触れたいなんて願わない。



 僕は、棗さんと椎名に明日葉を見つけたことを連絡し、彼を家まで送り届けると、直ちに椎名の経営する店へと向かった。椎名にも出先から向かうように伝えてある。



 時間は午前二時前。ちょうど丑三つ時だ。椎名も、僕の家庭事情を知っているからこそ、こんな深夜に落ち合うことを了承してくれたのだろう。それとまあ、他でもない明日葉のことだからと言うのもあるか。


 今頃両親は、僕が部屋にいないのを知って、騒ぎ立てているだろうが知ったことじゃない。もう、唯々諾々と鳥籠の中で大人しくしているのは終わりだ。


 両親にバレて、引き留められないよう自転車は家に置いてきたため、移動手段は徒歩のみ。長い間、屋外を歩き回っていたせいか、身体は底冷えし始めている。早く屋内に入らなければ。


 

 そう思い、歩を進めること約三十分。ようやく椎名の店に到着した。しかし、彼女の方はまだ戻っていないようで、店の中の灯りは灯っていない。


 先に店に着いたことだけでも連絡しておくか、と扉にもたれ掛かって、連絡しようとしたときだった。



 ちょうど、背中がドアノブを押し下げてしまったらしく、キィィと軋むような音を

させて扉が開く。



「え……なんで?」



 恐る恐る店内に足を踏み入れるが、やはり照明はついておらず、人気は感じられない。薄暗い店内からは、言いしれぬ不安が漂っている。以前、入ったときは感じもしなかったのに。


 照明のスイッチを捜し求めて、歩き回っていると、ソファの角にぶつかり、僕はつんのめりになった。その拍子にどこかへ手を着くと、生温く柔らかい、人の手のようなものに触れた。



「ひぃぃやっ!!」



 反射的に手を引っ込めようとするも、それは僕の腕を掴むと深淵に引きずり込むように僕を引き寄せるのだ。



「い、いや、や、やめっ――」



 抵抗し、悲鳴を上げようとしたら、後頭部に手を回されて、固い何かに押し付けられる。



「しっ。静かに……俺ですよ、朝さん」



 まさか。聞き覚えのある声に耳を澄まし、目を凝らしてみると、見覚えのあるフードが目についた。



「君、待雪なの、か……?」


「ピン、ポーン。正解です、朝さん。さすがですね」



 正体が分かって、一安心した僕は彼から離れようとするが……、



「おっとぉー。どこへ行くんですか」



 彼は、起き上がろうとした僕の腕を強引に引き込み、立たせないようにする。



「どこって、電気を……」


「それはまだ付けないでくださいよ。この薄闇の中に二人きりで、お話ししたいことがあるんですから」



 正直なところ、待雪の言動を信じるのは危うい。何せ彼は、自殺教唆の実行犯。その口で、何人もの自殺者を生み出してきたことを自供しているのだ。それに、何度も僕のことも騙して、陥れて。

 ――だけど、僕にはどうも、彼が根っからの悪人だとは思えない。それはきっと、以前に聞いた彼が「自殺を教唆する理由」を知ってしまったからなのかもしれない。ただ、それだけでは説明しきれない何かがあるように思うのだ。



「……いいよ、分かった。分かったから、この体勢やめさせてくれない? 色々しんどいよ、これ」


「はい、そりゃあもちろん。これは朝さんを説得させるための材料でしたから」 



 彼は事も無げに頷き、すぐさま背中に回していた手も解いてくれた。



「それは説得じゃなくて、脅迫だから! 待雪はホント、そういうの好きだよね!!」



 むさ苦しい拘束から放たれ、僕と待雪はソファに横並びに腰掛ける。暗闇の中、わざわざ別の場所に移動するのが面倒だったのだ。



「話の前に聞いておきたいんだけど」


「なんでしょう?」



 僕は唇を噛み締め、爪が食い込むくらい固い握り拳を作りながら、彼に問うた。



「どうして二度も、明日葉も自殺させようとしたの」


「生きていたところで、彼が幸せになれるとは思えなかったからです」



 彼の言葉には、経験したことのあるような重みが伴っていて、傾聴せざるを得なかった。



「たとえいじめが立証されても、未成年の犯した犯罪未満のいじめではいじめ加害者を法的に罰することは、ほぼ不可能でしょう。裁判に持ち込んだところで、大した罰も与えられず、それどころか被害者側は実名も自宅も何もかもを暴かれて、加害者は未成年だからと守られる。 


 今回の性犯罪じみた脅迫にしてもそうです。好奇の目に晒されて、第三者から理不尽に傷付けられて、どうせ心か身体のどちらかがくたばってしまう。それならばいっそ、もう……」


「殺してしまえって?」


「はい……」



 僕の胸にはもう怒りは存在していなかった。無責任な慰めや励ましよりも、彼の方がよっぽど、いじめの本質を見抜いて、ちゃんと明日葉のことを見ていると感じられたから。


 ちゃんと、見ている……でも、そうだとしても。



「多分、待雪の言うことはほとんど正しいよ。でもさ、明日葉は死を求めていたわけじゃない。誰かに必要とされて生きたいって思ってたんだ。だからもう、明日葉に自殺は必要ないよ」


「そう、でしょうね」



 待雪は力なく頷いた。正面切って、頭ごなしに感情をまき散らすわけでもなく、冷静に行動を批判されるのは堪えたのかもしれない。



「でも、明日葉を救ってくれてありがとう」


「へっ?」



 暗闇の中でも表情が察せるほど、彼は素っ頓狂な声を上げた。



「だって、待雪が手を差し伸べてくれてなかったら明日葉は独りで死んでたと思うんだ。躯も心も全部。待雪がいたからこそ、どっちも寸前のところで救えたんじゃないかって思うよ」



 ところで、そっちの話っていうのは?と 僕が問うと、待雪は真面目そうな面差しで口を開いた。



「いえね、朝さんは覚えているのかなぁーっていう、ただの昔話なんですけどね……」



 そんな語り出しだった。


 僕が覚えているかとは一体どういうことだ? 



「もう十年以上も前のことです。朝さんは、人を――殺したことがおありですよね?」


「なん……っ」



 僕は彼の発言に凍てついた。そんなはずがないのに、身体に覚えがあるというような既視感。

 ……僕は彼の言うように、人を殺したことがあるのか? 忘れているだけで。



「何言ってるんだよ、待雪。僕がそんな大層なこと、できるわけがないだろ」



 危ない、危ない。待雪に乗せられるところだった。ありもしない罪を認めさせて、彼は一体何がしたいのだ。キッと睨み付けるが、彼は少しも動じない。それどころか、彼の目には確信が宿っているようでさえある。



「本当に、消してしまったんですね……記憶から」


「は? 何それ、どういうことだよ」



 哀愁漂う表情を僕に向けたかと思うと、「だから、俺がいただいたんですけどね」と彼はそう呟いた。 



「朝さん。ねえ、おにいさん? ……を、殺されましたよね?」



 疼く心臓。脳裏に浮かぶ、屋上から誰かを突き落としたような光景。その後、僕の中から何か、大切なものが抜け落ちたような、そんな感覚を。



「っぁ………あ…!!!!」



 僕は、知っている。



「ねぇーえ、朝さん? 思い出せましたか、あの日のこと。あの日、おにいさんが殺めて、そして俺が拾った〝それ〟を、なかったことにはしないでくださいね?」



 待雪は妖艶に微笑むと、僕の唇を指先でなぞった。その不可解な行動にも、言動と不釣り合いな表情にも僕は恐怖心を駆り立てられ、悪寒が止まらない。



「ぼ、僕は、誰を……傷付けたの? どう償えば許してくれる?」



 彼は何を馬鹿なことを、と僕にではなく、僕の発言に対して嘲りを見せた。



「朝さんは傷付けてなんていませんよ。だ~れにも、謝る必要なんてありません。むしろおにいさんは、俺と俺の大事な人の命の恩人なんですから」


「なぁ、それってどういう……」



 そのときだ。コツコツコツコツ、と一定のリズムで刻まれる足音が耳についた。それは明らかに、こちらへと向かってくるもので、おそらくは椎名だろうと推測できた。



「ありゃりゃ~、もうタイムアップですか。仕方ありませんねぇ~」



 やれやれと肩を上下させると、彼は何事もなかったかのように僕から離れ、裏口の方へと足を向ける。



「ちょ、ちょっと待ってよ!」


「朝さん……残念ですが、もう時間切れなんですよ。なので、お話しはまたいずれに……」



 僕は、僕に背を向けようとする彼の腕を強引に掴んだ。


 いつもなら引き下がるところだが、ずっと行方知れずだった心の欠片を見つけたのだ。今を逃せばいつになるや知れない。 



「……はぁ、分かりましたよ。本当に急いでいるんで、少しだけですからね?」と、待雪は子どもをあやす大人のような顔をした。



「なぁ待雪。俺が捨てて、君が拾ったものって何なんだ?」


「朝さんの大事なものです。いえ、正確には、大事だったものでしょうね。おにいさんは、それをいらないと思ったから、捨てたんでしょうし。

 ――何にせよ、朝さんのお陰で俺らが救われたことに変わりはないんですけどね」



 まただ。待雪の言葉の中に散りばめられた言葉のピースに、心が、海馬が反応する。

 早く思い出せと、僕の背中を押すように。



「それだよ、それ。待雪それってさ……」



 足音が扉の前で止まる。



「あれ? 灯りが漏れてる……鍵、開けてただろうか?」



 扉の外から漏れ込む椎名の声。彼は逃げるように、裏口の扉に手を掛けた。 



「それじゃあおにいさん、さよなら。十二年前のこと、忘れないでくださいね」



 ひらひらと手を振り、待雪は店を後にした。



「十二年前の事って……僕が保育園児だった頃のこと?」



 去り際に告げられた言葉の意味が引っかかって、僕は彼の後を追う。

 幸いにも彼はまだ店のすぐ近くにいたようで引き留めることができた。



「なんだ、朝さんですか。まだ何か用ですか?」



 心なしか、苛立った様子の待雪に疑問を抱くが、それどころではない僕は質問を投げかける。



「十二年前に僕がしたことって何? 僕は何を捨ててしまったの?」


「――おーい、朝少年。いないのかー?」



 不意に聞こえてくる椎名の呼ぶ声に怯えるように、彼は肩を震え上がらせ、再び僕に背を向けようとした。



「待てって、待雪。まだ話が――」



 彼を引き留めようと強引に肩を掴んだ。



「話はまた今度ちゃんとしますから! …………だからどうか、早月にだけは会わせないでくださいっ!!」


「え」



 待雪のある言動で、僕の手から力が抜け落ちると、待雪はこれ幸いと脱兎してしまう。


 裏口から店に戻ると、椎名に事情を問われ、待雪を取り逃がしてしまったとだけ告げた。

 何をやっているんだ全く、と椎名に小言を連ねられたが、それらは全て雑音のように宙に融けていった。 



 だって、待雪は言ったのだ。今にも泣き出しそうな声で、

『俺の命よりも大事な人』と。



 そして僕が強引に彼の肩を引っ掴んだとき、偶然にも彼のフードが脱げてしまい、彼の素顔が露わになった。

 非情にも、彼は椎名と瓜二つの耽美な顔立ちをしていた。

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