――になるはずだったひと
「――この前訪ねた椎名早月だ。明日葉水琴に話がある。彼に会わせてもらいたい」
アポイントも事前連絡もなしに、椎名は八手家のインターホン越しにそう陳じた。
こんな無礼な人を通してくれるわけがないだろうと思った直後、玄関扉が開かれ、棗さんが姿を現す。
「どうぞ、上がってください。あの子はまだ寝ていますが、もうじき起きてくるはずなので」
困惑を隠しきれない僕だったが、椎名と共に上がらせてもらう他ない。
お茶でも飲みながらお話ししましょうと誘われ、リビングに案内され、ダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
飲み物を用意してもらうのを待っていると、ついに彼女は口火を切った。
「……ところで、この間は夜子の知り合いとしていらっしゃいましたわよね? それが、昨日の今日で、水琴に会いたいとおっしゃられたのは、どういったご用かしら」
棗さんは頬に笑みをたたえつつも、その目は鋭く光るナイフのようだ。
彼女は、明日葉のことを夜子として話していても、不思議がる仕草は見せなかった。すなわち、彼女は知っているのだ。明日葉と夜子という人格がいることを。その上で、椎名が何のために訪ねてきたのかを質問しているのだろう。彼を守るために。
「今日は完全な私用だよ。案ずるな、彼を傷付けたりはしない。ただ、俺は会って伝えたいだけなんだ」
「伝えたい。何をかしら?」
「それは――」
椎名が言いかけたとき、階段を下ってくる足音が聞こえてきた。おそらく、夜子だろう。
彼女はその音を聞くなり、待ち構えるように扉の前に立ちはだかった。そして、リビングの戸が開けられると……、
「おはよー、棗さ――」
「会いたかった!!!」
寝ぼけ眼を擦る明日葉を抱擁した。
「ぇ、え! ちょ、早月さん!?」
突然明日葉に抱き着いた椎名を引き剥がそうとする棗さんだったが、それを止めさせたのも椎名の言動だった。
「ずっと会いたかったんだ……水琴、俺はお前の姉になるはずだった者なんだ」
「え……早月さんが、〝わたし〟のお姉さんになるはずだった人……?」
明日葉水琴と夜神夜子を同一視されても、一人称はぼくではなく、わたしだった。
やはり夜子は明日葉のもう一人の人格で、明日葉本人はまだ眠っているのだろう。あの問題が解決されない限りは、彼はこの世界に戻ってきてはくれない。
椎名はそれが少し寂しかったのか、肩を落としたが、夜子をもう一度抱き寄せた。
しかし、感動の対面に納得しない人もいる。
「……姉になるはずだった、ってどういうことかしら? 説明していただける?」
棗さんの質問は何も間違っちゃいない。実は姉だったというならともかく、姉になるはずだった者とは、どういうことなのだろうか。
しかしその辺りは心得ていたらしく、椎名は身じろぐことなく、夜子から手を放し、頷いた。
「もちろんそのつもりでいた。少し長話にはなるが、どうか最後まで聴いてやってほしい」
それを皮切りに、椎名の一人語りが始まった。
「――俺が高校生だった頃、父に〝明日葉花〟という恋人ができた。両親が小学生のときに離婚してしまってな、それからは男で一つで俺を育ててくれたんだ……まあ、そのせいもあってこんな男らしい奴に育ってしまったのかもしれないがね。
ともかく、俺は父の恋を応援した。今さらになって再婚? とも思ったが、子どもに手がかからなくなったからこその決断だったんだろう。
何ヶ月か交際し続けて、再婚という話が持ち上がった。まあ、順当に行けばそうなることは分かっていたから、素直におめでとうと言ったよ。
そこでようやく話題に上がってくるのが、お互いの子どもについてだ。
あるとき、父が明日葉家にお邪魔することになった。花さんが、子どもに会って欲しいと言ってきたそうでな。
俺は用事があったので行けなかったんだが、顔合わせも済めば、再婚の話は進展するだろうと期待していたんだ。
ところが……予期せぬ事態が起こった。
用事が済んで家に帰ると、父が玄関でぐったりしていた。何があったのかと問い詰めたら、『再婚はなくなった』と一言告げられたよ。それだけでは納得できなかった俺は事のあらましを聞き出し、そして愕然とした。
父は女装している水琴を見て、初めは娘なんだと思ったらしい。が、食事が済んでから、花さんが紹介したそうだ。『これは私の息子だ』とね。それを聞いた父はこう吐き捨てたそうだ。
『きっ、気持ち悪い!!!』
受け容れられないのはまだ仕方ないさ。でも父はその場でこう続けたんだよ、
『こんな子がいるなら、再婚はできない。なかったことにしてくれ』
とな。確かに、男の姿で会わせなかった花さんにも非はあるかもしれない。だが、それだけのことで再婚を取りやめにするのは異常ではないかと思って、父に抗議した。しかし、聞き入れてもらえなかった。
それから俺は、血の繋がりもなければ、会ったこともない水琴へ思いを馳せるようになったわけだ。父の言葉によって、深く傷付けられたのではないか、会うことはできないか、とね」
壮絶な過去に、僕らは閉口した。言われてみれば、父親の行動は少し過激すぎるようにも思える。彼女の知らない何かがあったのかもしれない。
この話から鑑みるに、椎名が以前、言っていた弟とは明日葉のことだったのだろうか。だが、それにしてはいくらかちぐはぐなようにも思える。
「そう、だったんですね……ごめんなさい。わたし、その頃のことをよく覚えていなくて……でも、早月さんがお姉さんになるはずだった人だと知れて、嬉しいです! 会いに来てくれてありがとうございます!!」
にぱっと笑って、椎名の手を握る夜子。彼女はその手を握り返し、悩ましげに微笑んだ。
明日葉と夜子にとっては忘れるべき不幸だったのかもしれない。だけど、ささやかな期待を抱き、待っていた椎名には手痛い仕打ちだっただろう。いつだって、神様は僕らに優しくない。
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