推しの正体

「────もうなあ! 私はもどかしくてもどかしくて、仕方なかったんだよぉ……!」


 栗坂さんが勢いよくグラスを引っ掴むと、なみなみと注がれた日本酒が一瞬で空になった。栗坂さんは俺達の関係に並々ならぬ想いがあったみたいで、その目には涙が浮かんでいた。


「なーちゃんも飲む?」


 栗坂さんが持ってきたという一升瓶を自分のグラスに注ぎながら尋ねると、なーちゃんは頬を赤く染めながらかぶりを振った。


「…………私、もうお酒は飲みません」


 どうして、と言いかけてその原因に思い至る。


 そういえばこおりちゃんは姫とのオフコラボの時に『ちょい酔いサワー』一口で前後不覚になっていたんだった。


 そのことは強烈に覚えていたはずなのに、どうしても目の前にいるなーちゃんと結びつかなかった。

 リアルの彼女が実はネットの推しだったんですよと言われて、ああそうだったんですね、と理解出来る人はきっと極少数だと思う。


「…………可愛かったな、あのこおりちゃん」


 ついポロリと本音を零してしまい、慌ててソファの隣に座っているなーちゃんの表情を確認する。

 彼女の前で他の女性────それも一度は好きだと言っている────のことを可愛いと言ってしまったのはデリカシーに欠けていた。反省しなければ。


「…………あれ、本当に恥ずかしかったんですからね」


 なーちゃんは胸に抱いたウサギのクッションに顔を沈み込ませて、頬を膨らませていた。どうやら怒ってはいないみたいでほっと胸をなでおろす。


「…………ん……?」


 …………そもそもこおりちゃんとなーちゃんは同一人物なんだから、こおりちゃんのことを好きだと言っても浮気にはならないんじゃないか?

 まだまだ心がこおりちゃんとなーちゃんを別の存在として捉えていて、意識が切り替わってくれない。


「…………本当に、なーちゃんがこおりちゃんだったんだね」


 心に刻みこむように、ゆっくりと吐き出す。

 言葉にしても、頭では分かっていても、その言葉にはやはりどこか現実感がないのだった。


「…………そうです。私が、氷月ひゅうがこおりです。…………今まで黙っていて、本当にごめんなさい」


 なーちゃんが顔を完全にクッションに埋めてしまう。ソファの上で小さく膝を抱えているなーちゃんを何とか励ましてくて、俺はなーちゃんの頭を優しく撫でた。


「ごめん、怒ってるわけじゃないんだ。…………こっちこそ、結構恥ずかしいことを言ってしまった気がするし…………」


 ちいさくて、まんまるで、いい匂いがするし、髪がサラサラで気持ちがいい。撫で心地が良いからついいっつも撫ですぎちゃうんだよな。

 なーちゃんも撫でられるのが好きみたいで、毎回猫みたいに目を細めて気持ちよさそうにしてくれる。


「そーだそーだ! 寧ろななみんは岡さんに怒ってもいい!」


 栗坂さんが叫ぶ。

 因みにこのマンションは防音機能が優れているから、叫んでも近所迷惑にはならないらしい。


 栗坂さんの言葉に全く心当たりがなくて、俺は途方に暮れる。俺…………なーちゃんに何かしてしまったのか……?


「えっと…………どういうことですか?」


 俺が尋ねると、栗坂さんはため息を一つついてグラスに日本酒を注ぎ始めた。


 …………ところで一体何杯飲む気なんだ、この人。


「岡さんはね…………はっきり言って、鈍感すぎる! ななみんがいつから岡さんの事好きだったと思ってるんだ!」


「ちょっ…………!?」


 なーちゃんが勢いよくクッションから頭を上げた。お酒を飲んでいないのに頬が赤く染まっている。


「…………そういえばそういう話はしたこと無かったです。いつからなんですか?」


 俺がいつからなーちゃんのことを好きだったのかは…………正直分からない。必死に意識しないようにしていたから。


「はあ…………ななみん。この鈍感男に教えてやってよ、ななみんがいつから岡さんのことを想って過ごしてたのか」


 栗坂さんの言葉を受けたなーちゃんは、折角上げた顔をまたクッションに沈みこませた。


「……はじ………………とき……」


「…………うん?」


 なーちゃんの声は小さくて、もごもごとしている。恥ずかしがってるんだろうか。


「…………初めて……会った時から。…………ずっと、好きだった…………」


「…………マジか」


 その答えは正直予想外で、俺は面食らう。


 初めて会った時って…………つまりなーちゃんを助けた時だよな。

 あの時から好きだったって言われても…………そんな素振りは無かったような気がする。

 それとも栗坂さんの言う通り俺が鈍感なだけなんだろうか。


「…………」


 クッションに隠れてなーちゃんの表情は窺い知れないが、見れば耳まで真っ赤になっている。


 ふと出来心でその耳をつまむと、なーちゃんは「ひゃうっ!?」と可愛い声を出して飛び上がった。


「…………むぅ」


 頬を膨らませたなーちゃんがお返しとばかりに思い切り身体を寄せてくる。柔らかいソファと、柔らかくて温かいなーちゃんに挟まれて、それはとても気持ちが良くて全然お返しになってなかった。


 人目を憚らずスキンシップを取り合う俺達に栗坂さんが苦笑する。


「岡さんがこおりちゃんのファンだってことは最初から知ってたし、ななみんが岡さんのことを好きなのも最初から知ってた。でもそれを伝えることが出来ない。…………分かるか? この私の苦悩が」


 確かに栗坂さんの立場を考えると、その心中は察するに余りあるものがあった。


 俺たちが今こうして結ばれているのも、実は栗坂さんのお陰かもしれないな。恋のキューピッドというのもあながち冗談ではないのかもしれない。


「…………ずっと、俺たちを見守ってくれてたんですね」


「そうなんだよ。だからラブラブのお二人さんには私の愚痴を聞く義務があるというわけだ」


 …………聞くのは別に構わないけど、とてつもなく恥ずかしい想いをしそうなのは果たして気の所為だろうか。

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