることではない体験を長く味わっていたかったという理由もあった。
「よし、もういいだろ」
ケンジのその言葉とともに二人は同時に力を緩めた。Tシャツを放した手のひらは、力を込めて引っ張ったためビリビリと痺れている。これが葛貫の命を奪った代償だと考えると、命とはなんと軽いものだろうと感じてしまった。
「よし、呼吸は止まってんな」
葛貫を覗き込むように確認すると、ケンジは一息いれるようにたばこに火をつけた。
「あとはこいつを山にでも捨てるだけだな」
「うまくいくかな?」
「うまくいくんじゃない? だれからも見捨てられた人間を捨てるだけなんだから」
ふーっと紫煙をくゆらせながら他人事のようににいうケンジの顔は、すでに赤み取り戻している。だが、たばこを持つ手は小刻みに震えていた。ケンジも初めて人を殺したことに緊張、あるいは興奮していたのかもしれない。
「ほい」
ぼーっとその手を眺めていると、不意にケンジが右手の小指をこちらに突き出してきた。弥生が意図がわからずきょとんとしていると「指切りだよ」とケンジが当然のようにいった。
「指切りって、なんで?」
「どちらも裏切らないっていう約束。あとはこいつを埋め終わったら俺たちは赤の他人な。偶然、街中で出会っても無視し合うこと。ほい」
弥生はいわれるがままに、再び突き出してきたケンジの小指に自らの小指を交わらせる。ケンジの指が思ったよりも細かったので、自分の指の太さが目立ち少し恥ずかしかった。
「ゆぅーびきりげーんまん、うーそついたら、はーりせんぼんのーます」
二人で合唱をしている間、ケンジはぶんぶんと右手を大きく上下に揺らしていた。その子どもみたいな仕草に、弥生はこんな状況だというのに顔が綻んでしまっていた。
「ゆーびきった!」
かけ声と同時にふたりは右手を引き戻す。ピッという皮膚と皮膚が擦れ合う音とともに交わっていた小指が別れた。
「絶対、裏切らないでよね」
「言い出しっぺの俺がそんなのするわけないじゃん。とりあえず、少し休憩してから出かけようか」
「そうだね。私もこんな体験初めてだから、ちょっと疲れちゃったよ」
「とりあえず弥生ちゃんは風呂にでも入ったら? ゲロくせーし、足も血まみれだから」
ケンジはそういうとおかしそうに笑い、たばこを葛貫の太股に押しつけた。当たり前だが、先ほどのような葛貫のわめき声が聞こえるわけもなく、ただジュッと火が消える音だけがした。
そういえば、嘔吐してからいろいろありすぎて口すらゆすいでいない。そのため、自分の口から漏れる吐息が鬱陶しいくらいに鼻孔を刺激していた。
「じゃあ、そうさせてもらおうかな。でも、ゲロくせーとか女の子に対していうなんて失礼じゃない?」
頬を膨らませながらわざとらしくケンジを睨む。
それに対し、ケンジも肩をすくめ「ひー、恐い」と大げさに怯えてみせた。その仕草はケンジの厳つい見た目にあまりにもそぐ合わなく、思わず吹き出してしまう。そして、ふたりで声を出して笑い合った。
人を殺した後だというのに不謹慎であるかもしれない。だが、今の弥生にとっては、おかしかったら笑うというのは自然な行為なのだ。嘘の感情を顔に張り付いていたら、他人から嫌われ、疎まれ、しまいには殺されてしまうかもしれないのだ。
葛貫みたいにならないように、そして過去の自分に戻らないように、弥生は笑った。思い切り笑った。
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