「裏切り」と「後悔」


 二限目の残りを保健室で過ごし、三限目の授業が始まる数分前に教室へと戻った。


 事情聴取のまま、逃げるようにして保健室で休んでしまったから、変な噂を立てられてはいないだろうか。



 そんな不安は的中することなく、僕が戸を開けたところで誰も気にも留められなかった。その様は、あってもなくても感じられない二酸化炭素のようだ。


 僕は何カ所かにできた群れの合間を縫うようにして、自分の席に腰掛けた。



「でさー」


「それだよねー」



 教室中で飛び交う笑い声。


 ――あんなことがあって、教師や刑事たちは戦々恐々としているにも関わらず、クラスメートたちは平生と変わらない。グループごとに群れを成して、数カ所に集って、騒いで。何も。


 いや、正確に言えば、普段よりもいやに熱気を感じられる。熱狂的というか、背信的な、そんな禍々しい空気がクラス全体を包んでいた。



 知り合いが死にかけたことを面白がっているのだろうか? だとしたら、とんだ悪趣味だなんてと勝手に決め付けていると、答えはすぐに降ってきた。



「あー、マジで消えて欲しいんだけど」



 あまりに過激な発言に、注意を引かれて声のした方に振り返ると、クラスで最上位のグループに位置する今宮がいた。


 チョコレートブラウンの巻き髪に、男子には毒のむちむちした肉付きのよい体型。

 発言力も影響力も抜群の彼女が在するグループはクラスの中枢となっている。


 もし、このグループが特定の生徒をいじめるように指示すれば、クラスメートたちは従わざるを得ないだろう。



「――だったらさー、死神に頼めばいいんじゃん?」



 そう発言したのは今宮と同じグループの赤﨑だ。赤色のちりめん素地でできたリボンを一つ結びにした古風な髪型が特徴的である。



「何それ」



 僕が心の中で聞き返したように、今宮もその劇薬に食いついていた。そのせいで僕の視線など気にもしていないようだ。暫く、観察させてもらうとしよう。



「え、えっとね! 友達から聞いた話なんやけど……新月の夜、死神に憎んでる相手の名前を教えると、その相手は次の新月までに魂を奪われるって……」



 俄には信じがたい話だが、今宮は興味津々らしい。



「その噂、マジなの?」 


「マジだって~。二組の篠原がそれで、七組の木ノ塚をヤっちゃったらしいよ?」



 赤崎は大和撫子のような顔立ちには似つかず、制服をはだけさせ、口調もくだけた調子で残念美人の見本だ。



「えっ! 木ノ塚ってあれでしょ、一組の川上の彼氏寝取ったっていう――」


「そう、それ。そんで、川上だけじゃなく、篠原の彼氏も強引に誘惑して、文字通り寝取ったらしいん」


「篠原はガチだったらしいし、すっごい仲のいいカップルだったのに……」



 赤﨑の口から伝えられる事実に、思うところがあるのか、今宮は悩ましげな表情を浮かべる。



「それに、一応浮気した言うても、彼氏の方も誠実なもんやで? 

〝誘惑されたとは言え、別の女性と一度でも関係を持ってしまった以上、君と付き合い続けることはできない〟ってさ。

 ……まあ、そんな振られ方したからこそ篠原もさぞ、はらわた煮えくり返したんやろうね」



 赤﨑は「お気の毒に」とでも言わんばかりに他人事だった。



「なるほどねー、やっば……それで死神、か。分からないでもないわ」


「まあ、そんでもすごいのはその噂が本物やったってとこやろ? 効果なかったら、噂にはならんかったやろうし」



 フランクに、あくまで話題の一つとして考える赤﨑と、他人の恋愛事情にまで深く感情移入してしまう今宮。

 どちらが正しいかなんて言えない。

 そんなのはどうだっていい。


 僕の胸に刻まれたのは、クラスメートが自殺未遂したと知らされた直後なのに、そのことも忘れて、人殺しの「死神」の噂に興じているその神経の図太さだった。



「……アイロニー、か」



 もし、彼女たちが自覚的にやっていることだとしたら、僕は二人を殴れたかな。

 ……いや、きっと、無理だ。それでも変わらず傍観しては、勝手に胸を痛ませて、傷付いた気になっていたのだろう。

 無力で卑怯者の僕は、きっと何も行動できない。

 ただ、「死神」の一言だけが胸に靄を残した。



「まあでも、会ってみたい気はするかなー」



 今宮がそう発したとき、教室の隅で読書する黒川と目が合ったような気がしたが、現代国語の先生が来たので確認することはできなかった。


 あんな事情聴取を受けた後の現代国語は、堪えてしまう。文章表現なんかであれば良かったのだが、よりにもよって夏目漱石の「こころ」だった。



 主人公が慕っている先生からの手紙の中で、先生の過去が語られる。

先生は若い頃にKという親友がいて、同じ女性を好きになってしまう。どうしても女性を手に入れたかった先生は親友に嘘を吐いて、抜け駆けすることで女性と両思いになる。しかし、その事実を知ってもKは彼を詰ることはなかった。安堵した先生だったが、朝になると自殺したKを見つけてしまう。


 ……というシーンまでが今日の内容だった。

 僕はこの小説を読んだことがないし、教科書で続きを読んだりはしていない。だから、この話の結末を僕は知らない。

 だが、これらのシーンだけでも僕の心を抉るには十二分すぎた。


 この章のテーマは「裏切り」と「後悔」だろうか……?


 そんなことを考えながら、静かに板書を取っていると、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る