二章【夜行少女】
自殺のススメとは
「あれ、ここは……?」
ズドン、ズドン、ズドンっと鈍器が机を叩き付けるような音で、僕は目を覚ました。
息を吸い込んだ途端に充満するココアのような優しい香りに、腹の虫が鳴いてしまう。
「やっと目を覚ましたか。さっきまでなかなか目を覚まさなかったってのに……やはり、人は食というものに貪欲な生き物らしいな」
寝起きの僕の顔を覗き込んで、クスリと一笑する彼女。この間、僕に対して「死の臭い」がするなどと不吉な発言をした人だ。
「べ、別にがっついてるわけじゃあ……」
否定しようとするも、腹は絶えず、空腹を訴え続けている。説得力の欠片もなかった。
「身体が生きようとしている証拠だ。恥ずかしがることはない。少し待ってろ、すぐ用意する」
そう言い置くと、彼女はまたカウンターの奥へと下がってしまった。
待ってろと言われても、名前も知らない女性のテリトリーでくつろげるほど、僕は図太い神経はしていない。今時、男子であっても不審者には気を付けなくてはならないというし……。
時間を潰すため、気を落ち着かせるため、僕は室内を軽く散策することにした。
薄暗い調光に、黒を基調としたモノクロな室内。出入り口付近にはバーカウンターのような設備があり、バックボードにはいくつも酒瓶が並んでいる。
「バー……みたいなものかな?」
「当たり。不定休でバーをやってるんだ。身体にはくるが、ある程度の稼ぎは得られるからね」
コトッ。
目の前のカウンターにマグカップが置かれた。
「ホットチョコレートだ。飲むと身体が温まるぞ」
見ると、彼女の手にも同じようにマグカップが握られている。どうやら、彼女も飲むらしい。毒物の混入を疑うわけではないが、安心した。
「……いただきます」
啜ってみたホットチョコレートは思っていたよりもほろ苦く、ココアよりもどろりととろけて、濃厚な味わいだった。
やや温度は熱いながらも、美味なホットチョコレートで身も心も融かされていると、そのタイミングを見計らっていたかのように彼女が口火を切る。
「……なあそろそろ、落ち着いてきたことだろう。何があったか聞かせてくれ」
やっぱりそうか。道路に落ちかけた僕を引き上げてくれたのは他でもない彼女だ。そして、おそらくでもなんでもないが、意識を失った僕をここまで運んで、介抱してくれたのもそうだろう。意識が戻るまで面倒を見て、ホットチョコレートまで……。これほどの至れり尽くせりぶりを鑑みれば、何かあると考えるのが当然だ。
むしろ、これぐらいで済むならば安い方だろう。だが……、
「その前にまず、あなたのお名前をお伺いしても?」
名前を尋ねたのは、単に呼びにくかったからというだけだ。これで気を害さなければいいけれど。しかし、そんな不安は一瞬で吹き飛ばされてしまう。
「そういえば名乗るのを忘れていたな、失敬失敬。椎名早月だ。それで、お前は?」
「藤原野、朝です」
予測を裏切らない男口調だった。いや、さすがに失敬はおっさんか?
「へぇ、変わった苗字をしてる。それに、なかなかいい名前だ、朝。さて、話に戻ろうか。朝少年、何があった?」
彼女は真横から僕を覗き込むように肘をつき、真剣な表情をした。別段、僕を心配するような気配は感じられない。真実だけを追い求めたい、そんな空気だ。だけど、それで良かった。今同情なんかされたら、自分が壊れてしまいそうだったから。
「実は――」
僕は事のあらましを話した。話を聞き終えた彼女は渋面を浮かべて、黙り込んだままだ。
「僕、死のうだなんて、少しも思っていなかった……いや、ある友人のために生きなきゃって決意したばかりだったんです。あのとき、後ろから誰かに押されたみたいに身体が前のめりになったし……」
そこまで言いかけたところで彼女は眉を顰めた。
「誰かに押されたんじゃないのか? どうなんだ?」
やけにしつこく繰り返される質問と顔面の迫力に気圧され、だんだんと「押された」という確信が持てなくなってきた。
「い、いえ、その……そんな感覚があっただけで、実際に犯人を見たわけではないです」
まどろっこしいことを言うなと罵倒が飛んでくるのかと思いきや、彼女は深く息を吐いて、僕の肩に手を載せたのだった。
「朝少年、よく聞け――お前が今日、死にかけたのは誰かに押されたせいなんかじゃ
ない」
「なっ……どうしてそんなことが言えるんですか? あなたは僕が道路へ飛び出る瞬間を見たわけではないんでしょう?」
無駄な反抗を見せる僕に、薄笑いを見せた。
「確かに、見てはいないさ。だがな、お前の話から一つの推測を立てることはできるのさ。
……なあ朝少年。本当はお前だって薄々気付いているんじゃないか? 誰のせいで死に引き込まれ、今回のような事件が起きかけたのかをさ」
含みのある表現を残して、彼女は飲みかけのホットチョコレートを干す。口周りに付いた汚れを指で拭う仕草は、女性らしかった。
「そんなことありません。知ってたら、未然に防ごうとしたはずです!」
「いいや、それはない。なぜならそれは、今のお前の心を支える存在でもあるからな」
僕は、諦めとも取れる沈黙を選んだ。否定したいのに、否定しきれない気持ちがある。
「つまりだ、朝少年。君が死にかけた元凶は夜神夜子。お前が守りたがってた女の子なんだよ」
死神のことを聞いてきたときは無駄に威圧感を放っていたくせに、こんなときだけ優しく説明しないでほしい。余計に惨めな気持ちになってしまうから。
「嘘だ、うそだ……」
「嘘じゃない。そうとしか考えられないんだ。お前はその子と出逢ってから一日も欠かさず逢瀬を重ねたと言っていた。学校を休んだのはたった数日らしいし、それ以外は学校に通っていたことになるだろう。となれば、お前はほぼ毎日、睡眠負債を溜め込んできたことになる。一週間以上、四時間を越える睡眠を取れていないなら、身体はSOSを訴え始めるはずさ。それが、今日の昏倒だ」
理路整然と並べなられる、真相。それはあまりにも学問的で、非情すぎて、壊れかけの僕には耐えられなかった。
「や、夜子はそんなことしない、夜子のせいなはずがないよ!!」
「朝少年。命が惜しいなら、彼女にはもう会うな……彼女が悪いかどうかは、正直測りかねる。ただそれでも、夜にしか生きられない彼女と昼を生きるお前が、同じ時間を生きることは毒であることに変わりないんだ」
「でも……っ!! だとしてもどうして、出逢ってばかりの僕なんかにそこまでしてくれるんですか? 赤の他人じゃないですか」
すると彼女は眉をピクリとひくつかせ、「自殺のススメ」を信条に掲げているからだと言った。
「自殺のススメ……? それは一体なんですか? 字面からは自死を推奨してるような感じですけど……」
僕に死ぬなと、生に引き留めようとする彼女がまさかそんなものを掲げているはずがない。警察が言っていた犯人なわけがない……。
祈るように彼女を見遣ると、
「そうだな。俺は自殺のススメをモットーにこそしているが、それは誰かの命を絶とうとするものじゃない。むしろ逆なんだ」
逆、とは? どう考えてもフレーズと噛み合っていないように思う。僕がそうやって首を傾げる様を見て、彼女はクスリと嘲笑した。
「自身を死に追いやろうとする〝自分〟を殺して、今を生きろ……そういう意味なんだよ」
「自分を殺して、ですか……随分物騒な物言いですね。それに、なんだか生々しい。すみませんが、椎名さんがどうして自殺のススメを掲げるようになったのか教えてもらえませんか?」
そうじゃないと、僕はあなたの言葉を信じられそうにありません。
その一文を付け足すと、彼女は参ったように頭を掻き撫でて、盛大に息を吐き出した。
「…………分かった。話そう。その代わり、気分が悪くなっても自己責任だからな」
そんな語りだしで、彼女の過去語りは始まった。
「――昔のことだ、俺には弟がいた。弟は学校でいじめられていたんだ。それも、精神が崩壊してしまうほどの凄惨なものだった。たとえばそう、お前が経験ししたそれが子どものままごとに思えてしまえるくらいのね。
本来なら、担任や友人、家族に相談するべきだっただろう。しかし心優しい弟は、家族にも心配をかけまいとして、誰にも打ち明けず、ずっと独りで戦っていた。だがそれにも、限界が生じる。
誰にも頼らず、守られず、救われず。行き着くところまで行き着いてしまった弟は、自殺未遂をしたんだ。身体は平気だったが、心がガラクタになってしまった。壊れ物と同じだよ、ガラスやせとものが割れたら、使い物にならなくなるだろう? あれと同じだ。戻らなかった。手遅れになって、ようやくその事実を知った俺たち家族は弟を精神病院に通わせた。しかし、手遅れというようにどうにもならなくてな。その結果、弟は行方を暗ました。今もずっと行方不明なままだよ」
古傷にでも触れたのだろう、彼女は愁いを隠すように目元を覆った。
ただでさえ、薄暗がりな店内が一層陰鬱としてしまい、僕は罪悪感で胃が潰れそうだった。
「す、すみません……そうとは知らず、安易に深入りしてしまって……」
「いや、構わないさ。俺が話すと決めたんだ、お前が気にすることじゃない。話ついでにもう一つ聞いてくれるかな、俺は弟の復讐をするためにこういうことをやっている。
――今を生きられない奴が明日を憂いて、自ら命を絶とうとすることがなくなればいいと、そう祈ってな。自分自身が納得する選択をしろ」
「はい」
その後僕は、歩道側へ引き上げてくれたことや介抱してくれたこと、それからホットチョコレートへのお礼を述べて、店を出た。
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