しーっ
精神を落ち着かせ、俺は神楽さんの配信部屋の扉を開けた。
リビングより少しだけ低い温度に設定されたエアコンの風が、俺の身体をそっと撫でていく。
神楽さんはヘッドホンをして誰かと通話しているようだ。恐らく今日一緒にペアを組み戦うことになるバレッタとだろう。
入り口に背を向ける形でゲーミングチェアに座っている為その表情は伺い知れないが、声色から楽しそうなのが伝わってくる。
神楽さんの隣に、もう一脚ゲーミングチェアがある。この前忍び込んだ時は無かったはずだ。
……俺はあそこに座ればいいのかな。本当に真隣だが……プレイの邪魔になったりしないだろうか。
俺は物音を立てない様に注意しながらゲーミングチェアを回転させ座った。うちにある奴より座り心地がいい。見た目はそう変わらないがきっと高いモデルなのだろう。
神楽さんは俺に気が付くとこちらを向いて顔を綻ばせた。一面のひまわり畑を思わせる満開の笑顔。
……悔しいけど、可愛い。
「バレッタ、調子はどう?」
神楽さんが正面を向き直る。通話の相手はやはりバレッタのようだ。
「……うん……大丈夫。ありすちゃんは……?」
「ボクはすこぶる調子いいよ~! 優勝しちゃおうぜぃ」
バレッタの声がスピーカーからも聞こえてくる。バレッタというより鳥沢さんか。
……鳥沢さんのままってことは、まだ配信してないんだな。今なら喋っても大丈夫だと思うが……万が一を考えると怖い。それに神楽さんと一緒にいることで鳥沢さんに変な誤解をされたくもない。この部屋にいるうちは一言も喋らないでおこう。
「よっし、そろそろ配信しよっかな! バレッタ準備オッケー?」
「……大丈夫。私も配信するね」
神楽さんは慣れた手つきでマウスを操作し、色んなソフトを立ち上げていく。よくは分からないがモーションキャプチャ用だったり配信用だったりするんだろう。
「…………」
何をするでもなくその様子を眺めていると、準備を終えたのか神楽さんが俺を見る。アイドルみたいに可愛い顔、その大きな瞳が俺を捉えた。
「…………?」
俺は「何?」と言わんばかりに眉を動かした。まともに顔を見返すと、この特異な状況のせいもあって変な気持ちになりそうだった。少しオーバーなリアクションになってしまう。
「…………ふふっ」
神楽さんは口に人差し指を当てると「しーっ」という口をした。
「…………」
俺は頷いた。
……なんだか、イケナイことをしてるような気分だ。もしかしたらイケナイことをしてるのかもしれない。
◆
配信ページには既に数万の人が集まっている。
バレッタとありすちゃんのコンビは合計チャンネル登録者数で言えば全ペアの中で一番だろう。その数はゆうに二百万人を超える。
配信が始まるのを今か今かと待ちわびたコメントの流れはどんどん速さを増していた。
神楽さんが何度かマウスをクリックすると、配信画面がエムエムに切り替わる。
────配信が始まったのだ。コメントが沸き立つ。
「やっほ〜!
『やほ』『優勝!』『おー!』『始まった!!!』『おいす〜』『ありすちゃ〜〜〜〜』『おおおおおおおお』
凄まじい速度でコメントが流れていく。
…………俺は緊張でじっとりと汗をかいていた。もし咳でもしようものなら全てが終わる。絶対にトチるわけにはいかない。
「えっと、まず注意事項。集合が掛かったら配信は三分遅延になるからね〜。 あと基本的にコメントは見れないからそこんとこよろしくぅ!」
神楽さんが配信の説明をしていく。
エムエムに限らず、大会の配信はリアルタイムから数分遅らせて配信することが多い。色々な不正を防止するためだ。
「じゃあコメント閉じるから、あとは応援頼んだよ!」
神楽さんがマウスを操作しコメント欄を見えないようにする。
「…………」
…………凄い。
いつも画面の向こうにいる、大人気バーチャル配信者。それが目の前にいるんだ。
頭では分かっていたが……実際目の当たりにすると身体の奥がビリビリする。本当に凄い人と知り合いになったんだな……。
「…………」
神楽さんは俺に目を合わせるとふふっと微笑みかけてくる。
神楽さんは数万人に観られていても余裕そうだ。もうすっかり慣れているんだろう。関係ないはずの俺の方がガチガチに緊張していた。
「バレッタ〜、ボクたち優勝出来るかなー?」
バレッタの声は聞こえない。さっきとは違いヘッドホンからのみ出力されるようになってるんだろう。配信画面はミュートになっていて、そっちから音声を拾うことも出来なかった。
「あははっ、足引っ張らないように頑張るよ〜」
神楽さんが笑う。
数万人に観られているというのに、大事な大会前だというのに、その様子はいつもと変わらない。俺と練習している時と全く同じ雰囲気だ。
そんな神楽さんを見て、なんだか少し落ち着いた。
そうだよな、俺が緊張していても仕方ない。リラックスして神楽さんを応援しよう。
……あとは、こおりちゃんも。
「おっ、集合の連絡がきた。そろそろ始まるね」
第二回MMVC。
沢山のバーチャル配信者がここ一ヶ月練習に練習を重ねてきた。
こおりちゃんは「練習する必要があるのか?」というくらい上手いが、それでも頻繁に練習配信をしていた。バレッタもそうだ。
姫も「足を引っ張るまい」と必死に頑張っていた。前回大会で放送が荒れてしまった経緯もある。優勝にかける想いは人一倍強いだろう。
俺は神楽さんが一生懸命練習する姿を近くで見てきた。
あれこれと二人で悩みながら、それでも少しずつ上達してきたはずだ。
…………報われて欲しいと思う。優勝して喜ぶ神楽さんの姿が見たい。
「隣で見てて欲しい」と神楽さんは言った。
俺は神楽さんの力になれているだろうか。
「…………」
……ただ、こおりちゃんにも優勝して欲しい。
前回大会、こおりちゃんは姫の放送が荒れてしまったことを凄く気にしていた。大会の後しばらく元気が無かった。それは気丈に振舞っている配信からでも分かるレベルだった。
今回負けたら、また同じことが起こるかもしれない。もうあんなこおりちゃんを見るのは嫌だった。
「…………」
こおりちゃんと神楽さん、俺はどっちの優勝を願っているのだろうか。
もう俺自身ですら分からなかった。
────二人とも優勝出来ればいいのにな。
そんなことを本気で思う。ただ現実は甘くない。どちらかは、もしくはどちらも負けるのだ。
「よーし、頑張るぞー!」
神楽さんが気合を入れる。
もやもやとする俺をよそに、第二回MMVCの火蓋が切って落とされた。
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