配信中に失礼します。

 ブラックコーヒーの苦い酸味が口の中いっぱいに広がっていく。


 相変わらず、不味い。

 職場の連中は毎日何杯も飲んでいるみたいだが、お金を払ってこれを飲む人の気がしれないな。


 そして、不味い理由がもう一つ。


「…………にひひ」


 にたぁ……と怪しげな笑みを浮かべてこちらを窺う女性が一人。


 その名は神楽かぐら芽衣めい

 チャンネル登録者数百万人、大人気バーチャル配信者・不可思議ふかしぎありすの中の人だ。


 ――俺は今、この女性の自宅に軟禁されている。


 ちょっとでも羨ましいと思った奴。今すぐ代わってくれ。


「どう? 本当のこと、話す気になった? あ、コーヒーならおかわりあるから言ってね」


 神楽さんは肩口で切り揃えられた少し癖の強い毛先を指先でくるくる弄びながら、愉快そうに俺を観察している。そのため俺は大嫌いなブラックコーヒーを何でもないような顔で飲む羽目になった。


「……だから何度も言ってるだろ。俺はただのサラリーマンだし、姫は前に道で一度会っただけだって」


 このやり取りをもう何度繰り返したか。だだっ広いリビングには既に茜色の西日が差し込んでいた。


「千早くんも強情だなあ」


 オウムのように同じことを繰り返す俺に、神楽さんはそれでも嫌な顔ひとつしない。

 私はいくらでも付き合いますよと言わんばかりの余裕たっぷりの表情だ。


「そもそもその千早くんって呼び方はなんなんだ。俺たちは友達か?」


 にっちもさっちもいかないこの状況に少しばかりイラッとしてしまう。こっちは貴重な休日を潰してるんだぞ。


「友達じゃないの? ボクは連絡先交換したら友達だと思ってるよ?」


 神楽さんは語気を強めた俺を意に介さずケロッとした顔で即答してくる。


 やはり俺とは違う価値観で生きているんだな。


「連絡先交換って……完全に姫のついでにって感じだったじゃないか」


「それでも一応人は見てるよ? 千早くんはまあ……無害そうだし大丈夫かなって」


 確かに俺は無害だろう。この状況で大人しくソファに座り好きでもないコーヒーを啜っているのが何よりの証拠だ。

 可愛らしい若い女性が意味の分からない理由で男を自宅に軟禁しているというこの状況。

 はっきり言って俺が少しでも悪人だったら神楽さんはタダでは済んでいないだろう。


「まあ確かに俺は神楽さんに何かしようという気はないが」


「でしょ? 流石にボクもその辺はしっかりしてるんだよ。ストーカーとか無いわけじゃないしね」


 神楽さんは得意げに胸を張った。

 だからそんな薄着で身体のラインを強調する動きは止めてくれ。目のやり場に困るんだよ。


 それにしても、気になる話題が出た。


「ストーカー?」


 バーチャル配信者界隈の中でもバーチャリアルは疑似恋愛路線で売っている企業だ。告白だったり付き合った体でのシチュエーションボイスを販売していたり、中の人のパーソナリティに言及した掛け合いも多い。


 勘違いして配信者に恋してしまう側が悪いのは間違いないが、その気持ちも分からんでは無かった。

 そしてそうなれば当然ストーカーなどの被害も考えられるだろう。


「その為にこういう所に住んでるのもあるし流石にリアルで被害にあったことはないけど、ネットストーカーみたいなのは沢山いるよ。ボクのツブヤッキーの質問箱とかメール見たらびっくりすると思う」


 神楽さんはあはは、と乾いた笑みを浮かべた。


 あの明るい神楽さんが呆れてしまうほどの被害なのか。きっと相当な数なんだろうな。


「まあその辺は仕方ないって割り切ってる部分もあるんだけどね。うちみたいな売り方してる以上どうしてもさ」


「……それでも、やる方が間違ってると思うけどな」


 推しにこんな顔をさせていい訳が無い。

 ファンとして最もやってはいけない行為──それは推しを悲しませることだ。


「なぁにぃ? 心配してくれてるの?」


 神楽さんは俺の顔を覗き込むとニタァ……と顔を歪ませた。心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。

 なんだか悔しいので俺は嘘をついた。


「……別に。こおりちゃんがストーカー被害にあったら嫌だなと思っただけだ」


 もしそんなことになったら、俺は全身全霊で俺に出来ること全てをするだろう。実際はこおりちゃんがストーカー被害にあっていたとしても、それを知ることすら出来はしないんだが。


「そういえば氷月ひゅうがこおりちゃんのファンなんだっけ」


「人生だ」


 俺は即答する。


「…………ふぅん。可愛いもんね、こおりちゃん。最近大人気だし」


「俺は初期から知ってるけどな」


 いかん、つい古参マウントを取ってしまった。

 最近こおりちゃんが人気になって色々なファンが増え、コメント欄や配信の雰囲気も昔とは様変わりした。当然なかにはマナーの悪いファンもいるわけで……どうしても昔は良かったと思ってしまう部分がある。老害にならないように気を付けなければ。


「千早くんはボクの配信とか観てくれてたりしないの?」


 妙に真剣な表情で神楽さんは尋ねてきた。


「この前一回だけ観たぞ。仕事で接することになるから一応観ておこうと思って」


「どうだった?」


「どう、と言われてもな…………エムエム下手だなとは思ったかな」


「あははっ、なにそれ!」


「俺も下手だから他人ひとのこと言えないんだけどな。この前ゴールドに上がったばかりだし」


「じゃあボクと同じくらいじゃん。……そうだ、今度一緒にやろうよ! MMVCに向けて少しでも上手くなりたいんだよね」


 下手っぴが二人でプレイして上達が望めるのかは分からないが、一緒に遊ぶのは大歓迎だ。

 今のところ菜々実ちゃんしか一緒に遊んでくれる人はいないからな。菜々実ちゃんはエムエムがめちゃくちゃ上手いし、正直初心者の俺を介護して貰って申し訳ない気持ちもある。同じくらいの実力同士でプレイするのもそれはそれで楽しいだろう。


「俺でよかったらいつでも。ただ、腕前は本当に期待しないでくれ」


「大丈夫大丈夫、全然期待してないから」


 神楽さんはそう言うと、スマホで時間を確認した。


 ――瞬間、血相を変えて立ち上がった。


「やばっ! 今日十九時から雑談配信あるんだった! うわーやばいやばいやばい!」


 現在時刻は十九時の五分前。準備にどれだけ時間が掛かるのか分からないが、遅刻は免れないだろう。


 神楽さんはスマホを引っ掴むと、どたどたと騒がしく隣の部屋に消えてしまった。そこで配信をしているのだろう。


「おい! 俺を帰してから行け!」


 俺の声は空しく神楽さんが消えていったドアに吸い込まれていった。


「…………いやいや、何考えてるんだよ」


 今日は日曜日。つまり明日は仕事だ。

 日曜日の夜の過ごし方で平日の仕事を頑張れるかが決まると言っても過言ではない。

 本来なら、酒を飲みながらこおりちゃんの配信を観て英気を養っているはずだった。


 それがどうだ。

 目の前にはもうすっかり温くなった豆をすり潰した苦くて黒い汁。広々とした落ち着かないリビングにポツンと一人取り残されている。


 ……頼むから家に帰してくれ。


 俺はスマホを操作し、不可思議ありすの配信ページを開いた。終了予定が書いていないか探すためだ。


『やっほ~。不可思議ありすだよ。遅刻しちゃってごめんね! ちょっと家事が長引いちゃって気が付いたら配信の時間になってて焦ったよー!』


 丁度神楽さんの配信が始まったところだった。防音室になっているのか、隣の部屋からは話し声は全く聞こえない。


 『家事出来てえらい』『いいよ』『やっほー!』『家庭的なありすたん推せる』『待ってました』


 コメントが滝のような勢いで流れていく。そのほぼ全てが遅刻など全く気にしていない。バーチャル配信者界隈のファンは基本的に甘々なのだ。


 それにしても何が家事だ。罪のない一般人を自宅に軟禁していたら――の間違いだろう。

 ファンの皆もまさか自分の推しが犯罪行為に手を染めているとは思うまい。俺だってこおりちゃんの配信を観ていてそんなことは欠片も考えない。画面の向こうでは何が起きているかなんて分かりようもないんだな。


 悲しいことに配信終了時間の記載はなく、神楽さんの口からそれらしい言葉が出ることもなく、話題は最近プレイしたゲームや気になる映画などに移っていった。


 バーチャル配信者は平気で四、五時間ぶっ続けで配信したりする。こおりちゃんもそうだ。

 もしこの配信が終わるまで帰れないというのなら、俺の日曜日は完全に終了する可能性さえあった。


 ――――行くしかないか。


 配信中の所に邪魔するのは申し訳ないが、俺も四の五の言っていられる状況じゃなくなった。


 俺は立ち上がると、物音を立てない様に気を付けながら神楽さんが配信しているだろう部屋のドアノブをゆっくりと捻った。





 部屋の中は予想に反してファンシーな家具が並んでいるようなこともなく、配信に使用しているんだろう機材やパソコン、ゲーム機、それからソフトやグッズなどが所せましと置かれていて、まさに『仕事場』という雰囲気だった。てっきり私室で配信しているんだと思ったがどうやら別にあるらしい。


 神楽さんはちょうどこちらに背を向けるようにしてゲーミングチェアに座っている。ヘッドホンをして、上半身にはモーションキャプチャー用?の機械をバンドで固定していた。ああやって画面上のモデルを動かしてるんだな。

 L字型のテーブルにはモニターが三枚並んでいて、モデルの表示のされかたやコメント欄などが同時に確認出来るようになっていた。凄い環境だ。一体いくらお金が掛かっているのか。


「あ、最近だとねーボクはあれが気になったかな。なんだっけあの魔法少女アニメの新作…………そうそうそれそれ! あれ面白いって聞くんだよねー」


 神楽さんは俺が部屋に入ってきたことに全く気が付いていない。いいヘッドホンをしているのが裏目に出たか。


 驚かせない様に軽く肩を叩こうと思ったが、俺の心の中の悪魔がちょっとしたイタズラを提案してきた。


 普段なら一蹴するところだが、俺は休日を潰されて鬱憤が溜まっている。


 ――つい悪魔に負けてしまった。


 俺は足音を殺して神楽さんの背後に忍び寄ると、後ろから脇腹をくすぐった。


「え、あのシリーズってそんな設定なの!? 絶対おもしうひゃッ!?」


 神楽さんはビクンと飛び上がった。バッと振り向きこちらを睨んでくる。相当驚いたのか目の端には涙が浮かんでいた。


 か・え・せ。


 俺は口パクでそう伝えた。


 モニターをチラ見するとコメント欄は『どうしたの!?』と心配する内容で凄い勢いになっていた。

 急いで神楽さんがフォローに入る。


「ごめんごめん! 上に置いてたものが急に落ちてきてびっくりしちゃった! 掃除するからちょっと離席するね!」


 神楽さんはヘッドホンを外すと俺の手をむんずと掴み部屋の外に連れていく。

 やばい、怒らせたか……?


 ドアをしっかりと閉めたのを確認すると、神楽さんは目の端の涙を拭った。


「……めっちゃびっくりした。一体なんなのさ」


「帰してくれ。流石に明日の仕事に影響が出る」


 神楽さんは怒ってはないようだった。ビックリが勝っただけかもしれないが。


「……今日の所は帰してあげる。姫とのことは嘘はついてないみたいだし。カードキーだけ返して頂戴」


 配信を中断しているからか、俺に邪魔に入られるリスクが相当高いのか……まあ両方だろう。神楽さんがついに折れてくれた。

 俺はポケットに入れていたカードキーを手渡した。


 神楽さんはカードキーを受け取るとインターホンパネルに歩いていき指を押し付けた。やや間があり、玄関からガチャという開錠音が聞こえてくる。指紋認証なのか。


「ほら、開いたよ」


「じゃあ帰る。邪魔したな」


 俺は今度こそウサギのスリッパとお別れをし、玄関から脱出した。


 エレベーターに乗ると特に操作を必要とすることもなくゆっくりと下降を開始した。

 落ち着いて、どっと身体が重くなるのを感じる。


 ……物凄く疲れた。今日はもう帰ったら寝てしまおう。


 スマホが音を立て新着メッセージを告げる。差出人は今別れたばかりの神楽さんだった。


『次やったらホントに怒るからね!』


 神楽さんの中では次の予定があるんだろうか。

 今日みたいなのは、もう勘弁願いたいところだ。

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