二人の夜

 千早さんが風邪を引いたらしい。


 それを聞いた瞬間、私の中から「家に行くのが恥ずかしい」なんて気持ちはどこかへ飛んでいった。


 渋る千早さんを何とか押し切り、『本日の配信はお休みします』とツブヤッキーに投稿すると私はバタバタと着替えを済ませ荷物を纏める。


 えーっと、何が必要だろ。


 お薬は……家にある市販の風邪に効くやつでいいよね。スポーツドリンクはコンビニで買うとして。


 …………千早さんはご飯を食べる気力が無いと言っていた。

 でも、お粥くらいなら食べられないかな?

 やっぱり少しでも食べた方がいいと思うんだ。


 ご飯をタッパーに詰め、エプロンと一緒にリュックに入れる。


 ……うん、こんなもんかな。


 一人暮らしして初めて寝込んだ時、無性に寂しかったのを覚えている。千早さんもきっと寂しい思いをしているはず。


 私が一緒にいてあげなくちゃ。


 ううん……一緒に、いたいんだ。





 コンビニで飲み物と、あとは私の好みでプリンを買って千早さんの家に向かう。


 そういえば初めて千早さんに会ったのもこのコンビニに行った帰りだったな。

 思い切り足を挫いちゃって……あれは痛かった。折れたかと思ったくらい。


 ……あとほんの少しタイミングがズレていたら千早さんに助けられることも、そしてこうして……千早さんに恋することも無かったんだよね。そう考えたら何だか神様に感謝したくなった。

 あんなに痛いのはもう懲り懲りだけど。


 マンションに到着し、私はエレベーターに乗り込んだ。案内を確認し九階のボタンを押す。


 ごうごうと音を響かせてエレベーターは上昇していく。私の心臓の鼓動も段々大きくなっていく。ここにきて、千早さんの家に行くんだということを強烈に意識してしまう。


「…………変じゃないよね、私」


 あまりお洒落して行くのもおかしいと思って、地味な格好にしたのを早くも後悔し始める。

 千早さんの前では、いつでも可愛い格好をしていたかった。


「……いやいや、今日は看病しに行くんだから。これでいいの」


 目的を履き違えちゃ駄目。


 早く千早さんに元気になって欲しい。

 その一心で、私はここにいるんだ。


 だから家に行くことだって、全然恥ずかしくなんてない。


 エレベーターが九階に到着した。


 私は千早さんの部屋番号を探すと、深呼吸をひとつして呼び鈴を押した。





 菜々実ちゃんにメッセージを送信してしまったあと、俺は酷い自己嫌悪に陥っていた。


 …………自分の中の寂しさに負けて、菜々実ちゃんを巻き込んでしまった。


 最悪だ。

 これで菜々実ちゃんに風邪を移しでもしたらどう責任を取るつもりだ。

 そもそも看病をお願い出来るような間柄か?


 人の優しさに付け込む最低の男だ、俺は……。


 そんなことを考える頭の反対側で、菜々実ちゃんの言葉がずっとリピートしていた。


『────千早さんのことが心配なんです』


 その言葉が嬉しくてたまらない自分がいた。胸の中の不安が溶けて消えていくようだった。


 ……まさか自分がこんなに弱い人間だったなんて。


 たかが風邪を引いただけで、こんなに人恋しくなるなんて。


 二十五年生きていても、まだ自分について認識が改まることがあるんだな……。


 そんなことを考えていると、インターホンが鳴った。


 フラフラして歩くことが難しかったので、のそのそと四つん這いで玄関に向かう。


 壁に手を付き何とか立ち上がると、ロックを解除した。


 ややあってゆっくりとドアが開く。


 現れたのはどこかのバンドのTシャツにデニムのショートパンツというラフな格好をした菜々実ちゃんだった。リュックを背負って手にはコンビニの袋を持っている。


 相変わらずとんでもなく可愛い。こんな子が俺の事を心配してくれているなんて、嘘みたいだ。


「…………ども」


 菜々実ちゃんは俯きがちにぺこっと頭を下げた。


「……んんっ……こんばんは。ありがとう本当に」


 上手く声が出せず掠れ気味になってしまった。思ったより喉も痛いな。


「えっと、見た感じかなり辛そうですけど……大丈夫ですか?」


「なんとかね」


 実際は結構辛かったが、弱っているところを見せるのが嫌だった。


「……じゃあ、汚くて申し訳ないけど」


 俺は玄関先から動こうとしない菜々実ちゃんを、自由な方の手で促した。


「…………お、お邪魔します」


 菜々実ちゃんがおずおずと玄関に入ってくる。

 ガチャリと音を立てて、ドアが二人を外界から隔離した。


 俺が玄関から動いていないので、菜々実ちゃんとの距離が急に近くなる。


「えっと……」


 動こうとしない俺を不審に思ったのか菜々実ちゃんが声をあげる。俺が退かないと靴を脱げないもんな。


 分かってるんだが……どうにも歩ける気がしない。さっきから頭がぐわんぐわんして平衡感覚がないんだよな。壁に手を突いていないとフラッといってしまいそうだ。


「ごめん」


 とはいえ四つん這いで戻る姿を見せるのも恥ずかしくて、俺は覚束ない足取りで振り向くと意を決して歩き出した。

 が、すぐにフラついて転けそうになる。


「危ない!」


 菜々実ちゃんが転けそうになる俺を後ろから咄嗟に支えてくれた。


「フラフラじゃないですか! ……歩けないなら、私を頼ってください。その為に私は来たんですから」


「……ごめん」


 菜々実ちゃんは靴を脱ぐと、俺の脇の下から頭を突っ込むようにして身体を支えてくれる。


「これで歩けますか?」


「……なんとか」


 菜々実ちゃんに支えられて俺はベッドに辿り着いた。脱力してごろんと寝転がる。


「千早さんはベッドで安静にしてて下さい。お粥を作りますから、頑張って食べてお薬を飲んで寝てくださいね。キッチンだけお借りします」


 お粥……?


 菜々実ちゃんはリュックからタッパーとエプロンを取り出すと、慣れた手つきでエプロンを身に着けキッチンに歩いていく。


「…………」


 エプロン姿の菜々実ちゃん……めちゃくちゃ可愛いな……。


 安心したせいか、そんなことを考えていた。


 鼻歌を歌いながらお粥を作る菜々実ちゃんを、俺はベッドで横になりながら暫く眺めていた。


 …………一人じゃないって、いいなあ……。





 菜々実ちゃんがお粥を持ってやってきた。


「千早さん、起きれますか?」


「……うん」


 俺は上半身を起こしてベッドの頭側にもたれ掛かるようにする。


「テーブル、動かしますね」


 菜々実ちゃんはローテーブルにお粥が入ったお椀を置くと、ベッドの傍に引き寄せた。

 お椀からはゆらゆらと湯気が立ちのぼっている。


 菜々実ちゃんは俺の隣、ベッドの縁に浅く腰かけた。

 

 ベッドという極めてプライベートな場所に菜々実ちゃんが座っている。

 それだけで俺は言葉に出来ないような気持ちになった。頭痛と懊悩が、半々くらいで存在している。


 …………何を考えているんだ俺は……。


「全部は食べれなくてもいいので、出来るだけ食べてくださいね」


 菜々実ちゃんはレンゲでお粥を掬うと、ふーふーと息を吹きかける。

 俺は嫌な予感がした。途端に恥ずかしくなる。


「熱いので気を付けてくださいね…………はい、あーん」


 差し出されるレンゲ。

 その向こうには顔を仄かに赤く染めた菜々実ちゃん。


「…………」


 瞬間、色々な思考が頭を駆け巡ったが自分で食べる体力がないことは確かだった。

 菜々実ちゃんもそれを見抜いて、こうして恥ずかしいのを堪えてやってくれているんだろう。

 

 ここで俺が恥ずかしがるのは一番ダメだ。


「…………はむ」


 恥ずかしさを必死に押し殺してレンゲを咥える。温かなお粥を軽く咀嚼すると胃に流し込んだ。


「…………おいしい」


 羞恥やら体調不良やらで正直味は全く分からなかったが、何故だかとても美味しく感じた。

 理由は…………うん。なんとなく分かっている。


「本当ですか!? よかったです……お口に合わなかったらどうしようかと」


 菜々実ちゃんは安心した様子で胸を撫でおろしていた。


「どうですか? まだ食べられそうですか?」


「うん。ありがとうね」


「いえいえ」


 こうしてお互いに頬を紅潮させながら恥ずかしいやり取りを繰り返し、結局俺はお粥を完食した。


「……ごちそうさまでした」


「お粗末様でした。完食しちゃいましたね」


 菜々実ちゃんはとても嬉しそうに、にっこりと笑った。


「とても美味しかったから。本当にありがとう」


「…………えへへ」


 俺の言葉に、菜々実ちゃんは照れるように顔を背けた。


「私、食器洗ってきちゃいますね」


 断る暇も与えず、菜々実ちゃんは逃げるようにお椀とレンゲを持ってキッチンに行ってしまった。


 ベッドに横になり、機嫌良さそうに食器を洗う菜々実ちゃんをぼーっと眺めているとさっきまで寝ていたというのに眠気が襲ってきた。お粥を食べたからだろうか。


 うとうとしていると、いつの間にか食器を洗い終えた菜々実ちゃんが戻ってきた。


「じゃあお薬飲みましょうね」


 手渡された錠剤をスポーツドリンクで流し込む。

 

 何から何までしてもらって……本当に申し訳ないな……。


「冷蔵庫にプリンが入ってますから、明日食べれるようなら食べてください。私は千早さんが寝たら帰りますね」


 菜々実ちゃんはそう言うとベッドの傍に座り込んだ。


「いや……もう大丈夫だよ」


「いえ、ちゃんと寝るまで監視させてもらいます。安静にしていないと風邪は治りませんから」


「そう言われても……」


 恥ずかしくて眠れない。


 そう思っていたのだが、気付けば俺は眠りに落ちていた。





 千早さんが寝息を立て始めた。


 これで大丈夫だろう。


 きっと明日には治ってるよね。


「…………」


 千早さんの寝顔をじっと眺める。

 なんだか見てるこっちが癒されるような、安らかな寝顔。


 ────私の大好きな、寝顔。


「…………よし、帰ろう」


 気を抜くといつまでも見てしまいそうだったから、私はそう声に出すと静かに立ち上がった。


「…………え」


 立ち上がった拍子。


「…………どうして……?」


 努めて見ない様にしていた衣服置き場を見てしまう。


 そこには、あるはずのないものがあって。


「…………私の、Tシャツ……?」


 私、氷月ひゅうがこおりがまだ無名の頃に密かに販売していたファングッズのTシャツがそこにあった。


「…………っ!」


 私はリュックを掴むと、訳も分からず部屋から飛び出した。

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