咳をしても一人
朝。
俺はベッドの上でマグロになっていた。
変な意味じゃない。
身体が全く動かないんだ。
上半身を起こそうとするが、信じられないくらい身体が重い。
これは────。
「…………風邪引いた……」
頭痛。
息切れ。
発熱。(測ったわけじゃないけど感覚的に)
完全に風邪の症状だ。疑う余地もない。
「……マジか」
俺はあまり体調を崩すことがない。
というか、社会人三年間で一度も会社を病欠したことがない気がする。
頑丈な身体だけが唯一の取り得だった。
明らかに出勤できるような体調ではないので、俺は枕の横にあるであろうスマホを手探りで掴むとルインを起動した。課長に病欠の連絡をしなければ。
課長とのトークルームを表示させる。前回のチャットは半年以上前──飲み会の出席を聞かれて「参加します」と返信したところで終わっていた。俺のようなパッとしない社員は飲み会に参加しないとどんどん肩身が狭くなる。出席はマストだった。
焦点の合わない目を何度か擦りながら文章を作成していく。体調が悪いからといって上司への礼は失してはいけない。社会人の基本だ。
『おはようございます。本日体調不良のため有給を使用させて頂きたいのですがよろしいでしょうか? 作業上の懸念はありません。申し訳ありませんがよろしくお願い致します』
こんなものか。
頭の中で反芻して違和感がないことを確認し、送信ボタンを押した。
「…………ふぅ……」
上司への連絡という最大の関門を突破し気持ちが楽になる。
人によっては連絡をした瞬間、嘘のように体調不良が治ったということもあるらしい。
どれだけ仕事が身体にストレスをかけているかが分かるいいエピソードだ。
確定するまで寝る訳にもいかないので目を閉じてぼーっとしていると、スマホがメッセージの受信を知らせた。
『珍しいな。了解、お大事に』
課長からの簡素なメッセージを確認し、俺はスマホを持っていた腕をダランとベッドに放りだした。
これで正式に今日はお休み。完全に肩の荷が下りた。
エアコンの温度を少し下げ、俺は頭痛に押しやられるように目を閉じる。
痛みに耐えながら考えるのは今日の事。
本格的に風邪を引いたことなんて数回しかない。
そのうち今回以外は全て小さい頃で、普通に実家に住んでいて親に看病をしてもらった。
……一人なのは、今回が初めてだ。
気付くと、急に空虚な寂しさに襲われた。
────誰でもいいから一緒にいて欲しい。一人で居たくない。
そんな衝動が胸に押し寄せる。胸に大きな穴が空いて、乾いた風がそこをびゅうびゅうと吹き抜けていくような、そんな感覚。
「…………なんだこれ……」
祈るように目を開けても────当然誰かが居てくれたりなんてするはずもなく。
やけに広く感じる八畳間が、無機質に俺を包んでいるだけだった。
…………どうせ起きたところで薬は常備していない。買いに行く体力もない。
寂しさを紛らわすように、俺は必死に薄いタオルケットにしがみついた。
◆
気付けばいつの間にか眠っていたようだった。
スマホを確認すると、午後五時。
「…………寝すぎた……」
あれから十時間ほど寝ていたことになる。
自分でも気付かないうちに疲れていたのかな。
肝心の体調は少し楽になっていた。
まだ熱はある気がするが、朝よりは大分マシだ。
スマホの画面に通知が出ていたので俺はルインを起動した。もしかしたら仕事で何かあったのかもしれない。
しかし画面に表示された名前は課長ではなかった。
『良かったら夜一緒にエムエムやりませんか?』
四時頃にそんなメッセージを受信していた。
エムエムか……申し訳ないけどゲーム出来るような体調じゃないんだよな。
明日は出勤したいし、今日は極力安静にしておきたい。
『ごめん、風邪引いちゃったから今日はゲーム出来そうにないんだ』
送信すると、すぐに返信が来た。
そのままやりとりが始まる。
『風邪!? 大丈夫なんですか!?』
『朝よりは多少マシになったから多分大丈夫。心配してくれてありがとう』
『良かった……ちゃんとお薬とかご飯とか食べてますか?』
『薬は無かったからとりあえず寝てさっき起きたんだ。ご飯は食べる気力ないかも』
送信して、喉の渇きに気が付く。
エアコンの効いた部屋でずっと寝ていたから流石に口の中が乾燥していた。
俺は横を向くようにして上半身を起こした。
相変わらず頭は重いし思考はぼーっとしている。
兎にも角にも喉を潤さなければ。風邪的にも悪い気がする。
俺はベッドに両手を突いて立ち上がった。
──そして、すぐにたたらを踏み不時着した。
思ったよりフラフラする。立って歩くことはまだ出来ないみたいだ。
俺はゆっくりと重い身体を引き摺るように四つん這いで冷蔵庫に辿り着くと、思いきりミネラルウォーターを呷った。
「…………ぷはっ」
口をつけたら止まらず、二口でペットボトル一本を飲み干してしまった。身体は相当水分を欲してたみたいだ。
枕元に置いておく用に新しいペットボトルを一本掴むと、俺は同じように身体を引き摺りながらベッドに戻った。下から転がるようにダイブする。
スマホを確認すると、ちょうど菜々実ちゃんから返信が来た。
『お薬も飲んでないんですか!? それはダメですよ! 私看病しに行くので部屋番教えてください!』
菜々実ちゃんはとんでもないことを言い出していた。
看病しに、ってうちに来ようとしてるのか……?
申し出自体はとてもありがたいけど、流石にそんなこと頼めるわけがなかった。
家族でもなければ、当たり前だが彼女というわけでもない。菜々実ちゃんが彼女だなんて、考えることすら申し訳なさすぎる。
『流石にそれは申し訳ないよ』
『こんな時に遠慮しないでください。千早さんの事が心配なんです。お願いですから私に看病させてください』
断られることを想定していたのか物凄い速さで返信がきた。
──千早さんのことが心配なんです。
その言葉を見て、心の芯が熱くなる。
この広く寂しい東京で、一人だと思っていた。
でも……こんな俺を、心配してくれる人がいた。
「…………ダメだって。風邪移したらどうするんだ」
頭だか胸だかから聞こえてくる強烈な衝動、声から必死に意識を逸らす。
菜々実ちゃんのメッセージを見た瞬間からそれはどんどん大きくなっていって、ついに耐えられない強さになろうとしていた。
────誰でもいいから一緒にいて欲しい。
…………一人で居たくない。
気付けば、マンションの部屋番号を送信していた。
……ごめん、菜々実ちゃん。
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