氷月こおり再び

 青色発光ダイオードを開発したことで日本人がノーベル賞を受賞したのは記憶に新しいと思う。確かここ十年以内の出来事のはずだ。


 俺はそのニュースを聞いた時、正直「ふうん」と思っただけだった。世界のどこかで起きている自分とは関係の無い出来事だと整理して、すぐに頭から消えていった。何が凄いのかも、よく分からないままだつた。


「………綺麗……」


 なーちゃんが呆然とした様子で呟く。


 俺たちの目の前に広がっているのは…………一面の青。


 数千数万の青色発光ダイオードに彩られた街路樹が、大通りを柔らかな青で染めていた。


「…………ちーくん、見て」


 なーちゃんは視線を一面の青に釘付けにさせながら、腕だけでスーツの裾を引っ張ってくる。表情を確認したら口が開きっぱなしになっていた。


「綺麗だね。何か圧倒されちゃった」


「うん…………本当に綺麗……」


 通りの真ん中に足を止めて、眼前に広がるロマンティックな景色を目に焼き付ける。迷惑かと思ったが周りのカップルも同じようなことをしているし…………今日だけは許してくれ。


「…………ここは毎年通っているけど、綺麗だと思ったのは初めてだ」


 この道は通勤路だから、俺は毎年このイルミネーションに彩られた大通りの景色を見ていたはずだった。

 朧げな記憶を引っ張り出せば、この道は毎年青一色に染まっていた気がする。


 …………見ている景色は同じはずなのに、こうも違うものなのか。


 思えば、去年までは何だか自分が世界から歓迎されていないような気がして、どこか強制力のあるクリスマスのお祝いムードからすらも仲間外れにされているような気がして、隠れるように足早に通り過ぎていたっけ。


 今日やっと、初めて胸を張ってこの景色を胸に刻む事が出来た気がした。


「…………なーちゃんと会えて、本当によかった」


 手を彷徨わせて、なーちゃんの手をぎゅっと握る。


「…………え?」


 俺たちの手繋ぎは、俺が普通に握ってそれをなーちゃんが恋人繋ぎに組み替えるのが何となくお約束になっていた。だけど今回は俺から恋人繋ぎをしたから、なーちゃんが驚いて声をあげた。


「…………今日はこれでもいいかなって」


 言って、顔が熱くなるのを感じる。恥ずかしくてなーちゃんの顔は見られなかった。やるんじゃなかったと早くも後悔が押し寄せる。


「…………えへへ……!」


 でも、嬉しそうに繋いだ腕を振って歩き出すなーちゃんを見ているとそんな気持ちも吹き飛んでしまうのだった。


「ちーくん、ほら早く!」


 振り返って、笑顔でぐいぐいと腕を引っ張ってくるなーちゃんと、その後ろで俺たちを優しく照らす青色発光ダイオードの光を目に焼き付けながら、俺は小走りでなーちゃんの隣に追いついた。





 年が明け、その時がやってきた。


『皆さんこんばんは。氷月ひゅうがこおりが午後七時をお知らせ致します』


 俺はモニターに噛り付いて、約一か月振りのこおりちゃんの配信をその身に浴びていた。


 …………こおりちゃんの声を聴くのは、なーちゃんが俺に自分が氷月こおりだと打ち明けてくれたあの朝以来だった。頼めばこおりちゃんの声で話してくれたのかもしれないけど俺にそんなつもりはなかったし、なーちゃんも自分からそういったことはしなかった。多分、ファンだった俺に負い目を感じているんだと思っている。


『…………なんと言ったらいいのか……言葉がうまく纏まりませんが、またこうして皆さんの前にいられることが本当に嬉しいです』


 濁流、としか形容できないような速度でコメントが流れている。

 この一か月溜まりに溜まったファンの声が文字という形を借りてコメント欄を走り抜けていた。少し目を離すだけでコメントカウンターが大幅に更新されていく。開始直後にしてコメント数は五万を超えていた。視聴者数も十万人に達している。こんな速度は今まで見たことがない。


『私に声を掛けて下さったのは、ありすさんとバレッタさんでした』


 こおりちゃんが語りだす。


 今日、何を話すのか。

 俺はそれを全く知らなかった。こおりちゃんの前では俺はただのファンでいたかったから。


 それを伝えると、なーちゃんは「分かりました」と淡く微笑んだ。その表情の真意を俺は分からないままだった。


『…………悩みました。一度配信を捨てた私が、かつて捨て去った物を拾い直してもう一度皆さんの前に立つ資格があるのか』


 なーちゃんが夜も眠れないほど悩んでいたことを、俺は知っている。


『…………ですが。皆さんの声を見て。聞いて。私が捨ててしまった物の大きさを知りました。私を待ってくれている人の多さを知りました』


 コメントは大盛り上がりを見せている。俺たちの頑張りが未来を変えたんだ、とまるで世界を救った英雄のような雰囲気に包まれていた。


『正式な復帰はまだ先になると思います。半年後か、一年後か。それでも、必ずまた皆さんの元に帰ってきます。なので……これからも、よろしくお願いします』


 その言葉を最後に画面は途切れ、久しぶりのこおりちゃんの配信は五分ほどで終了した。


 配信が終わったあともコメントが物凄い速度で流れていき、ツブヤッキーもその話題で持ちきりだった。


 けれど俺はその祭りじみた雰囲気に混ざる気になれず、ただぼーっと画面を見つめていた。


「……なーちゃん、決断したんだね」


 なーちゃんがどんな決断をしようとも、俺はそれを尊重するつもりだった。こおりちゃんを続けていきたいと言うのなら、その為に俺に出来ることをしよう。


 なーちゃんがこおりちゃんを続けることで、全ての人が幸せになればいいななんて、そんな事を思いながら、俺は愛する人の元へ向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る