今夜

 青がやがて赤になって。不意に赤が青になって。また青が赤になって。


 ────そんな繰り返しを何度眺めたろうか。


 電子的な手旗信号に従って人々は歩いていく。


 あるいは笑顔で。


 あるいは切なげに。


 そしてその他の多くは────無表情に。


 そんな雑踏をもう二時間は眺めている。

 千早さんが何時に帰ってくるか分からないから、私は駅の出口を動くことが出来ないでいた。


 連絡先を知っているんだから聞けばいいじゃないか、って?


 それはその通り。完膚なきまでにぐうの音も出ない。


 でも、何故だかそんな気にはなれなかった。


 それはもしかすると私達の出会いが偶然だったからかもしれない。


 ────もしあの日カフェオレの買い置きがひとつでもあったら。


 ────もしあの日買い物に行くタイミングが数分ズレていたら。


 もしあの日────私が足をくじいていなかったら。


 私達は出会っていなかった。恋をすることもなかった。

 そういう意味では、私は『運命』のようなものを千早さんに感じていた。

 望むのなら…………向こうもそう想っていてくれれば嬉しい。


 ともかく私達の出会いは運命的であったと私は想っていて。


 だから私は図々しくもあの日の再現のように偶然の力を借りて、千早さんに想いを伝えようとしているのだろうか。


 今もなお怖気づく私の心を後押しする最後のひとしずくを、どこかに探しているのだろうか。


 私がこの情報化社会にこうして原始的なランデブーを敢行している理由は、概ねそんなところだと予想する。考える時間だけはたくさんあったんだ。


 それにしても…………流石に不安になってきた。


 私は本当にこの駅前で千早さんに会えるのだろうか。


 もし千早さんに気付かず見逃していたら、終電まで待ちぼうけになってしまう。途中で帰る選択肢はないから自然とそうなってしまう。


「…………」


 スマホのサイドボタンを押す。暗夜にぼうっと浮かび上がった画面は午後七時過ぎを示していた。


 …………まさか、もう見逃してたりしないよね?


 千早さんとの世間話の中で、平日はいつも七時くらいに家に帰ると言っていたことを覚えている。

 今は七時過ぎ。見逃していてもおかしくはない。


 一応ホットタイムと思って目を皿にしていたけど、電車が到着するタイミング毎に仕事終わりのサラリーマンが集団で出てくるものだから、確実に見逃していないとは言い切れないのが正直なところだった。


「…………」


 また今日何度目かの人波がやってきた。私は目を皿にする。


 うーん…………もう少し待ってみて、それでも見つけられなかったら連絡してみようかな。


 そう考えていた時だった。


「…………千早さん!」


 見間違えるはずがない。


────大好きな彼の姿を、見つけた。





「────菜々実ちゃん?」


 菜々実ちゃんは駅の出口、そこから垂直に伸びている歩道の、ちょうど出口正面あたりのガードレールに寄りかかって、駅から出てくる人間の上で視線を滑らせていた。誰かを探しているように見える。待ち合わせだろうか。


 同じ街、それも近所で生活しているが、駅前で菜々実ちゃんを見たのは真美さんと飲んでいたあの一回だけだ。あの日は菜々実ちゃんが改札から出てきた。今日はその逆だ。


「…………」


 菜々実ちゃんはまだこちらに気がついた様子はない。首を振ってキョロキョロと視線を彷徨わせている。


反射的に声をかけそうになったが……もし待ち合わせをしているのなら邪魔するのも悪いか。それに今日は誰かと話す元気がありそうにもなかった。


 ちょうど正面にいる菜々実ちゃんを視界に捉えつつ出口から出て歩道を左に折れる。もう何度通ったか分からない通勤路。今となっては目を閉じても歩ける自信がある。


「────千早さん!」


 丁度菜々実ちゃんの視界から外れようとしていたその時、菜々実ちゃんはこちらに気がついて小走りで駆け寄ってきた。イヤホンの上から聞こえたその声に俺は立ち止まり、イヤホンを外した。


 大きな菜々実ちゃんの声、そして道なかで立ち止まる俺たちに、同じく駅から出てきたサラリーマンたちが怪訝な視線を向けながら追い越していく。まるで流れるプールのなかで立ち止まるような感覚が俺を襲った。


「千早さん、今帰りなんですか?」


 けれど菜々実ちゃんはそんな周りの事なんか全く気にならないみたいで、その大きな瞳は真っ直ぐ俺の目を捉えていた。


「うん、菜々実ちゃんは?」


 ならば俺も気にするのを止めよう。

 大きな駅じゃない。一分後もすればまた閑散とした通りに戻るのだから。


「ああ、ええと────私は偶然ここに。よかったら一緒に帰りませんか?」


 菜々実ちゃんは少し照れながらそう言った。

 その申し出を断る理由は俺にはなかった。


 さっきは人と話す元気がないと言ったけど、いざこうして菜々実ちゃんの声を聞くと、不思議とさっきまでの嫌な気持ちも吹き飛んでいくのを感じた。


 何より家が同じ方向なんだ。お互い家に帰るのならば、別々で帰るほうが不自然だろう。


「勿論」


「やったっ」


 俺からすれば当たり前のその承諾に、けれど菜々実ちゃんは軽く飛び跳ねて喜びを示した。

 俺の心からはもうすっかりさっきまでの暗澹とした気持ちは消え失せていた。





「────そんなことがあったんですね。本当にお疲れさまです」


「まあ、今日は完全に俺のミスだからさ。だからこそ凹んでたというか……」


 街頭のない真っ暗な道を二人並んで歩く。


 こうして夜道を菜々実ちゃんと歩くのはこれで三回目だ。


 一度目は初めて会った時。

 家の前に可愛い女の子が蹲っていて本当にびっくりした。都会って本当にこういうことがあるんだって思った。

 確かあの時はこおりちゃんの配信が再開するまでに家に帰りたくて、今考えればそっけない対応をしてしまったと思う。結果配信は中断したまま終わったから、印象深くてよく覚えていた。

 まさかあの時の子とこうして仲良くなるなんて、夢にも思わなかった。


 二度目は真美さんと飲んだ帰り道。

 あの日は口が滑ってこおりちゃんへの気持ちなどを場違いにも語ってしまった。今考えても穴を掘って埋まってしまいたくなる。あんな気味の悪い告白を聞いたにも関わらずこうして接してきてくれるのは、つまり菜々実ちゃんは今どき珍しい天使のような存在なんだと思う。

 真美さんに変なことを言われたせいか、あの日から菜々実ちゃんや鳥沢さんといったリアルの知り合いのことを少し考えるようになってしまった。それは俺という柔らかい中身を守る『現実の恋愛に興味ありません』という殻のヒビに他ならなかった。


 そして今日────三回目。

 俺は気付けば今日の出来事を話してしまっていた。

 仕事でミスをして、それでこっぴどく怒られたと。

 

「でも、ミスは誰にだってあると思います。働いてない私に言われるのは嫌かもしれませんけど……」


「そんなことはないよ。そう言ってもらえて嬉しい」


 言葉そのものではなく、俺を励まそうとするその気持ちが嬉しかった。

 誰かにこんな思いやられたことが俺の人生であっただろうか。


「それに、菜々実ちゃんと話していたら落ち込んでいた気持ちもどこかに行ったみたい。ありがとう」


「…………あう」


 俺の言葉に菜々実ちゃんは真っ赤になって黙ってしまった。


 そのまま誰から口を開くでもなく並んで歩く。

 俺たちの住んでいるところは駅から十分と少しも歩けば着いてしまうので、気付けばマンション前までたどり着いていた。


 が、俺はマンションを通り過ぎた。


「…………え?」


 菜々実ちゃんが不思議そうに声をあげた。


「大した距離じゃないけど、送るよ」


 何せこの通りはとにかく暗い。菜々実ちゃんの住む高級マンションまでは徒歩一分くらいだから心配もないが、先に男が帰るというのも何か変だろう。


「……………………ありがとう、ございます」


 菜々実ちゃんはぺこっと首を下げて俺に並んだ。


 何かを話す間もなく、菜々実ちゃんの住むマンションにたどり着く。本当に大した距離じゃないんだ。


「じゃあ菜々実ちゃん、またね」


 俺は手を振り別れようとした。


 が、菜々実ちゃんは動こうとしない。俯いてじっと足元を見つめている。


「菜々実ちゃん?」


「……………………あのっ!」


 菜々実ちゃんは勢いよく顔を上げると堰を切ったように話しだした。


「千早さんにはいいところがたくさんあります!」


「…………うん?」


俺がさっき仕事でミスをした話をした流れで『俺なんてなんにもない』と言ったことを気にしてくれていたんだろうか。


「優しいところも、頼りになるところも、たくさん知っています! あの日だって見ず知らずの私をおぶってくれた。今日も私を送ってくれた。話すのが苦手な私にペースを合わせてくれた。奥手な私をデートに誘ってくれた」


 突然の菜々実ちゃんの言葉に俺はついていけず半ば呆然とした様子でそれを聞いていた。


「ゲームに誘ったら必ず来てくれた。私の話を面白いって言ってくれた。ピクニックで寝てしまった私を怒らずずっと一緒にいてくれた」


 …………懐かしいな、ピクニック。菜々実ちゃんに膝枕する形になってしまって、凄く焦ったっけ。


「────私の作ったお粥を、美味しいって食べてくれた」


 菜々実ちゃんは真剣な表情で俺を見た。


「私は、そんな千早さんのことが好きです! だから…………自分にはなにもないだなんて、言わないでください。じゃあ…………おやすみなさい!」


 菜々実ちゃんは走ってマンションに入っていってしまった。


 俺は、菜々実ちゃんの言葉の意味を、そこに立ち尽くして考えていた。

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