「幸せ」
――ピチャン。ピチャン。
あれ、なんだこれ……、
――ポチャン。
うっすらと開いた目蓋の隙間から見える景色は異様なものだった。
見渡す限りの水。
薄闇の中に、ぼんやりと浮かぶ人影が僕以外に一つ。
その人影は僕に気付いたようで、目が合うと片腕を軽く挙げて、
「やァ」
と気さくに声を掛けてきた。
それと共に僕は瞬きをしていた。とは言っても、これは生理現象でわざとそうしたわけではない。すると、次の刹那驚くべきことが起きた。さきほどまで影としか認識できなかったそれが、徐々に輪郭を帯び始め、みるみるうちに全貌を認識できるようになっていった。
息を呑む出来事とはまさにこのことだろうと、僕は思う。
「君…………僕?」
その他に言い表しようがなかった。だって、正面に立っていたのは……、
「アハハ。面白い尋ね方だね。でも、間違ってないよ。〝ボク〟は君だ」
僕と全く同じ容姿をしていたのだから。
それでも目の前にいる相手が自分だとは思えなかった。
喋り方から立ち居振る舞いまで何もかもが異なる。
しかし、僕の姿を借りただけの偽物でもない。それは断言できる。違ってはいても、全くの別物ではない。
それなら彼は……、
「君は、僕が十二年前に捨ててしまった、ボクなの?」
彼は静かに首肯した。
「それにしては随分、口調が子どもっぽくないけど、それはどうしてなの?」
「ボクは君の意識下で話をしてる。だから、知識や語彙力は君と相違ないはずだよ。ただ、それを使うか使わないかの違いさ」
言われてみればそうなのか、とすんなり納得してしまった。
彼の言うことを信用するなら、ここは恐らく夢の中だ。それならば、多少の不可解なことも理解できる。
そう思うと不思議なもので、水面に浮かんでいるこの光景や、十二年前に捨てた自分と対面していることへもすっかり順応できてしまった。
「ところで君は知ってるかな。待雪草、彼の名前の由来をさ」
待雪の名前の由来なんて考えたこともない。強いて言えば、偽名にしてもそれと分かりやすいなと思ったぐらいだ。
「ううん」
「じゃあ教えよう。
〝待雪草〟というのはスノードロップという花の和名だ。で、スノードロップの花言葉は――あなたの死を望みます。彼は元より死神であるということを自称していたのさ」
「それじゃあ待雪は……対象者に会うごとに死の言葉を贈り続けてたんだ。周囲は気付かず、ただ自分一人が背負う形で」
彼はしみじみと頷き、痛ましそうに目を伏せた。きっと待雪を思って、胸を痛めたのだ。
とは言え、それとは別に疑問がある。
「でも、捨ててしまったのに、どうして現れてくれたの?」
「言ったじゃないか」と彼は言うが、分からず、首を傾げた。彼は一笑すると、みるみるうちに変化してみせた。その容姿は、ずっと前に幻覚を見たときに会っていた、幼少期の僕だった。
「え、でもあれは幻覚だったんじゃあ……」
「それを言うなら、これもそうさ。でも強いて言うなら、どちらも君の心から生じたものだ。言っただろ、ボクは君が望まなきゃ、存在すらしていられないって。
……今回君は、待雪草から過去を知り得て、ボクに会いたいと強く願った。だから、ボクは君の元に現れた」
見た目とのギャップが甚だしい。それでもどうしてか、ひどく落ち着くような気がした。
「だったら、前のときは……?」
だからだろう。自分でもびっくりするくらい素直になれる。甘えられてしまう。
「あのときの君は、相当己自身を追い詰めていた。それこそ、無意識にボクを捨てたことを思い出すくらいには。
君はボクに責め立てられることを望んでいたんだ。自分で自分を否定して、それでもまだ足りなくて、ボクに自分を否定させて……君は、死にたがっていたんだ。
明日葉水琴が自殺を図ったのも、自分に責任があるって気付いてた。いじめを止められなかったのも自分のせいだって。両親が自分を監視し続けるのも、自分が原因だって」
僕はぼろぼろと大粒の涙を流して、泣きじゃくっていた。
だって、小さな彼が僕を抱き締めるから。ずっと気付かない振りをしていた心の傷を、彼が見つけてくれたから。
苦しくて、痛くて、疼いて仕方ないのに、それでも温かい。ずっと、欲しかった。
「ボクに謝らなくていいよ。だってそんなことしたら、今の君自身を否定することになるじゃんか。ボクはそんなこと、望んじゃいないさ」
「どう、して? 恨んでないの?」
お前なんか要らないと、捨てたはずなのにどうして。
彼はふるふると首を左右に揺すった。
「恨んでないわけじゃない。でも、君が……僕の本体がちゃあんと生きられるなら、それでもいいやって思えてたのさ。それにボクは、切り離されようと捨てられようと、君であることに変わりない。つまりはね、いくら自分を嫌っていようと、どこかに自分を好いている自分がいて、それがボクなんだ。だから、ボクは君が傷付くことを望まないのさ」
とうとう僕は号哭に至った。
「いいの? いいの? 僕が…………なんにも成し得ない僕なんかが、君の代わりに生きててもいいの……?」
だって僕は、僕は、僕は……、
解決しようと思えば、今すぐにでもできる椎名の悩みも解決しようとすらしなくて。
明日葉をいじめから救えなくて、自殺までさせてしまって。
ほぼ監禁状態に置くことでしか、日常生活を送れないまでに両親を追い詰めて。あまつさえ、それすらも君に押し付けて。
生きている価値などありはしないのだ。
死にたくはないけれど。
価値の前に、感情なんて無意味だろう。
声涙俱に下したみっともない僕は、ただ迷うばかりで嘆くばかりだ。それなのに、
「何言ってるんだ。ボクの〝代わり〟なんかじゃない。君は一人の人間だ。対してボクはただの一個性みたいなものさ。明日葉水琴と夜神夜子の関係とはまた異なる。
あの二人は二人で一つ――本物みたいなものだけど、ボクと君の場合は、君の中にボクが内包されていたのが、偶々外に出掛けただけのことさ。つまり、君が本体だ」
だから、生きて欲しいのだと彼は言った。
「それでも、それでもさ……君が、僕の一部だって言うなら、もう一度僕の中に帰ってきてくれるの?」
彼は眉を顰めて、苦笑いを零した。
「うーん、そうだなぁ……待雪草がボクを掬った以上、今のボクも昔の完全体なボクじゃあない。だから、君が思ってるほどのヒーロー性は持ち合わせていないし、不完全体で、弱っちい腰抜けかもしれない。
……それでもいいって言うなら、悲しみも苦しみも痛みも、罪も罰も、被害も加害も全部、受け容れられるって言うのならさ、ボクは君の中に帰るよ」
「もちろん。僕はもう全部受け容れるよ、そして背負うよ君と共に。だからお願い、
――帰ってきて」
即断だった。もう、ボク(自分)からは逃げたくないよ。
僕が大きく両腕を広げると、彼は顔面をくしゃくしゃに歪めながら涕泣した。
それから瞬く間に元の姿――すなわち僕のドッペルゲンガーみたいな姿に戻って、こちらに跳び込んでくると、彼は僕の両頬に手を添えていた。目蓋を閉ざす間もなく唇を重ねられた。
それからほどなくして、すぅーっと水に溶けていくように彼の身体はなくなっていった。
しかしながら、僕は孤独ではなくなった。
痛みと温もりが僕を包んでいる。
きっとこれは、彼が僕の中にいる証なのだと思った。
彼の涙は感泣だったらしくて、虹みたいなレインボーパレットさながらの鮮やかな笑みを浮かべた彼は、最後にこんな言葉を贈ってくれたのだ。
「君に生まれて幸せだ」
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