待雪草と昔噺(2)
「『――え? 交換こ?』
『そう、交換こ。わたしと深月って、見た目そっくりじゃない? せっかく双子なんだから、入れ替わって、みんなをびっくりさせるの!』
当時の俺は、今ほど口が達者じゃなくて、むしろ内気な方で……姉さんに引っ張られて、その後をついていくような子どもでした。
そんなある日、姉さんが俺にそんな話を持ちかけてきたんです。
『で、でも、俺は姉さんみたいに明るくないから、すぐにバレちゃうよ~……』
『大丈夫、大丈夫。わたしは話し上手でもなんでもないから! ただ単に、喋りまくってるだけよ――だから深月、やってみよう?』
姉さんはそう優しく語り掛けてくれました。
そのとき、姉さんの慈しむような目を見て、思ったんです。姉さんは内気な俺のために、人慣れするための機会を与えてくれたんだって。
だから俺は、交換こすることを聞き入れたんです……。
『じゃあ深月、自分のことを言うときは、〝わたし〟って言うのよ、分かった?』
『う、うん。分かった。じゃあ姉さんは、〝俺〟だね』
『おう! 任せとけ!!』
『……俺、そんなに豪快じゃないよ』
そんなやりとりがあって、不安ではあったんですけど、決行の日がやって来ました。
入れ替わりをするので制服はお互いのものを取り替えて、俺は女子制服を、姉さんは男子制服を着用して、登校したんです。
実際、入れ替わってみれば案外平気なもので、俺は普段の自分を脱ぎ捨てて、快活な〝椎名早月〟になれました。それは俺にとって、人生の転機のようなものでした。
だからこそ、俺は姉さんに相談したんです……。
『えっ、もう少し交換こを続けたい?』
『うん……俺、姉さんみたいにもっと喋れるようになりたいんだ』
『い、いいわよ。何よ、深月。あんたなんだかんだ言って、乗ってきたじゃない。じゃあ……あと一週間だけ、ね』
『うん! 姉さんありがとう!!』
そのときの姉さんはどこか、元気がないようでした。でもそれは単に、慣れないことをしてちょっと疲れているだけだって、勝手にそう思い込んだんです。
交換こが終わって、姉さんは日増しに元気をなくしていきました。
あんなによく笑っていた姉さんが笑う姿を見かけなくなりました。
不自然には思いましたが、その頃姉さんは月経が始まったばかりなので、そのせいで辛いのだろうと、身体を労るようにはしていました。
……だから、気付けなかったんですね。
それから何ヶ月か経過した頃です。姉さんは登校拒否するようになりました。
『姉さんどうしたの、身体辛いの?』
『ううん……違うの』
姉さんがいじめに遭っていることを知りました。俺は学校を休む姉さんに代わって出席するようにして、姉に刷り込みをしたんです。
〝いじめられたのは弟の深月〟って。
……それでも駄目でした。両親は、理由を言わずに学校を休み続ける姉さんに、
『いつになったら学校に行くんだ』
『子どもの頃からサボり癖をつけるとろくな大人にならないわ』
だのと言い聞かせて、嫌がる姉に無理強いしました。その結果、一週間と経たないうちに、
――自殺を図りました。リストカットです。それを初めに見つけたのは俺でした。
応急処置をしてすぐに病院に連れて行ったので、一命は取り留めましたが、姉さんの心は衰弱していました。
『姉さん、姉さんっ…………どうして、言ってくれなかったの? 俺と姉さんは二人で一つでしょ……?』
『……って、――せそうな、深月の邪魔、したくなかった、んだもん……』
俺は自分の愚かさに気付きました。姉さんはあんなに自分のことを大事に思ってくれて、色々してくれたのに、俺は自分のことばっかりだったって。
――だから俺は決めたんです。ぜっったい、許さないって。姉さんをいじめて壊した奴も、気付けなかった家族も自分自身も」
息つく暇もなく長話をした彼はふぅーっと息を吐き、こめかみをそっと押さえる。その顔には、遣り切れない過去を思い出した悔恨が表れて、つーっと一筋の涙が流れた。
「だから、君は待雪になったんだね」
椎名がいじめに遭って不登校になったときの、両親の対応が僕の家と同じだと思った。
「はい。姉さんをいじめの記憶から掬うには、それ以上に大きなショックを与える。それしかなかったので、俺は姉さんを襲う振りをしました」
そのやり方は一見間違っているように見える。けれどその実、椎名はいじめの記憶を忘れずとも、「弟が被害者」という風に書き換えられているのだ。それ故に、彼の行動を全否定することはできなかった。
「……両親には説明したの?」
「いいえ、父には説明しませんでした。その方が父も本気で俺を姉さんから引き離してくれると思いましたから。でも、母が……あまりにも不憫だと言って、父に話してしまいました。両親が離婚してから三年経った頃だと思います」
確かに弓槻さんが言っていた。深月は離婚した三年後に突然行方を暗ましたと。
繋がる欠片。弓槻さんの継ぎ接ぎだらけの言動の理由はここにあったのだ。
初めから訳を知っていたなら、彼に酷い対応もしなかっただろう。今になって、深月を思うようになったのは後になって、事の真相を知らされたから。……そのときには既に、後の祭りになってしまっていたけれど。
なんとも歯痒くて、遣る瀬ない。他に方法はなかったのか、と思わずにはいられないほどに。
「待雪が傍にいて、椎名さんを支えてあげるっていう手段は取れなかったの?」
「無理です」
彼は一言で否定した。その理由を続けて述べる。
「俺が傍にいる限り、姉さんはいじめを忘れられないはずですから。記憶を改竄するには、俺は邪魔な存在なんです」
骨身に堪える思いを隠すように、待雪は顔を逸らしてみせた。その横顔には涙が滲んでいた。
待雪は姉である椎名を救うためにあれこれ策を講じたのだろう。その結果、行き着いたのが「死神」「フード少年」。彼女に恨まれるようにさえなっても、彼は変わらず活動を続けている。
そこで一つ引っかかるものがあった。
「ねえ待雪。確か、僕に救われたことがあるって言ってたよね? それも、〝俺と俺の大事な人の恩人〟だって」
僕の問い掛けに、彼は顔を上げて柔い笑みを浮かべた。
「ええ。朝さんは命の恩人です」
毅然と断言する待雪に僕は疑問を抱いた。
「命の恩人って言ったって……椎名さんは自殺を図ってる時点で何をしたってもう、意味ないんじゃ? そもそも、僕が誰かを救うなんて大層なこと、できるわけもないし……」
他人よりもまず、自分を優先する自己中心的な奴にヒーロー気取りなんてできっこない。
しかし待雪は、何の疑いもなく僕の言葉を否定する。
「いいえ、そんなことはありませんよ朝さん。確かに姉さんは、おにいさんに救われたんです。
――朝さんが俺らの小学校に乗り込んで、いじめの事実を糾弾してくれたお陰で」
「僕が待雪たちの小学校に乗り込んだ!?」
我にもなく大声を上げるが、彼は泰然自若の態度を貫いていた。
「ええ」
「そんな……そんなこと、僕にできるわけ、」
両親という名の毒が脳を侵食し、僕という個を壊している。そんな僕に、目立った行動、それもヒーローのような行いが許されるはずがないと、言おうとするけれど……、
「覚えていないのも当然のことと思います。だって朝さんは、そのときの自分を捨て去ってしまったから。殺めて、要らないとそう言って…………ただ、そのお陰で俺の今があるんですけどね」
脳裏を掠める『人殺し』の声。それは確かに僕自身のものだった。
「前も、そんなこと言ってたね。じゃあ待雪が、僕の捨てた〝ぼく〟を持ち続けてくれてるの?」
そんな、戯言のような愚問に彼は嘲ることもなく、柔和な顔付きでそうですよと肯いてくれた。
「朝さんからもらったこの人格が、俺の今を形作るので、お返しすることはできませんが、記憶だけでもどうか、受け取ってください」
「頼むよ……僕は、これからのためにも自分が何をしでかして、何を放り投げてしまったのかを知るべきだと思うから」
彼は首肯するように首を縦に振るとまた、「長くなりますよ」と言った。
僕はそれでも構わないと告げた。自分のルーツを知ることが何よりも大事だと思うからと。それに、少しでも両親から離れている方が気が楽だと語ると、それならばと彼の自宅に上がらせてもらうことになった。どうやら、相当な長話をするようだ。
気付けば太陽は西に傾き始めていた。
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