Encore
溜息をつくと幸せが逃げるという。
今の私にとって……幸せとはちーくんと同義であって。
そんな迷信じみた言葉であっても、ふと想像して身震いしてしまうくらいにはちーくんは私の弱点だった。
「…………はぁ」
けれど。
気を付けていても、意識の隙間をすり抜けてつい溜息を漏らしてしまう。
『
原因は明確で…………この前バレッタさんから言われた言葉が、今も脳裏で反響しているのだった。
一笑に付せればよかった。的はずれな意見だってその場で笑い飛ばすことが出来たのなら、何の問題もなかったんだ。
────でも。
その言葉は私の深部を確かに貫いていた。
その証拠に…………私は活動を休止してから今まで一度も、氷月こおりについて調べることをしていなかった。ツブヤッキーも意図的に見ないようにしていた。私が置き去りにしてしまったファンの皆のことを見るのが……怖かったんだ。
「…………」
私が今感じている幸せ────その結晶であるちーくんが隣ですぅすぅと寝息を立てている。
今は夜の十一時で、明日は月曜日。朝が早い社会人なら寝ていてもおかしくない時間だ。
「…………ちーくん……」
寝顔を眺めているだけで心の芯が熱くなる。
付き合い始めて一か月以上経った。同棲生活にももう慣れてきた。
…………それでも、ちーくんへの気持ちが薄れることは全くなかった。それどころか、毎日強くなるちーくんへの想いに、どうすればいいか分からないほどだった。
「……………………あっ」
つい寝顔に触れようと手が伸びてしまっていることに気が付き、慌てて堪える。起こしちゃったら可哀そうだよね。
ちーくんには健康でいて欲しい。睡眠時間だってちゃんと確保して欲しいんだ。
でも、こうも思ってしまう。
…………私が配信を辞めなかったら、きっとちーくんだってこの時間に寝ていなかった。氷月こおりの配信を楽しんでいたはずなんだ。
この生活は、ちーくんにとって本当に幸せなんだろうか。
「…………はあ」
今日何度目かの溜息をつく。今度は明確に私の意思が含まれていた。
どうか幸せが逃げませんように。
「…………寝れないの?」
ちーくんの声が耳朶を打ち、気付かれないくらいに身体が跳ねた。
隣に目を向ければ、薄っすら目を開いたちーくんが私を見つめている。
「…………ごめんなさい。起こしちゃいましたね」
「ううん。…………この前のこと?」
「…………はい」
同棲ならではの距離の近さのせいか、私がこの事で悩んでいることはすっかりちーくんにバレてしまっていて。
「俺はなーちゃんの選択を尊重しているよ」
ちーくんは優しいから、私が悩んでいるのに気が付くとこうやって言葉をかけてくれるのだった。
「……ありがとう、ございます」
だから、心配をかけてくなくて最近はちーくんが眠ったあとに一人で沈んでいる。
「…………ほら」
ちーくんが横を向いて、手を広げる。同じベッドで隣り合っているから、私が向かい合えばお互いの吐息すら感じられた。
私はちーくんに吸い寄せられるようにもう一つ距離を詰めた。丁度ちーくんの胸にすっぽりと収まると、ちーくんは優しくぎゅっと抱き締めてくれる。
「…………んっ」
ちーくんに包まれると、さっきまでのブルーな気持ちが嘘のように心が温かい感情で一杯になる。ちーくんの背中に腕を回すと、やがて二人の距離はゼロになった。
…………この熱さえあれば、私は生きていける。
…………でも、この温かさに甘えてしまって、本当にいいのかな。
◆
私が大学から帰ってくるのが大体十七時。ちーくんが帰ってくるのが十九時だから、私はいつもその間に買い物や夜ご飯の準備を済ませている。
ちーくんは「申し訳ないから当番制にしよう」って言ってくれるけど、私がやった方が効率がいいし、何より好きな人に手料理を食べて貰えるのが嬉しくて、食事は半ば押し切る形で私の担当にしてしまった。
「……これでよし、っと」
ご飯の支度も粗方終わり、時計に目をやるとあと三十分ほどでちーくんが帰ってくる時間になっていた。ルインで聞いたら残業もないって言っていたし、もう少しでちーくんに会えるという事実に胸が躍る。こうやって家でちーくんの帰りを待つ時間が私は好きだった。
……それはそうと。
「…………ふう」
ソファに座り呼吸を整える。今日一日じっくりと考えて────大学の授業も右から左になってしまい教授に怒られるくらいにはしっかりと考えて。
私は、一つの決心を固めた。
震える手を押さえつけて────私は数週間振りにツブヤッキーを開いた。
「…………」
画面に表示される無数の通知が、私が目を背けていた事の大きさを物語っていた。
『こおりちゃん、事情は分からないけどいつまでも待ってるからね』
『毎日幸せを貰ってました! リアルの事情頑張って!』
『さみしいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
『アーカイブを見る毎日です……早く戻ってきて……』
『本当にお疲れさまでした。願わくば、またその声を聞ける日が来ますように』
スクロールしても、スクロールしても、ファンの皆さんからのメッセージが途切れない。活動を休止して一ヶ月近く経った今でも、沢山の人がメッセージを送ってくれていた。
『姫の配信でこおりちゃんは新しいことにチャレンジしてるって聞きました!応援しています!』
『ありすちゃんとバレッタさんがこおりちゃんに会ったって配信で言ってました。お元気そうで良かったです』
『また会えるって信じてるよ! いつまでもファンです!』
『絶対に、絶対に忘れないよ。さよならじゃないって信じてる』
「…………え……?」
真美さんに……神楽さん、バレッタさんまで。私のことを話してくれてる……?
スクロールする手が止まらない。熱に浮かされるように私はメッセージを読み進めた。
『氷月こおりは永遠に!』
『エムエムでマッチングしてボコボコに破壊されてからファンになりました。MMVCは本当に感動しました! 楽しい時間をありがとうございました!』
『こおりちゃんの声を初めて聴いた時のことは今でも覚えています。毎日の安眠をありがとうございます』
『戻ってきて…………本当にお願い…………何でもするから……』
「…………っ」
…………私は、こんなに沢山の人に愛されていたんだ。
────気が付けば、涙が頬を伝っていた。
「…………決めた」
実際問題、大学があるから今すぐに復帰するのは現実的ではないかもしれない。ちーくんと過ごす時間とどっちが大切かと言われれば、皆からのメッセージを読んだ今でもそれはちーくんだと答えてしまうだろう。
…………そんな私でも、もう一度皆に夢を観せられるのなら。
ツブヤッキーを閉じ、ルインを起動する。
逸る気持ちに急かされるようにメッセージを作成すると、勢いのまま送信ボタンを押した。
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