前夜
「…………うん……うん……。分かってる。ちゃんと考えてるよ…………いつもありがとう、お母さん」
プツッと電話が切られ静寂が部屋を包む。
「…………ふぅ」
肩の力が抜け、私は一息ついた。
久しぶりに掛かってきたお母さんからの電話。
内容は…………休学している大学のことだった。
私が大学の異性からの執拗な誘いによる精神的ストレスを理由に大学を休学したのは二年前の十二月……第四クォーターから。
そして今は十月。
休学期限ギリギリの二年はあと二ヶ月で終わり、復学するには今月末までに書類を提出しなきゃいけない。
「…………」
復学するのか…………それとも中退するのか。
私の将来を決定づけるリミットはもう一ヶ月後に迫っていた。
…………正直私は、中退してもいいと思っていた。
復学してもまた嫌な思いをするだろうし、休学中に始めたバーチャル配信業で、『
それは少なくとも、大学を卒業して一般企業に勤めて頂けるお給料の何倍、下手をすれば何十倍という金額だった。
────大学に復学するとなれば、『氷月こおり』としての活動頻度は著しく落ちることになる。復学してすぐはバタバタするだろうし活動休止しなければいけなくなるかもしれない。
それなら、大学を中退してこのままバーチャル配信者として生きていこうと思った。
向こう五年、十年と安定してお金を頂くことは出来ないかもしれないが、それでも十分な金額を稼げる見通しはあった。
「…………そう、思ってたんだけどなあ」
でも今は…………違う。
私は、千早さんの隣で人生を歩んでいきたい。
一緒に歳を取って。
皺の数を数えあって。
おじいちゃんとおばあちゃんになって。
……それから先も、ずっと。
「やっぱり…………ちゃんと卒業、した方がいいよね……」
大学を卒業して……会社に就職して。
金曜日の夜は、お疲れ様って言い合いながら居酒屋で乾杯して。
月曜日の朝は、嫌だねーなんて言い合いながら一緒に駅まで歩いて。
そうやって……千早さんと過ごしたい。
……まあ、私はお酒飲んだら大変なことになっちゃうだろうけどさ。
「…………」
氷月こおりを好きでいてくれている千早さん……そしてファンの皆には本当に申し訳なく思う。
────でも。
…………そろそろ、終わりの時なのかもしれない。
◆
『こんばんは。今週末、会えませんか?』
鳥沢さんからのルインがスマホを震わせる。
鳥沢さんとは何度か人見知りを克服する練習に付き合っていて、最近は見違えるほど堂々と話せるようになっていた。付き合った俺も何だか鼻が高い。
今回の誘いも恐らく会話の練習がしたいという事だろう。
人並みとはいかないまでもかなり話せるようにはなってきているし、もう練習は必要ないんじゃないかと俺は思っているが、とはいえ本人が望んでいるのなら俺に断る理由はない。
乗りかかった船だし、出来る限り協力してあげたかった。
「大丈夫だよ、っと」
了承の返事をし予定を詰めていく。
『ありがとうございます。土曜日の夜は平気でしょうか?』
提案された今週の土曜日は…………何の予定もない。確認するまでもなく基本的に予定などなかった。
『土曜の夜は空いてるよ。どこ集合にしよっか?』
そのまま何度かやり取りをして集合場所を決める。
鳥沢さんが指定してきたのはお台場の公園だった。夜に行ったことはほとんどないが、夜景が綺麗なイメージがある。
海に面した歩道やベンチなどもあって、俗に言うデートスポットというやつかもしれない。
『ありがとうございます。では土曜日はよろしくお願いします』
『うん、こちらこそよろしく』
やり取りを終え、俺はトークルームをまじまじと眺めた。
「…………なんか、やけにそっけなかったな」
最近は鳥沢さんともちょくちょくルインをしている。
毎日という訳ではないが……やっぱり話すより文字のやり取りの方が得意なんだろう、鳥沢さん主体で色々話してくれて、偶には冗談を言い合うくらいの仲にはなっていた。
それが今日のメッセージはどれも用件のみの簡素なもので、最近のやり取りからすれば違和感があった。
「…………まあ、いっか」
気になるけど、深く考えるほどのことでもない。
明日は月曜日。
一週間で最も憂鬱な日。
さっさと寝てしまおう。
◆
「はぁ…………最悪だ……」
電車に揺られながら、俺は誰にも聞かれないくらいの声で小さく独りごちた。
今日は仕事で盛大にミスをしてしまって、そのせいで精神衛生がどん底まで落ちていた。
課長の機転で事なきを得たものの……下手をすれば会社に損害を与えてしまうところだった。
「…………はぁ……」
思わずため息が漏れる。電車に乗って数分、これで何回目か。
なんというかこう……理不尽なことで怒られる方がまだいいんだよな。なんだこのやろーとか、ふざけやがってとか、気持ちの持っていき方がある。
でも今回はただただ自分の不注意でしかなくて。
自己嫌悪に似た何かが強烈に心の中で暴れていた。
折角の金曜の夜だというのに……こんな気分では家に帰って酒を飲む気にもなれなかった。
「…………」
スマホを操作し、ミーチューブを開く。
こんな時はこおりちゃんの配信を観て少しでもライフポイントを回復させるに限るんだよな。
けれど……そんな俺のささやかな願いは儚くも打ち砕かれた。
「…………マジか」
残念ながらこおりちゃんは配信していなかった。
いつもなら夜七時から配信しているのに……どうして今日に限って。
…………何だか……何もかも上手くいかないなあ。
スマホをミュージックアプリに切り替えこおりちゃんの曲を流しながら、規則的に並んだ車内広告をぼーっと眺める。
それはエナジードリンクの広告のようで、最近バラエティ番組でよく見る熱血系スポーツタレントが炎をバックにガッツポーズしていた。
…………そんな簡単に元気になれたら苦労しないっての。
心の中でそんなツッコミを入れてしまう。
……疲れてるんだ、それくらい許してくれ。
そのまま十分ほど、死んだ魚のような瞳で熱血系タレントと目を合わせていると、僅かな揺れを伴って電車が最寄り駅に到着した。
慣れた動作で忘れ物が無いか確認し、急いでいるわけでもないのに早足でホームを歩く。もう身体がこの動作を覚えてしまっている。
改札から出て出口に辿り着く。ちょうど駅と外との境目。
────そこに見知った顔があった。
「…………菜々実ちゃん……?」
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