壊さないでよ
星一つない凍てつく夜空の下、屋根という保護からも外れた雑居ビルの屋上、僕は叫喚した。
「明日葉っ! なんで、そんなところで立ってるんだよ……?」
明日葉が立っていたのは屋上の柵の縁。一足分も満たない幅にだ。
僕の叫びに気付いた彼は、月も星も見えない夜空でもキラリと輝く白髪を揺らして、首だけをこちらに向けた。
「ぁぁ……〝朝くん〟。来て、くれたんだね」
彼は僕の問いに答えようとせず、ただ漫然とそう答えた。
月明かりもないせいで、数メートル先の目立つ白髪以外は闇に紛れて見えない。つまり、彼の表情は読み取れないのだ。
「なぁ、あした、ば――」
あれ? もしかして……、
「やだなぁ、朝くん。〝わたし〟は夜子だよ? ほら、ちゃんとスカートも穿いてるじゃない」
明日葉もとい、夜子の言う通り、暗がりの中うすらぼんやりと視界に映るシルエットはふわりと広がっていた。
「あ、そうだね。ご、ごめん……」
「いいんです、分かってもらえれば」
声音は柔和で、いつもの夜子だったが、彼女は一向にその場を動こうとしなかった。
「……ねぇ夜子、君はどうしてここに来たの?」
「死ぬ以外に、屋上の柵を越える理由ってあるでしょうか?」
首だけでなく身体ごとを僕に向けて、そうして、宙に背を向ける。
これは、本気だ。
「っ……! それは、そうだけど、でもどうして? 夜子が死ぬ必要なんて一つもないよ。いじめだって……もうないよ。ちゃんと、黙らせたから…………あ、そうか。君にはまだ伝えてなかったんだった。ごめん、夜子。でも、もう大丈夫だから! 自分から死のうなんて悲しいこと、しないでよ……」
それは切なる祈りだった。好きだと思って、恋したら実は男で、しかもクラスメートの明日葉で。いじめの事実とか、家庭の事情とか、色々ショックは受けたけれど、どちらのことも嫌いになんてなれない。むしろ、好きだ。大好きだよ。
――でも、それ以上に僕は感じ取っていた。僕の願意が、明日葉には届かないこと。
耳にも触れるほどの音で、クスリと彼女は微笑を浮かべた。
「やだなぁ朝くん。今さらそのことで、死にたくなるはずないじゃない。そもそも、死にたがっているのはわたしなんだよ。〝明日葉水琴〟じゃなくて、〝夜神夜子〟の思いなの」
夜子は髪を掻き上げて、さらに続ける。
「朝くんが不思議に思うのも仕方がないかなぁ。だって朝くんは、〝彼〟が自殺未遂して、〝わたし〟が、明日葉水琴だって知ってから、駆けずり回ってくれたもんね。すご~く優しくて、思わず好きになっちゃうかもしれないくらい」
不意打ちの「好き」という単語にドキリとさせられたが、その口調はどこか他人事で上っ面を語っているようにさえ聞こえる。
ひどく、心が凍えるような気がした。
このままじゃ埒が明かない。もっと表情が分かる距離感で、目を見て話さなければ。
「夜子、とりあえずそこから移動しよ――」
と、彼女に近付こうと一歩踏み込んだ瞬間だった。
「っ来ないで!!」
「っ……!! 夜子……」
あまりの剣幕に、僕は足を止めざるを得なかった。踏み込んだら死ぬよと続けんばかりの危うさを、彼女から感じ取ってしまったから。
「明日葉水琴が死のうとした直前、電話であなたに救いを求めたのを覚えていますか?」
夜子の言葉で思い出した。何ヶ月か前の日曜日、深夜二時頃に明日葉から電話がかかってきたことを。
「思い、出したよ。僕が……突き放したんだ」
そのとき僕は連日勉強漬けだったせいで、疲労が蓄積していて、切実な雰囲気で「話を聞いてほしい」と頼んでくる明日葉に、「今は寝不足で疲れてるからまた今度聞くよ」と返したのだ。
そうか。僕が、殺したのか。
「そうです。あなたは彼のSOSに気付かなかった。それなのに今さらなんて、もう要らないんです。そんな優しさは。
お願いだから死なせて……わたしはもう、誰にも必要とされてないの。このまま生きていたって、いつかは捨てられるだけ」
「そんなことない、僕や僕以外の色んな人が君を必要としてる。死ぬ必要なんてないよ!」
きっと彼女には届かないのだろうと思っても、無駄吠えを続けずにはいられなかった。
「違うっっ!!! みんなが見てるのはわたしじゃなくて、〝明日葉水琴〟の方っ! 誰も厄介者の、夜神夜子なんて、必要としてはくれない!!」
一瞬、そうだと思う僕がいた。実際、僕や椎名さんが駆けずり回っているのは、明日葉を目覚めさせるため。すなわちそれは、明日葉のもう一人の人格である夜子を眠りに就かせることを意味する。彼女が、自分は必要とされていないと思っても仕方がなかった。
でも、そうじゃないものもある。
ただ、その一瞬が命取りだった。
「……ほら、ね? やっぱり、そうなんだよ。誰もわたしのことなんか見てくれてない。必要としてくれない。愛してくれないの……」
「夜子、ち――」
慰めの言葉をかけようとするも、それを夜子が許さない。
「きっと、これで終われるから。だからせめて、悲しんでもらえるうちに死なせて」
ちゃんと肉体が壊れないように、その後の処置は待雪に頼んであるからと、彼女は笑顔を見せた。それはいたく、小鳥のさえずるようないじらしい声だった。
どうして、これほどの絶望的状況下で笑えるのだ。
一体どれほどの否定をその身に受ければ、そこまで自棄的になれるのだ。
――どうしたら救える? どうしたら引き留められる?
僅かに脳裏を掠めるものがあった。それは荒唐無稽で、一か八かの方法。だけど、もうそれしか方法がないというのなら。
僕は歯を食いしばり、顔を地面に向けた。
それを受容と受け取った夜子は、屋上の柵から手を放し、
「じゃあ、バイバイ朝く――え、ちょ……朝くん!?」
僕も屋上の柵を乗り越えて、彼女の隣を陣取った。
不意打ちの行動に、彼女は理解できないと言わんばかりの表情を浮かべた。
当然だ、ここからは感情だけで行動するつもりなのだから。
そして僕は――彼女の手を取り、その唇に口付けた。
「!!?」
夜子は気持ち悪がるでもなく、恥ずかしがるでもなく、戸惑っていた。
「僕は夜神夜子が好きだ、好きだった」
夜子は呆気に取られていたため、さらに続ける。
「さすがに男で、しかも明日葉だって気付いてからは、簡単に好きだなんて言えないし、自分の気持ちも分からなくなった」
「朝くん、わたしは……」
ここで夜子が反応を見せたが、構うものか。ここで引き下がったら確実に彼女は死ぬ。
僕は夜子の手を引いて、身体ごとグッと抱き寄せた。
「でもっ! 告白の返事だけは答えてほしい。男だって分かったからって、嫌いになるわけじゃない。夜子は変わらず、僕の大切な人だよ」
言い放った後、僕の鼓動は通常の1.5倍程の速度で高鳴り始めた。多種の緊張が絡み合って、口から心臓を吐き出しそうに苦しい。
「あのね、わたしは男だ――」
「ちなみに、男だからとかって理由で振ったり、飛び降りる素振りを少しでも見せたら、振られたってことで僕が先に死ぬから。そのつもりでね」
誰よりも他人を思いやる彼女に、自分のせいで死ぬなんていうのは脅迫そのものだ。それ故に効果は覿面だった。
「うっ……」
項垂れた彼女は緩慢な動作で柵を乗り越えて、地に足を付けた。
その姿を見た途端、僕の足は地面に崩れ落ち、それでもなお彼女の手は離さなかった。
「よか、よかったぁぁ……」
安堵のあまり胸を撫で下ろす僕に反して、彼女は泣きじゃくっていた。
「うぁぁ……うぁああああああああっ!!! ど、どうして、わたしなんかを助けちゃうんですか。わたしが生きていたって、仕方ないのに、彼が傷付くだけなのに……」
そんな〝彼〟に僕は言った、
「ねえ明日葉、もういいよ。夜子の振りなんて、しなくてもさ」
「……、……何、言ってるの、朝くん。わたしは夜子だって、言ったじゃない」
作り笑いもその口調もやや歪みが生じている。
「僕が、明日葉だけじゃなく、夜子のことも肯定してくれるか試したんだろう? 夜子の人格そのものが明日葉の演技だなんて、思っちゃいないけど、今日だけは演技だ。夜子はもっと、謙虚で丁寧な敬語を話すんだよ」
そこまで言うと、観念したように〝明日葉〟は溜息を吐き、バレちゃったかとぼやいた。
「――そう。〝ぼく〟は、夜子じゃなくて水琴だよ。騙しててごめんね、藤原野くん」
その応答事態にはさほど驚かなかったが、次の彼の発言には耳を疑った。
「それにしても、ぼくだって気付きながらキスするなんてすごいね。これならぼくが、女装を強要されたのが嫌で自殺したんじゃないって、理解してくれそうだ」
そう言うと、彼は白桃のコンポートのようにとろりと甘い笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます