待雪草と昔噺(3)



「どうぞ、上がってください」


「う、うん……」



 待雪に導かれるまま彼の家の敷居を跨ぐと、玄関先には写真立てが飾られていた。 そこには泥団子を掲げて無邪気に笑う女の子と、それを見て静かに微笑む男の子が映っている。


 これはもしや、と思い、写真を覗き込もうとしたが、その所作は待雪に阻まれた。



「……ダメですよ、朝さん。人の家のものをじろじろ見ちゃあ」


「ご、ごめん……つい」



 慌てて自分の失意を謝る僕に、彼は仕方ないですねと呟くと、彼は写真立てを伏せるのではなく、胸元に仕舞い込んだ。まるで壊れ物でも扱うかのように。


 しかし彼は気まずい空気を漂わせることはなく、パッと切り替えたらしく、くるりと振り返って僕に笑いかけた。



「それじゃあー、部屋に案内しますね! 何、心配なさらないでください。別に取って食いやしませんから…………未成年ですし」


「未成年じゃなかったら、取って食われてたの僕!? ていうか受け!??」



 サッと自分の肩を抱き寄せて身を案じる僕の姿に、彼はカラカラと笑い声を上げた。



「まぁ、未成年に手を出すと多方面が五月蝿いですから~……それに、受けって言葉を知ってる辺り、おにいさんはBとLもいけそうですねぇ。それなら三年待てばワンチャン…………」



 途端に、待雪の視線の先が僕の下半身に向けられ、彼の家の敷居を跨いだことを後悔しかけた。



「た、たまたま! たまたまだから!! ほら、その……クラスの一部にそういうのが好きな人もいてさ、『君ってそれっぽいよね~』って言われたことあったから! それだけ!! それだけだから……」



 僕の必死の抵抗に彼は驚いたように瞠目し、フッと口元の緩んだ笑みを漏らした。



「冗談で言ってみただけだったんですけどねぇ。まさか、本当にそういったことがあったとは…………朝さんは変化を得ても、色のある人生を送ってこられたんですね」



 待雪はそれぎり黙り込んでしまった。とうに成人しているだろうに、彼の背丈は平均身長ほどの僕より頭一つ分は小さい。その上線が細すぎて、小学生男児のそれとほぼ相違ない。


 彼の言葉の裏には、彼の今まで歩んできた人生の一片が、血のように滲み出している。



 何も、言えなかった。



 待雪が生気のない廊下を伝うので僕もそれに倣うと、左手にある扉の前で彼が立ち止まり、扉を開けられて、手招きされるまま足を踏み入れた。


 そこから鼻に入り込む部屋に満ちた白檀の香り。香などは焚いていないようだから、ルームスプレーか何かでも使っているのだろう。そして部屋の隅には正方形の一人用サイズのこたつ。あとは窓辺にベッドがあって、その隣には本棚があって、タンスやらが置かれているせいで部屋はやや圧迫感があった。



「こたつ、好きなんだね。弓槻さんも置いてたよ」


「そうですか。あの人も物好きですね、もう帰るわけないのに……」



 彼は、悲しいような懐かしいような言い表しがたい表情をしたかと思うと、僕の視線に気付いて、



「あ、どうぞ。お好きなとこにかけてください」



 と促した。



「う、うん。ありがと……」



 とは言うものの、足場がない……。僕は仕方なく、ベッドの縁に腰掛けた。



「こたつもあるのにわざわざそこにかけるなんて、朝さんやっぱり……?」


「四方のうち、一方しか座れないこたつに二人で密着しながら入ろうとは思えないからね」



 待雪の冗談を軽く受け流してしまうと、彼はそれもそうですねと僕の左隣に腰を下ろした。同じ部分に重みが加わったせいで、キィィとベッドが軋んだ。



「朝、さん……」



 名前を呼ばれて待雪のいる方に顔を向けると、慈しんで愛おしむような眼差しで僕を見つめる彼の視線に捕らわれた。身体が見えない縄で縛られたかのように、身動きが取れない。指先の一つさえ、自由に動かせない。   

 そのうち、彼は僕の方に指先を伸ばしてきた。青ざめるほどに色素の薄い彼の繊細そうなそれが近付くほどに、僕の中で緊迫感が増幅していく。


 どこを触られる? 何をされる?

 ――そんな、恐怖ではありながらも恐怖とは言い難い何かに背中を押されて、僕は目蓋を下ろした。



 視覚を閉ざすと他の五感が鋭敏になる。たとえば、迫ってくる手の熱とか、息遣いとか……、そぉっと、僕の頬に触れる手があった。それは一度そこに手を沿わせると、触れられた者の傷を癒やすように滑らせ、僕の恐怖心をさらに煽ってきた。



「っ……」



 はぁぁっと、悩ましげな吐息が耳にかかり、僕は身を震わせる。

 そんなときだった、彼の口からそれが告げられたのは。



「まだ、ちょっと残ってますね。やっぱり」



 額の奥側、生え際に触れた指先は、僅かに隆起して歪んだそれを撫でた。

 彼の抽象的な言葉で、僕はすっかり我に返って、素っ頓狂な声を漏らしてしまう。



「……ほぇえ? やっぱりって、この傷のこと、知ってるの?」 



 僕は生え際にある二センチほどの傷について、覚えがなかった。両親も教えてくれない。だから、大したことではないのだろうと思って、諦めを付けていたのだ。

 そのような考えが態度に表れていたのだろうか、待雪は一瞬目を見開いた後、微苦笑した。



「知ってるも何も、この傷は朝さんが姉さんを救ってくれた証なんですよ」


「それって、僕が小学校に乗り込んだときについた傷ってこと?」



 待雪は少し考えてから、



「間違ってはいませんね。でも、朝さんの過失で負った怪我ではないです……これは、この傷は。いじめっこたちに〝つけられた〟ものです」 



 と言って、もう一度僕の額の傷を優しく撫でた。

 とんだ勘違いをしていたのだと気付くと、自分自身が恥ずかしくなって、両頬をピシャンと叩いた。突然の奇行に彼は目を丸くしていたが、僕は構わず、



「それじゃあ、聞かせてくれるかな?」



 と促した。 



「はい。それでは、そうしましょうか」



 不意に離れる待雪の指先。突然人熱を失ったそこは、温もりを求めるようにじくじくと疼き、僕の身体の深部をも疼かせた。


 この痛みは何を訴えようと……?


 その問い掛けに応じるようにして、雨が降り出した。それはけして、身を灼くほどの痛い雨ではないように見えたけれど、僕が帰られないくらいには十分だった。



「十二年前……」



 ぽつり、待雪が吐き出した。



「十二年前のあの日もこんな天気でした」



 それが待雪の語り出しだった。


 僕は話に水を差さないように、しかし聞いていることが伝わるように、こくんと相槌を打つ。彼は表情を悟られないようにかなんなのか、目を瞑った。



「あれは、姉さんがいじめに遭い始めてから半年ほど経過した頃、だったでしょうか。ともかくも、姉さんが自殺を図ってすぐのことでした。


 俺は姉さんの復讐をしたくて、弱みを握りたくて、いじめっこたちもどうにか懲らしめてやりたくって……代理出席していたんです。

 そんなこととは露も知らないいじめっこたちは、俺を姉さんだと思い込んで、遊びという名の〝いじめ〟を再開しました……罪なき無邪気な心とは恐ろしいものです。目の前にいる相手が昨日と違うとも気付かないんですから。本物は心が壊れてしまった為に、齢十歳という幼さで自殺を選んでしまったというにも関わらず、ですよ。


 此奴らは姉さんがどんな思いで、どんな風にして、命を絶とうとしていたのか知ってるのか、って……知りようもないんですが。



 そういった私情はさておきまして、俺がいじめっこたちへの復讐心や憎悪を必死に堪えて、様子を窺っていたときです。


 休憩時間、だったでしょうかね。

 暴言、殴る蹴るなどの暴力行為、服を脱がせて悪戯しようとする強制わいせつ行為をされ始める……最後の一つに至っては、バレてしまうから抵抗しないとという考えよりも殺意が湧きましたよ。


 あぁ、此奴らは姉さんに〝こんなこと〟をしてくれていたのかって。

 正体がバレては復讐なんてできやしないと、殺意が飛び出さないギリギリまで我慢しつつ、懸命に抵抗する振りをしていました。


 ――そんなときです。不意に、『ガタッ、ガタッ』と教室の戸が小さく揺れ出したんです。それも、規則的にではなく、テンポの読めない不規則なリズムで。



 カタッ……ガタタッ。カタカタタ……ガタッ。



 力は弱々しくて音も大したものではなかったんですけど、あまりに鳴り止まないものですから、みんな不気味がって、俺をいじめるのも止めて、戸口の方に駆け寄りました。


 それで、戸口についてある磨りガラスから外を覗き込んだんです。でも……そこに、それらしい人影は映っていませんでした。


 人影もしないのに音がするなんて不気味だったんでしょうね、怖くなったんでしょう。いじめっこたちは、得体の知れない何かへの恐怖を誤魔化すように、バァンッと戸を勢いよく開け放ちました。するとそこにいたのが……」



 待雪はちらりと僕の方を見遣った。



「僕だった、ってわけだ」


「ご名答。その通りです。

 ――しかしまあ、音の正体が幼児……自分よりも弱い奴だって判った途端、いじめっこたちはまた、邪な笑みを浮かべました。


〝こいつをいじめたら、おもしろそうだ〟


 そんな風な顔付きでした。

 でも、結論から言えば、いじめっこたちの目論見は叶わなかったんです。他でもない朝さんによって、打ち砕かれましたから……」



(??)と顔面にクエスチョンマークを浮かべる僕に気付き、彼は遠回りな話し方を止める。



「朝さんは、いじめっこたちの顔を見るなり……いや、実際には名札だったんですけど、見るなり、こう言い放ったんですよ。


『わるものめ! おねーちゃんをいじめたわるものは、このふじわらのあしたがせいばいしてくれる!!』


 ってね。


 頬は熟れたりんごみたいに真っ赤で、零れ落ちそうに大きく円らな瞳で、伸ばした両腕は俺たちの半分くらいしかなくて、足はガクガク震えているんです。その上、今にも泣き出しそうな面構えで、いじめっこたちを睨み付けているんですよ?

 ――俺はそのときの朝さんを、本気でヒーローだと思いました」



 仮面を剝いだような朴訥な待雪の笑みに、覚えず口元が緩んだが、すぐに我に返って、



「さすがにヒーローは言い過ぎなんじゃないかな。幼児の僕に、大それたことができたなんてとても思えないし」



 と言うと、彼は苦笑交じりに首を左右に振った。



「……ただまあ、十二年前なので朝さんもまだ幼い子どもです。当然、今ほどずる賢さは持ち合わせてなかったと思います」


「さりげなく、僕のこと性格悪いってディスってくれるね」



 僕のツッコミなど構わず、彼は滔々と語りを続けた。 



「それとは言え、当時のいじめっこたちもまた、十歳と幼かったわけです。大した悪知恵なんて持ち合わせていませんでした。

 言わば、ただの糞餓鬼です。

 その糞餓鬼共が考えることと言えば、〝こいつ、どうやっていためつけてやろうかな〟程度のものでしょう。


 それでも、力や人数差が伴えば、糞な作戦も勝ちに繋がります。しかし朝さんが敗北することはありませんでした。


 力も、数も、知恵もない朝さんがどうしていじめっこに勝つことができたのか?

 答えは意外と明白なものだったんです。


 とかくまあ、朝さんが啖呵を切ると、いじめっこたちは臨戦態勢に入り、朝さんは朝さんで彼らの方に飛び込んでいきました。しかし何も、いじめっこたちを倒せたわけではありません。

 当然ながら……力の差は歴然でした。夢中で突進していった朝さんを、いじめっこの親玉生徒はいとも容易く押しのけました。


 朝さんは派手に擦り剝いてしまい、怪我をしてしまいました。しかし、


『おねえちゃんにあやまれっ。おねえちゃんをいじめたわるものは、せいぎによってせいばいされるべきなんだっ!!』


 朝さんの瞳から輝きは消えていなかったんです。

 それからも朝さんは突撃を繰り返し、いじめっこたちは、何度倒しても壊れない玩具に愉悦を感じているようでした。



 その、何度目かです。調子づいたいじめっこの一人が、えいっと朝さんを突き飛ばすと、ふらふらになっていた朝さんは教卓に激突し、頭から血を流したんです。

 傍目にも、子どもの目にも、それはまずいことだと判りました。

 ただ小学生ともなれば、自尊心や羞恥心というものが働いて、なかなかできないことがあります。しかし当時の、朝さんはまだ五歳ほどです。無論、痛ければ痛いと言うし、耐えられないくらい痛ければ――泣き叫びますよね?


 つまりはそういうことです。朝さんはいじめっこたちに怪我をさせられてすぐに、大声で泣き叫びました。五歳児の声は俺らが思っているよりも甲高く、そういった声は比較的耳につきやすいんです。職員室から先生たちが駆けつけてくるのも時間の問題でした。


 その結果、いじめっこたちは幼児に大怪我を負わせたということが学校中や地域に知れ渡り、輝かしい未来を失ったんです。ただ、元を辿れば、突然乗り込んできた朝さんに原因があるので、そのところはお叱りを受けたはずです。

 …………多分きっと、両親からは必要以上に」



 最後の二言を告げた後、待雪は憂愁を顔に表した。



「話してくれて、ありがとう。よっぽど、酷い折檻やお説教でも受けたのかな。やっぱり全然思い出せないや……ただ、物心ついた頃には、僕は僕が嫌いでしょうがなかったってことだけだよ。

 だから、待雪がそんな顔、する必要ないよ」



 彼の話から察するに、その頃の僕は、本気で「正しい」ことが正義だと信じていた純粋無垢な少年だったようだ。今は、欠片も残ってないけれど。



「……分かりました、朝さん。

 でも、これだけは言わせてください。

 ――願えば、過去の朝さんはいつでも現れます。

 だから俺は願っています。おにいさんが周りに囚われず、自分の望む方へ歩めることを」



 そんな大層なことはできないよ、そんなことができるなら僕は――と、さすがにそんなことは言えなくて。


 僕はゆらゆらと滲み出す温い液体で頬や口元を濡らした。

 そのうち、首筋にまで垂れて。それを拭おうと手を伸ばしてきた待雪にしがみついた。僕はもう幼児じゃないから、わぁんわぁんとは泣けない。だけれども、一切拒絶を見せなかった彼の腕の中で忍び泣きをして、泣き疲れた僕は意識ごと彼に身を預けた。


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