06

 診療がお休みだとはいえ、先生も暇な人ではない。意外な話を聞けたお礼だけを言って、そこで別れを告げた。


 今日はなにか得られるとは思っていなかったのに、開始一時間もかからず収穫があった。仁美の謎に繋がるものではないが、自分たちにとって、心を揺さぶるのに十分な情報だ。


 収穫もあったし、引き換えして解散。というわけでもない。そのまま道なりに国道沿いを走らせていた。


 車内での会話はない。お互い、先生からもたらされた話を胸の内で反芻し、やはりそういう意味だよなとやっていたのだ。


 次に車のエンジンが鳴り止んだのは、二十分後。


 有名な温泉街であった。


 仁美の謎を求めてきたのではない。単に遊びに来ただけである。お互い温泉好きだということが、最近明らかになったからだ。


 交友を深めるのに、男二女二だったり、野郎複数人だけで来るのなら、交友を深める場所として適切かもしれない。ただし、大学生の男二人だけで交友を深めるのは、取り扱い方を間違えれば大変なことになる。


 もしちとせにこの場を見られようものであれば、本当に深めているのは交友なのか。もっと違うものを深めているのではと、疑いの目を持たれてしまうだろう。秀一の尊厳はともかくとして、自分のだけは守り通さなければならない。


 一緒に風呂を入って五分もすれば、互いのマイペースに沿って別行動。広間の休憩スペースで合流しようと約束した。


「ぱぁあ!」


 かくして、日曜日の真っ昼間からビールに喉を震わせる、良いご身分の大学生が完成した。


 缶でも瓶でもなく、グラスで飲めるというのがポイント高い。一杯目を一息で飲み干し、火照った五臓六腑にキンキンとした冷気が染み渡る。


 さあ、続けて二杯目だというところで、秀一はその惨状を目の当たりにした。


「ビールをさ、それはもう美味しそうに飲んでいる人を見たんだ。運転手が飲めないのを知りながら、一人楽しそうに喉を鳴らしている。君はそれをどう思う?」


「そんな偉そうな奴もいるんだな」


「その通りだ。まったくもって、偉そうなんだ」


 コーラで喉を慰める秀一は、その偉そうな奴を呆れているのではなく、諦めた眼差しを送っていた。


「……それで、どう思う?」


 いつもの軽口より、ワントーン落とした秀一の声色。


「どう思うもなにも、ないだろ」


 偉そうにビールを飲んでいる奴への憤りでもなければ、失笑でもない。


「母さんはさ、取り違えに気づいていたんだよ」


 先生からもたらされた話について、辿り着いた結論を求めたのだ。


 親というものは、赤子の中に自分たちを見出そうとする生き物だ。目、鼻、口などのパーツだけではなく、笑い方や行動一つの中に、日々類似を探し続ける。


 五年も経てば、散々それもやり尽くされた後だ。行動、言動、生き方などを見て、ちとせは間違いなく母さんの子供だと誰もが言う。だが顔つきからは、両親の面影はまるで見いだせない。


 当たり前だ。血が繋がっていないのだから。似ている方がおかしいのだ。


 別室でこそあったが、もしかしたら母さんは、朝倉家の両親の顔を知っていたのかもしれない。その母親に、ちとせの面影を見出したのだ。


「ずっと愛情を注いできた子供だ。たかだか血が繋がっていなかったことを知ったくらいで、態度を改める人じゃないさ。可能性に思い至ってなお、変わらず自分の娘として育てたんだ」


「僕らは男だ。お腹を痛め母になるということは、一生わかる日が来ない。わかった気でいちゃいけないことだと思う」


 秀一はコーラを一口含み、喉を濡らした。


「でも、たかだか血が繋がってない、か。親子として築いてきた時間こそが、家族としてなにより大切なことだと思える人なんだろうね。強い人だ」


「それでも、意識はしていたようだがな」


「意識?」


「先生は、五年後に訪ねてきたって言っていたな。だったら丁度、あれが起きた時期と重なる」




     ◆




 ちとせが生まれて五年。


 早産で未熟児であった赤子も、それだけの時が経てば立派に成長を果たしていた。二足歩行で駆け回り、正しい言葉も沢山話せるようになり、まさに社会性を学び始める時期だ。


 一度のイヤイヤ気もなかったちとせは、育てやすい赤子であったと母さんは語っていた。生まれて五年も経てば、積極的に自らの意思を発信する時期でもある。親へ反抗的な態度を取り、困らせる年齢だ。


 母さんが亡くなるまでベッタリなちとせに、そんな心配はなかった。口答えや言い訳などもしない、誰からも可愛がられる子供であった。むしろ自分こそが、日々可愛げのない子供へと躍進を遂げていたくらいだ。


 両親への愛情を素直に示す可愛い娘。


 その日も少し遅くなった父さんを待っていたのは、小走りで出迎えるちとせであった。


 どれだけ疲れ、事件により暗い影を落とそうとも、それだけで父さんの顔からは全てが消え去る。喜色を満面に浮かべ、幸せそうにするのだ。


 可愛い、可愛いと、父さんはちとせを言葉に出し可愛がる。


 母さんもそれを見て、幸せな家庭がここにあると微笑み見守る。


「こんな可愛い娘が、俺の子だなんて信じられないな。ここまで可愛んだ。もしかして俺の娘じゃないかもしれん」


 これは父さんにとっての、軽口のようなものだ。


 母さんの不貞を疑ったわけでもない。自分の遺伝子からこんな娘が生まれてくるのが、信じられない幸福だと漏れ出てしまったのだ。


 幼いながらも、ちとせもそれはわかっていた。娘じゃないかもしれないと言われたそれを、自分への褒め言葉だと受け取っていたのだ。


 自分もまた、それはわかっていた。


 だから次の瞬間、父さんの頬で大きな音が鳴らされたことに、誰もが仰天したのだ。


 宮野家の時が止まった。


 ゴリラの前に、小柄な鬼神が佇んでいる。後ろ姿しか自分は見えなかったが、憤っているのはよくわかった。後にも先にも、あれほどの怒りをあらわにしている母さんは見たことがない。


「れ、玲子……俺はおまえを疑ってるわけじゃ」


 軽い気持ちで出てしまった言葉が、母さんを傷つけたと父さんは思ったのだ。体格差が逆転している錯覚を得るほどに、その身を縮こませていた。


「知ってるわよ。貴方が私を信じているのは、世界で一番私が信じているわ」


「え……?」


 まさかの母さんからの返答に、父さんは間抜けな声を漏らした。


 だったら一体、母さんがなにに憤っているのか。それ以外のどこに、母さんが怒りだしたのか。まるでわからないでいる。


「私が怒っているのはね、冗談でも、ちとせが自分の娘じゃないって言ったことよ」


 母さんは両手で父さんの胸ぐらを掴むと、


「貴方はちとせの父親でしょ! 例え信じられないことがあったとしても、ちとせは私達の家族なのよ! 例え冗談でも、そんなくだらないことは言わないで!」


 今まで上げたことのないような声を上げた。こんな鬼気迫った母さんを、自分たちは見たことがない。


「それでもまだ言うようなら、わかるまで何度でも引っ叩いてやるわ! いいわね!」


「……すまん。俺が悪かった」


 ゴリラに似つかわしくない情けない声に、母さんは満足したのだろう。


 足元にいるキョトンとしたちとせを抱きしめ、父さんから引き離した。くだらないことを言った父親には、もう娘を可愛がらせてやらない。そう言わんばかりに。


 今にも顔を俯かせんとした父さんの顔は、俺を捉えた。


「今のは父さんが悪い」


 状況はよくわからなかった自分は、そんな追い打ちをかけていた。




     ◆




 母さんが亡くなってから、一度だけ、この話を父さんとしたことがある。


 父さんはそのことについて、


「玲子は子供の頃から、家族とはうまくいってなかった。だからこそ、人一倍家族を大事にしてきたんだ。家族を蔑ろにする言葉は、玲子にとっては許しがたかったんだろうな」


 自分もそんな風に受け取っていたが、血の繋がりがないのを母さんが知ったのなら、また受け取りかたが変わる。


 血の繋がりがないからこそ、父さんの言葉は、母さんの胸に響いたのだ。


 母さんは父さんを信じている。もしちとせと血の繋がりがないのを知っても、変わらない家族でいられると。それでも可愛さ余っての軽口であろうと、ちとせは自分の子供ではない、と言ってほしくなかったのだ。


「血の繋がりがないのを知っているからこそ、過剰に反応してしまったのか」


「ネジが飛んでいるのが味である母さんにしては、人間らしい反応だ」


 酷い息子だと、秀一の口はへの字をしている。


「その証拠に、血の繋がった娘のその先を気にしている」


「気になるのは普通の反応だ。……でも、そうだね。君のお母さんは、仁美を取り戻したかったと思うかい?」


「場合によっては、取り戻そうとしただろうな」


 意外な解答だと、秀一は目を見開いた。


「生まれたときは幸せでも、世の親が皆、一生子を大事にするわけじゃないだろ。もし朝倉家が子に酷い仕打ちをするような家だったら、仁美を取り戻すためになんでもしただろうさ。そしてもちろん、ちとせは返さない」


「ははっ。まさに一石二鳥というわけか」


「一粒で二度美味しいとも言うな。でもそうなることはなかった。血の繋がった子が、幸せな家庭で育っていると知ったんだ」


 母さんが満足して笑って帰っていったと、先生は言ったのだ。ならそれが真実であろう。


「君のお母さんは、血の繋がりの未練をそこで断ち切ったんだろうね」


「こればっかりは当人の心の内だ。決めつけはできないさ。死者の声さえ聞ければ、もうちょっとスッキリするんだろうがな」


 冷たいシュワシュワによって、喉に刺激を与える。五臓六腑が冷えた身体は、今度はアルコールによって頬などが火照ってきた。


「ヒロさんがさ、よく言うんだ。残された者に一番必要なものは死者の声だって。世の中は、明日もまたあるつもりで死んでいく人間がほとんどだ。死んだほうも残されたほうも、準備なんてできちゃいない。死への準備不足こそが、現実を受け入れられない最大の要因だ」


「じゃあ君は、その準備として遺書でも残しているのかい?」


「遺書に残るのはただの言葉だ。大事なのは、その言葉がどんな音で伝えられるか。喜怒哀楽の声色があって、初めて伝わる想いがある」


「今、君からとてもにつかわしくない言葉が出てきた」


 鼻で笑うような軽口に、「うるせー」と返す。


「ようはあれだ。同じ告白でも、電話でするのとメールでするの。どっちが気持ちが伝わりやすいかだよ」


 それで得心がいったのか、秀一は納得げに頷いた。


「仁美がどんな思いを残して逝ってしまったのか。その声さえあれば、母さんも気持ちの整理がつけられただろうね。どれだけ悲しくても、それを背負って前に進まなきゃいけないってさ」


「もしそんな仁美の声があるなら、真理にも聞かせてやりたいもんだ」


「真理?」


 物思いにふけるように宙を見つめていた秀一は、現実に引き戻されたかのように首を捻った。


「ああ、仁美の友達だよ。この前の月命日の帰りに、たまたま会ったんだ」


 どこで、とは言わない。それは秀一も承知しているからだ。


「もしかして内田真理さんかい?」


「知ってるのか?」


 知っていることに驚きはなかった。真理は強烈さを持って、仁美にアプローチし続けていた女の子だ。こんな娘がいると、秀一に話していてもおかしくはない。


「『仁美ちゃんの、お兄さんですか?』じゃなくて、『仁美ちゃんの、お兄さんですよね?』と断言されたんだ。首を縦にも横にも振れんから参ったよ」


「君が、僕と勘違いされた?」


「そう、俺は凄いお兄さんと勘違いされたんだ」


 今になって思う。秀一と勘違いされたのは気分がいい。真理も仁美の口から、秀一の美男子ぶりは伝わっていただろう。つまり自分は、そうであってもおかしくないと思われたわけだ。


「いや……それはありえないよ」


 秀一は動揺するように言った。


「まあまあ。俺も仁美と似てるとは思わないけどさ。得てしてこういうのは女の方が鋭く、男は鈍感なんだ。仁美と血の繋がりがある俺が、あのカッコイイお兄さんだと思ってもおかしくはない」


 勝利の美酒のようにビールを呷る。次の秀一の言葉で、その味わいは消えることとなる。


「だって彼女は、僕のことを仁美の兄と知ってるんだ」


「は……?」


「線香をあげに来てくれた彼女を、家に通したのが僕だ。間違いない」


 秀一の深刻な表情が、真っ直ぐと自分を捉える。


 これが深刻と感じるほどの重々しさを感じるのは、なぜ自分を仁美の兄だと断言したのか、その意味を既にわかっているからだ。自分もまた、その意味を既に受け取っていた。


「真理は最初から、俺のことを知っていたのか」


「朝倉家とは関係ない、血の繋がりのある兄だってことをね」


 への字とは言わずとも、互いの唇は固く引しまっていた。


 なんの収穫もないと思っていた、今日のクリニック見学。そこで母さんが取り違えに気づいていたのは、意外な真実であった。けれど、その先はない。仁美の謎に繋がるものではないのだ。


 ただ、今得た真実は先に繋がるものだ。


 真理は自分と仁美の関係を知っている。おそらくそれは、仁美からもたらされたものだ。そこに今更驚きはない。驚くべきなのは、真理が自分の顔を知っていたことだ。


 さっきの発言を翻そう。自分が仁美の兄かもしれないと、尋ねてくるのはおかしくない。でも、顔を見ただけで断言したことは驚くべきことなのだ。前から自分の顔を知っていたからこそ、真理は自分が仁美の兄だと言い切れたのだ。


 つまり、仁美もまた、自分の顔を知っていたことに繋がる。


 仁美はちとせをたまたま見つけて、真実に辿り着いたわけではない。もっと深く、宮野家の事情に通じていた。


 探偵、という言葉が脳裏を過る。


 裕福の家の子供とはいえ、未成年がそれを雇う可能性。目の前に、それをやってのけた人物がいる。その妹も、同じことをやっていてもおかしくはない。DNA鑑定に手を貸した謎の大人か、もしくはそれ以外の大人の手を借りて。


 どちらにせよ、そこにまた大金が投じられている。その意味を、今更繰り返す必要はないだろう。


「あれ……トシ」


 互いに深い思考に沈んでいたら、ふいに秀一は口を開いた。


「もしかしてあれって、刑事じゃないか?」


 今までの流れを断ち切るような、秀一のそんな言葉。


 秀一の目の先は、斜め後ろ。玄関の先にある受付に向けられていた。興味深げに、珍しいものを見たと言わんばかりだ。


「そんな珍しいもんでもないだろう。俺なんてそれこそ毎日のように見るぞ」


「いや、君はそうだろうけどさ」


 自分はそんなものに目もくれず、そんなことかと息をついた。お巡りさんはよく見ても、秀一にとって刑事は珍しいものらしい。


「その刑事の一人がさ、こっちを見てるんだ」


 違ったようだ。どうやら刑事に見られていることに、緊張しているようだ。


「気のせいだろ。刑事だって暇じゃないんだ。俺たちじゃなく、もっと周囲を見渡してるんだよ」


 一方、見に覚えがない自分にとっては、他人事だ。……いや、未成年の身で飲酒に勤しんでいるから、バレるのはとてもよろしくない。


 これでも刑事の息子である。堂々とすることこそが正しい選択だ。。挙動不審であったり、物珍しげにジロジロ見ると、それこそ刑事の気を引いてしまう。


「二日前に殺人事件があっただろ? そういやその現場って、こっち方面だったはずだ。なら、ここまで捜査の手が伸びてもおかしくない」


「手が伸びるって、まるで追われる側の言い方だ」


 これまた酷い方言をする秀一だったが、納得はできたようだ。


 一度は得心し視線をこちらに移したが、なにかを気にするように、目の先を元の場所へと戻した。


「……やっぱり、こっちを見てるような気がするんだけど」


「気のせい、気のせい」


「いや、気のせいじゃない。こっちに向かってきた」


「は?」


 深くソファーにかけているので、顔の向きを揃えるのが億劫だ。億劫だが、そこまで言うのだ。見るだけ見るかと思い直したところで、足音はこちらに迫ってきており、そして後ろで止まった。


「おい」


 威圧感のある、重低音が頭にかけられた。


「こんなところでなにをしてるんだ?」


 一般市民様を掴まえて、なんだこの偉そうな刑事は、と憤りを感じた。ことはなかった。あまりにも耳馴染みがありすぎる声に、察しのいい自分は全てを悟った。


 振り返ると、家で見慣れたゴリラの姿があった。

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