お願い

「トイレを借りてもいい?」


 若干尿意を催していたし、なにより鳥沢さんに手を握られてから微妙に気まずいやら恥ずかしいやらな空気が流れていた。空気をリセットしたかった。


「……えっと、階段を降りて左です」


「ありがとう」


 お礼を言うと俺は鳥沢さんの部屋から出た。言われた通りに階段を下りる。


 階段を下り、綺麗なフローリングの廊下を歩いていると、丁度横のドアが開いた。


「あら?」


 ドアの向こうには綺麗な女性が立っていた。俺を見て声を漏らす。

 三十代だろうか。鳥沢さんのお姉さんにしては歳がいっているが、母親にしては若い。そういう印象だった。


「あ、えっと。萌さんの友達の岡と申します。お邪魔しています」


 俺が頭を下げると、女性は初めこそ驚いた表情を見せたが、直ぐに顔を綻ばせた。


「あらあら、萌のお友達!? 初めまして、萌の母です」


 女性はゆっくりと頭を下げた。一目で「いい所の生まれなんだな」と分かるような上品な動作だった。家も立派だし、鳥沢さんはもしかしたらお嬢様なのかもしれないな。


 鳥沢さんの母親はとにかく嬉しそうに、目尻に薄ら皺をつくりながらにこにこと俺を眺めていた。


「えっと……なんでしょう?」


 何となく居心地の悪さを感じそう言うと、鳥沢さんのお母さんは「ああ、ごめんなさいね」と申し訳なさそうにした。


「萌がお友達を家に呼ぶのなんて、もう十年ぶりくらいだったから。つい嬉しくて」


「十年振り……ですか」


「あの子、周りに馴染めなくて学校も休みがちだったから。卒業してからは外に出ることも減ってしまったの。ここ一年くらいは、楽しそうにしているけれど」


「ああ」


 ここ一年くらいというのは、つまりバレッタとして活動してからということだろう。確かバレッタのデビュー時期が丁度そのくらいだったはずだ。


「萌さんが何をやっているか、ご存知ないのですか?」


「ええ。ネットで何かやっているというのは聞いたけれど、詳しくは。萌が楽しそうにしているからそっとしているの」


「そうなんですね」


 それは……正解かもしれない。

 物静かな娘が、人が変わったかのように煽り文句を吐いてゲームをやっている姿を目にしたら、間違いなく驚くだろう。最悪バーチャル配信者としての活動を辞めさせられるかもしれない。俺が親なら、あの変わりようは心配になる。


「ところで……岡さんと言ったかしら」


 鳥沢さんの母親は頬に手を当て、身体を傾けしなをつくりながら、俺を見定めるような視線を向ける。


「そうです」


「岡さんは……萌の恋人なのかしら?」


「…………へ?」


 予想外の言葉に、俺は固まってしまう。


「ふふ、萌が男の人を家にあげるなんて初めての事だから。そうなのかなって思ったのだけれど」


「いやいや恋人だなんてそんな! お友達です!」


 俺は焦って否定する。

 いきなり何を言うんだろうか。鳥沢さんと俺なんかが恋人なんて。鳥沢さんは大人気バーチャル配信者だし、それを抜きにしてもとても綺麗なんだ。俺なんかが恋人だと言われたら鳥沢さんも迷惑だろう。


「あら、そうなの……残念。どうか萌と仲良くしてあげてね。いつでも、気軽に遊びに来ていいから」


 そう言うと鳥沢さんの母親は歩いていってしまった。


 台風みたいな人だった。鳥沢さんとは大きく性格が違うみたいだ。


 ただ、顔は母親似なんだな。

 そんなことを考えながら俺はトイレに急いだ。





「ただいま」


 部屋に戻ると、鳥沢さんが顔を向けてくる。


「えっと……おかえり、なさい。場所……分かりましたか?」


「うん。途中で鳥沢さんのお母さんに話しかけられてね。それで遅くなっちゃったんだ」


「お母さんに!? ……何か、変なこと……言われませんでしたか……?」


「ああ……恋人なのかって聞かれたよ」


「こっ…………!?」


 俺の言葉に鳥沢さんが口をパクパクさせる。綺麗なアーモンド型の瞳はいつもの二倍くらいに見開かれていた。


「安心して。ちゃんと友達ですって言っておいたから」


「…………はは。……安心、しました」


 鳥沢さんがほっとしたように肩を落とした。


「…………」


 俺は鳥沢さんを見ながら、さっきの会話を思い返していた。


 「どうしてこうなった」と不思議で仕方ないこの関係だが、鳥沢さんの過去を聞いてしまった今、なんだか放っておけなく感じてしまった。


 同情とかそういう訳では無いと思う。

 ただ、友達が少ないのならその数少ない友達の俺が鳥沢さんを笑顔にするべきじゃないのかと、そう思った。自惚れかもしれないが。俺が何かをすることで誰かを笑顔に出来るなら、俺はそれを実行したい。


「…………鳥沢さんさ、何か俺にして欲しいこととかない?」


 気付けば、そう提案していた。


「…………? して欲しいこと……?」


 鳥沢さんが小首を傾げた。


「うん。何かないかな」


「……えっと、いきなりどうしたんですか……?」


「うーん、なんとなく? エムエム教わってるしそのお礼的な」


 出任せにしては違和感のない理由がとっさに出てきたと思う。俺が抱いているこの感情は、俺自身何なのか判別がついていないけど、きっと伝えない方がいい部類のものだろうから。


「……お礼だなんて、そんな……! 私の方こそ、付き合って貰っている立場ですから……」


「うーん、そっか。鳥沢さんがそう言うなら」


「…………あ……」


 何かをしてあげたいが、善意の押し付けはしたくなかった。この話題を打ち切ろうと思ったところに鳥沢さんが残念そうな声を漏らした。

 何か、あるのだろうか。


「遠慮しないでいいよ。俺たち友達でしょ?」


 友達という言葉に勇気づけられたのか、鳥沢さんが期待を込めた目で俺を見上げてくる。


「…………本当に……何でもいいんですか……?」


「うん、いいよ」


「…………えっと……引かないでくださいね……?」


「大丈夫だよ」


 言いながら、俺は少し不安になった。引かないでって……俺は一体何を言われるんだろうか。


「………………に、行きたいです……」


 ぼそっと絞り出すような鳥沢さんの声。肝心な所を聞き漏らしてしまった。


「ごめん、聞こえなかったかも」


 鳥沢さんは何度か大きく呼吸をすると、握りしめた手を僅かに震わせて話し出した。


「…………え、えっと…………で、デートに……行きたい、です……」


「…………デート!?」


 栗坂さんの言っていたことは本当だったんだ。

 今、若者の間では確かにデートがブームらしかった。

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