ガトーショコラセット980円

 栗坂さんは結局持ってきた一升瓶を飲み干し、更にバッグからは追加のお酒がポンポン出てきたが、最後まで泥酔することなく、お邪魔虫になるつもりはないわと意味深な笑顔を残してタクシーで帰っていった。どういう肝臓をしているんだろうか。


 相変わらず嵐のような人だったが…………何にせよなーちゃんについて、そしてこおりちゃんについて知ることが出来て良かった。


「…………ねえ」


 栗坂さんを玄関で見送った後、なーちゃんが背中越しに声をかけてきた。


「うん?」


「ちーくんは…………また氷月ひゅうがこおりに会いたいって……思ってる…………?」


「…………」


 そんなことないよ、と答えるべきなんだろう。なーちゃんは自分なりに考えて活動休止という道を選んだ。その意思は最も近しい所にいる俺が尊重してあげるべきで、だからこそ俺はここで即答しなければならなかった。


 けれど俺はその問いに答えられず、沈黙という行為がなーちゃんにとってはひとつの答えだった。


「ごめんね…………これは木崎菜々実じゃなくて、氷月こおりとしての言葉」


「…………謝らないで。俺はなーちゃんの、こおりちゃんの選んだ道を応援したいんだ」


 振り向いて、小さくなっているなーちゃんを抱き締めた。


 ここにある、確かな存在。

 木崎菜々実という女性を大切にして生きていきたい。


 ベッドの中ではなーちゃんが昨日以上に抱き着いてきて中々眠れなかった。打ち明ける不安もあったんだろう。いつもより甘え方が激しくて、なーちゃんが寝付いたのは結局ベッドに入って三十分は経過した後だった。


 愛らしい寝顔を暫く眺めていると、気が付けば俺も眠りに落ちていた。





 とある休日。


「ねーーーーえーーーー」


 ベッドに座る俺の太ももに頭を乗せたなーちゃんが、足をじたばたさせながら間延びした声を出した。


「?」


 下を向くと、すぐ側になーちゃんの顔があった。膝枕してるんだから当然か。


「デート、したい」


 またこれだ。同棲してからというもの、なーちゃんは休日の度にデートに行きたがっていた。


「いいよ、どこに行こうか?」


 そして俺はそんなお誘いが嬉しくて、毎回即答してしまっていた。お似合いといえばお似合いのカップルなのかもしれない。


「えへへ…………好きっ!」


 なーちゃんの腕が俺の後頭部に回され、そのまま押し付けるようにキスをされる。今日だけでもう何回キスしたか分からなかった。


「でもほんと、どこ行こうかなあ。ちーくんは行きたい所ないですか?」


「うーん、俺かあ」


 少し考えてみたけど思いつかなかった。ハイペースでデートしているからカップルで行きたい所はあらかた行き尽くしていたし、恋愛初心者の俺たちは知る人ぞ知る穴場スポットなどには疎かった。


「…………あ」


 ひとつ、思いつく。


 そういえば、数駅移動した所にある喫茶店で、今日から限定スイーツが始まるんじゃなかったかな。

 俺は甘いものは特別好きという訳じゃなかったけど、なーちゃんが喜ぶかなと思ってこういう情報も調べるようになっていた。付き合う前では考えられないことだ。


「この前行った喫茶店、確か今日から限定スイーツ始まるんじゃなかったかな」


「スイーツ!? 行こ!」


 俺のもたらした情報になーちゃんが目を輝かせた。やっぱり調べててよかった。


 時計を見れば午前九時。出かけるには良い時間だ。


「ほらなーちゃん、起きて」


 膝枕しているなーちゃんを急かす。もうそろそろ太腿が痛みを訴え始めていた。


「…………んっ」


 なーちゃんは何かを主張するように両手を広げた。


「はいはい」


 頭を下げると首に両手が回される。そのまま勢いよくお姫様のなーちゃんを抱きかかえた。


「…………ありがとう、ちーくん」


「どう致しまして」


 ゆっくりとなーちゃんを床に降ろす。


「パパッと化粧しちゃいますから、ちょっとだけ待ってて下さいね!」


 ポーチを抱えて化粧室に走っていくなーちゃんの背中を見ながら、俺は「今日もいい日になりそうだな」なんてことを考えていた。





「…………すごいひと」


 喫茶店に着いたのは十一時くらいだった。


 その喫茶店はメイン道路から一本横に逸れた道にあるんだが、その決して広くない道にはカップルや女性グループがひしめきあっていた。ざっと十五人以上は並んでいる。


「やっぱり女の子は甘いものが好きなんだね」


 あるいは写真を撮ってネットに投稿する方がメインかもしれないが。何にせよ好きなことに変わりはないだろう。


「俺たちも並ぼっか」


 人混みから何とか列らしき模様を認識し、その最後尾に並ぶ。喫茶店は回転が悪いし、この調子だと入れるのは一時間後かもしれないな。


「一時間くらい並ぶかもだけど、大丈夫?」


 今は十二月半ば。街並みがすっかりクリスマス一色になったこの時期は、雪こそ滅多に降らないまでも寒さが骨身に沁みる。なーちゃんが寒くなければいいが。


「くっついてるから大丈夫」


 言うとなーちゃんが身を寄せてきた。

 分厚いコート越しでも、その体温が感じられるような気がした。これが心の温かさか。


 ────今の俺達は周りからどう見られているんだろうか。よくいる幸せそうなカップルだと思われているだろうか。


 なーちゃんと付き合うまでは、俺は眺める側だった。


 この世界に沢山存在しているが自分には関係ないもの、として無数のカップルとすれ違ってきた。最早嫉妬心すら消え失せていた。


 そんな無数の中の一組に俺は今なっている。あの頃と立っている場所がほんの少し違うだけなのに、何もかもが違う気がした。数え切れないほどいたあのカップルたちがこんなにも幸せな気持ちで毎日を送っていただなんて、俺は考えもしなかった。


「────えー、もえもえこの前も同じの食べてなかった? 今日は折角限定スイーツが始まるのに」


「だって美味しいんだもん。芽衣ちゃんも一度食べてみなよ」


「うーん…………また今度ね! ボクは限定って言葉に弱いのだ」


 その時、少し向こうから聞き覚えのある話し声が聞こえ、俺はつい視線を送る。なーちゃんも同じタイミングでそちらに目を向けていた。

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