修羅場
元日のあの日から僕は家に帰らず、待雪の家で居候させてもらっていた。
さすがに連絡もなしに外泊を続けるわけにはいかなかったので、簡易連絡はしておいたが、
【しばらく友達の家に泊めてもらいます】【お前にそんな友達がいるわけないだろ】
こんなやりとりで、聞く耳も持ってもらえなかった。
それでも連絡義務は終えたからと、両親や家の電話番号を着信拒否にしておいた。そのお陰か、この一週間は安らかに過ごせたように思う。
「平気、なんですか?」
マンションの一室の玄関口。
高校の始業式に向かおうとする僕を、待雪は憂わしそうな顔付きで引き留めてきた。
「平気では、ないかな……でも、大丈夫だよ。もう腹は括ったから。
いじめのことも、明日葉のことも、椎名さんのことも、両親のことも」
にへら、と僕は頼りなげに笑ってみせる。
「そう、ですか。なら、いいんです……でも、無理はしないでください。いざとなったら、俺が手を貸しますから」
そう言って、握り込まれた手はやっぱりちっちゃくてか細い。
あまり無茶なお願いはしたくないなと思った。
「ありがとう待雪。お願いするよ――」
「はい、分かりました。それならなんとか。でも、本当に無理はしないでください」
「分かってるよ。それじゃあ行くね」
手の中に握らされた何かを受け取り、僕は待雪に背を向けて、ドアノブに手を掛けた。
「朝さん、行ってらっしゃい」
背後からそんな言葉を掛けられ、僕は感極まるあまり、差し含んでいた。
「行ってらっしゃい」なんて、何年振りに聞いただろうか。
「……行ってきます」
ガチャン、と玄関扉が閉じていく中、行ってらっしゃいと言われたということは、また帰ってきてもいいのかな、なんて戯れ言を呟いてしまっていた。
学校へ向かう途中、僕は椎名に連絡を入れた。彼女とはここ一週間の間にも連絡を取り合い、計画を事前に持ちかけていたため、すぐに返事が来る。
「予定通り向かえる、か。それじゃあまぁ、いっちょ宣戦布告でもかましにいってやりますか」
誰に言うでもない独り言ではなかった。これは僕自身とボクに向けた意気込みなのだから。
待雪のマンションから歩くこと十数分。ようやく激戦の舞台こと、僕の通う高校に到着した。
校門前には平生通り、ウィッグを着用し、黒のカラコンを装着し、眼鏡で本来の容姿を隠している明日葉が僕を待ってくれていた。
「お、おはよう! 藤原野くん……」
「おはよう、明日葉。どした? なんかもじもじしてるけど」
「えっと……いつもはこれが当たり前だって思ってたんだけど、しばらくこの格好しなくて良かったからさ、久しぶりに着てみると、なんで隠さなきゃいけないのかなって思っちゃって」
彼は夜子のときの記憶が朧げにあるらしく、数ヶ月振りに着用した男子学生服やウィッグ類に違和を感じているようだった。
「そうだなあ、そうすることで普通に融け込めば、いじめの標的にされなくなるからじゃないかな。でも、それを強いるほど普通じゃないからね、今の僕はさ」
「…………藤原野くん、変わったね」
「そうかな?」
自分自身、著しい変化があったとは感じない。あるとしたら、僕は一人でも独りじゃないという安心感くらいだ。
「そうだよー。藤原野くん、垢抜けた感じするもん」
屈託のない笑みを僕に向けてくれる明日葉。女装こそしていないが、雰囲気は夜子として接していたものとあまり変わりない。変わったと言うなら、明日葉の方こそだ。
「ところでさー、呼び方、なんで苗字呼びなの? この前は『朝くん』って呼んでくれてたじゃん?」
明日葉は露骨な煽りに気付いたのか、みるみるうちに顔を赤らめさせ、もぅーっと怒り出すと僕の肩をポカポカと殴り始めた。
「あ、あれは、夜子としてだったからだよ!! ぼくはいつもこう呼んでたもん! そんな急に名前呼びになんてできないよ!!!」
「そっかそっか。まあ仕方ないかー。でもさ、教室入ったら名前呼びにしてもらってもいいかな。ちょっと野暮用があってさ、そのためには明日葉にも協力してもらいたいんだ」
むすっとした顔付きで無言を決め込む明日葉だったが、沈黙の後じっとりとした上目遣いで彼は僕を見上げ、
「…………あ、朝くんも名前で呼んでくれるなら、いい、よ?」
想定外の返答に思わず、口をぽかんと開けっ放しにしたが、すぐさま、
「分かった。頼むよ、水琴」
応えたのだが、明日葉は気恥ずかしいのかして、一向にこちらを向こうとしない。
そっちがその気なら……と、僕は「水琴」と何度も呼び続けた。明日葉の方が根負けして、「もうやめてよ~……」と泣き言を言ってくる頃には教室前に着いていた。
廊下の時計を見る限りでは、現在八時十五分。通常ならば、一番生徒の出入りが激しい時間帯であるために、開け放しにしていそうなものだが、この染み入るような寒さ故か、戸口は閉められていた。
二人して緊張してしまい、互いの顔を見合わせると、「どうしようか」「いつ開けようか」とアイコンタクトを送り合う始末になり、次第には膠着状態に陥る始末だった。
トントントン、トントントン……。
「ちょっと、あんたたち出入り口に突っ立ってないで。通行の邪魔よ」
僕らの間をすり抜けていくようにやって来たのは今宮だった。しかし、あまりの変わりように僕は目を奪われた。
茶髪は黒髪に、派手なメイクや露出度の高い着崩しもやめて、極めつけはばっさりとショートに切られた髪だった。ギャルが好青年に様変わりしたようである。
そうこうしているうちに、教室の戸は今宮によって勢いよく開け放たれた。
クラスメートたちも今宮の変わりように驚いたのか、誰も声を掛けようとはしない。
「何してんのよ、あんたらもさっさと入れば?」
堂々たる彼女の態度に、誰も何も反論できなかったのか、僕らが入室することを咎める生徒は誰一人として現れなかった。
今宮の介入? で色々と段取りは崩れてしまったが、手筈は整っている。僕は、号砲の代わりにスマホを操作すると、今宮に続いて教室に足を踏み入れ、教壇の前に立った。明日葉は僕の隣にちょこんと立つ。
すると、それまでしんと静まり返っていた教室が騒がしくなり始め、あちらこちらから野次が飛び交いだした。
「おー、犯罪者と死に損ないが来たぞー」
「何しに来た、帰れ帰れ」
「誰もお前らのことなんて待ってねーんだよ」
「とっとと出てってくれる?」
心ない同級生たちの言葉。非難しない者もいるが、しない者は見て見ぬ振り。言葉の暴力というやつを容認してしまっている。
僕のことを侮辱するならまだいい。だけど、明日葉にそんな蓮っ葉な言葉を浴びせるのだけは……僕は鞄に手を伸ばそうとした、
「人殺しのくせに、早く死ねよ」
止めの一言。自分のことなのに、不覚にも苛立ってしまった。
――もし、僕が本当に自殺してしまったら、こいつらはどんな罪に問われるのだろうか。
自殺教唆? 脅迫?
どうせ、責任なんて負えやしない。背負うことになるのは家族の方なのだろう。
と、そんな益体もないことを考えていると、隣からブチィィッという何かを引き千切る音が耳に入ってきた。慌てて隣に目を遣ると、白髪を露わにした明日葉の姿があった。
クラスメートは、女子よりも遥かに愛らしい顔立ちに閉口させられていた。
「――って言うなら、――もだ」
細々としていて、その声は上手く聞き取れない。それをチャンスと取ったのか、調子づいた男子生徒が声を上げる。
「聞こえねーよ。てか、その髪やばくね。じじいみたいだし!!」
「――黙れ。人でなし」
それは甲高くて、すっかり耳に馴染んだ夜子の声音だった。
「なっ……!!!」
「もしかして、誤魔化せたと思ってますか? 朝くんを除く、クラスぐるみでいじめてたくせに、遺書に書き残してなかったと本気で思ってるんですか?」
明日葉に野次を飛ばした男子生徒だけでなく、クラスメートが青ざめていく。
「だっ、べ、別に俺たちが直接何かしたわけじゃねーし……いじめてたって言うなら、今宮たちの方が……!」
言い逃れに責任転嫁を上塗りして、自分だけは悪くないとでも言おうとしたのか、暴力を振るっていなくても、無視や罵倒は立派ないじめだ。
明日葉に加勢したい気持ちではあったが、今の彼に口出しはできなさそうな剣幕だった。
「ふーん、そうですか。でも、その今宮さんはちゃーんと、ぼくに謝りに来てくれましたよ?」
「へ?」
水琴に擁護され、周囲から視線を注がれる羽目になった今宮はバツが悪そうに拗ねたような顔をしていた。
「どこの伝手を頼ったのか、ぼくの住まいを尋ねてくるなり、土下座で詫びて……どうしていじめに至ったかの経緯も話してくれました。情状酌量の余地はあったけど、許されることじゃないから、一生許さないことにしたんですよ。その代わり、罰も与えない。だからねっ、
――君たちに今宮さんを侮辱する権利はない」
女声からの急降下で男声。その差に一同は圧巻されていた。
「それから、話が逸れてしまいましたけど、朝くんに謝ってくださいね? ぼくは死ねって言われたから、追い詰められて死のうとしたんです。これって立派な自殺教唆ですよ」
再度しんと静まり返る教室内。
しかし、徹底的に論破された男子生徒はわなわなと肩を震わせ、逆上してしまい、吠えながら明日葉目がけて突進していった。
僕はすかさず、鞄からそれを取り出した。
「うるっさいっっっ!!!」
キィインと耳障りな音が教室中に木霊する。俺の手元に気付いた明日葉は瞬時に耳を塞いでいたが、至近距離で防御もせず爆音を喰らった男子生徒は蹲った。
僕は拡声器を教卓に置き、大きく息を吸い込む。
「――この教室にいる奴ら、もれなくみんなクズだ」
教室がどよめく中、僕は胸元に挿してあるペンをカチッと鳴らした。
「明日葉を救えなかった僕もクズだし、周囲のことも考えず自殺なんかしようとした明日葉もクズ、明日葉を直接いじめてた今宮も、いじめの首謀者も、それ以外の傍観者もみーんな。
いじめを止めなかっただけで、クズ呼ばわりされる謂われはないって言う奴がいるかもしれない。だけどさ、考えてみろよ。いじめは犯罪だ。けど、傍観者は罪に問われることはない。
あんたらは内心思ってたんじゃないのか?
明日葉という標的がいじめられているのを見るのは、愉しい。もっとやれってさ」
人がいじめられているのを見て楽しいわけないと綺麗事を言う奴には、だったらなぜ同調を止めなかったと問えば、皆黙った。
「……いじめってさ、根源はそういうとこなんだよ。絶対悪から生じるものじゃない。そうした人間の醜さが生む〝人殺しの仕掛け〟なんだ。
だから、いじめの首謀者を捕まえてもなくならない。蜜の味を覚えてしまった、傍観者はいつしか加害者側にすり替わっていくから。
――だから、なけなしの人の心を持った人間のみんな。少しでも良心の呵責というものがあるのなら、こういったいじめを繰り返さないでほしい。
……そうじゃないと僕、みんなのせいで死んじゃうかもしれない」
最後の台詞を言うときは、目一杯笑ってやった。これから死ぬのに相応しいくらいの笑顔で。
そのとき、だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます