07
月はあっという間に下り、その下旬。
休みの日だと言うのに珍しく、朝からちとせに勉強の教えを請われた。
「音楽はいいのか?」
「ちょっとスランプ中」
とのこと。
いつものようにリビングで勉強を教える傍ら、自分は書を嗜んでいた。娯楽作品でこそあるが、頭を扱う必要性がある。
最近ミステリーというジャンルに手を出し始めたのだ。
鉄の男にはまって以来、主人公を演じる俳優を追った先で、世界で一番有名な探偵を題材とした映画に辿り着いた。ミステリーって面白いなと友人たちに語ると、自分でもとっつきやすい作品を紹介された。
初出は二十年以上前の作品であるが、そこは温故知新。なんでも新しければいいというものではなく、むしろ語りづかれる名作にこそ価値がある。二十六巻分まとめて借りたゆえ、崩していくのは容易ではないが、読み応えがばっちりだ。
そうやって『こいつ、いっつもじっちゃんの名にかけてんな』と思ったところで、ちとせは大きな背伸びをした。一区切りの休憩につくことにしたのだ。
真理からもたらされた、ひととせの作詞作曲担当の真実。
仁美との関係が表になった後も、なぜ教えてくれなかったのか。隠していたのかと問うと、
「あれ、言ってなかったっけ?」
案の定低レベルな答えが返ってきた。
言ってなかったぞと責め立てると、
「だっておにい、ひととせに興味ないじゃん。だから忘れてたの」
正論が投げられてきた。日頃の行いがまさに牙を剥いた瞬間である。
父さんやヒロさんだけではなく、最近は秀一にすら『おまえはもっと妹のやることに興味を持て』という非難をされるようになっていた。
「スランプって、曲作りで問題でもあったのか?」
またそうやって非難されないために、情報収集に励むことにしたのである。
差し出したコーヒーを受け取ったちとせは、
「問題しかないよ」
間抜けにも大口を開いてため息を漏らしたのであった。ギターを弾いているときの、キリっとしたカッコよさは見る影もない。
コーヒーに一口つけたちとせは、続きを述べるための口を開いた。
「おにいも知っての通り、今まで作詞作曲は全部仁美がやってきたの。でも……仁美はもういない。本当だったら、そこでひととせはたたむつもりだったんだ」
「は、そうだったのか?」
意外な事実に、妹の間抜けっぷりに倣うよう大口を開いた。
「でも、まだ全部終わってないの。仁美は沢山のメロディを残してきた。形になっていないそれを、できるだけ形にしていくのがわたしのやることだと思ってるの。最近、それに目処がついてきたなと思ったんだけど……おにいがまた、追加で持ってくるんだもん。やることが増えたよ」
嬉しいやら悲しいやら、どっちつかずの面容だ。
どうやら仁美は、メインの作業はスタジオで行っていたらしい。豊富な機材に囲まれて、土日はそこで入り浸る。あのパソコンはメインマシンではなく、あくまで家での作業用。仕事を家に持ち帰ってもできる感覚で、あんな高級品を与えていたのだ。
ヒロさんがいかにひととせに夢を見ていたか、よくわかる一幕である。
「仁美はね、まずは頭の中に思い浮かんだものを、片っ端から吐き出すんだよ。メインに作っている曲とは並行して、思いついたら出して置こうって。そうやっておけば、余計な記憶力を使わなくて済むから、また新しい発想が生まれるってさ」
いわゆる創作メモみたいな感覚なのだろう。
人間は簡単なことでも、記憶に留めておくのには容量を扱うものだ。新たな発想が浮かんで、あれもこれもと記憶に留めておくのは難しい。後から振り返ったとき、あれ、なにを思い浮かんだんだっけ、となる。
思い浮かんだ先から書き出しておけば、そんな事態は避けられるし、一度忘れてしまったっていい。そうすることで新たな発想を得るのに専念できる。むしろそれを視覚化して見比べていくと、次の発想の飛躍に繋がるのだ。
作家志望の万年一次選考落ちの友人に、そんな創作理論を説かれたことを思い出した。
あのパソコンの中には、スタジオには残されていなかった、創作メモのようなメロディが沢山眠っていたようだ。
「残された曲にどんな先を作るか。そしてどんな詩をつけていくか、それがとにかく難題なの」
どうやらちとせは、そんな苦悩を背負っていたようだ。
仁美が残した物、それを一つでも多く形にしていきたい。世に送り出したいと。仁美はこんなにも素晴らしい物を生み出していったと。
そこで一つ、この後に及んで新たな真実に辿り着いた。
「じゃあ、もしかして批評家たちが厳しいのって」
「そ、わたしが中途半端に仁美の跡を継いでるからだよ」
あっさりとちとせはそれを認めた。
一部のファンが新曲に対して、曲の作り込み不足を指摘した。秀一もそれを肯定しながら、五月以前と以降では質が違うと言い切った。
どうやらその原因は跡継ぎにあったようだ。
「仁美は天才だった。わたしが求めていた全てを生み出せた。ほんとすごいよ、仁美は」
「嫉妬とかはしなかったのか」
ちとせは母さんの影を求めて、ロックの中にその魂を見出した。ちとせがプロを目指す決意の始まりは、母さんならどんな曲を作っていっただろう、だ。
仁美はそれを、あっさりと成し遂げた。魂を継いだはずのちとせではできないことを、さも当然のように道を切り開いてしまった。
これが血に宿った力の違いか、と妬んでしまってもおかしくはない。
「ないよ」
だがちとせはそう言い切った。声音はいつもの調子と変わらないのに、そこに力強さすら宿っているように感じた。
「仁美はね、わたしにないものを持っていた。そしてわたしは仁美がないものを持ってるの。そんな二人が揃って初めてひととせ。嫉妬なんてしてる場合じゃなかったんだから」
軽快に、かつ嬉しそうに、
「もっともっと仁美が作る曲を聞きたかった。仁美が綴る歌詞をもっともっと歌いたかった。わたしはね、世界で一番の仁美のファンなんだよ」
噛み合った二人の世界こそが素晴らしいんだと笑っていた。
どうやら二人は本当に、全ての折り合いを付けていたようだ。家族関係だけではなく、自らに宿った血。その才能の分配にすら。
血の繋がらない双子の姉妹として手を取り合いながら、最大限にその力を発揮してきたのだ。
それこそがひととせというロックバンドなのだ。おまえたちは裏ではこう思っていたんじゃないか、なんて口を挟む隙間もない。
「せめて歌詞さえ残ってればな……」
三度目となるみっともないちとせのため息。
「パソコンには残ってなかったのか?」
「仁美が歌詞をパソコンに起こす時は、英語に落とし込むときだけ。歌詞はいつも、手帳に綴っていたの。あーあ、あれさえあればなー……」
手に入らぬ物を惜しむように、ちとせはうなりをあげる。
ないものねだりはしないその主義は、今日はどうやら返上しているようだ。
「ん……?」
と、そこで思い至った。
夏頃に手に入れた、仁美の痛々しい恥部の剣。
「まさか、あれって……」
「ん、どうしたの?」
急に独り言を始めた自分に、ちとせは不審げに首を傾げた。
そんなちとせを放って慌てて階段を駆け上がる。
それが収められているのは机の引き出し、鍵がかかる最上段。五月以来ずっと封印されてきたそれは、今ここに開放された。
階段を転げ落ちそうになりながらも下りきり、訝しげにしているちとせにこれを差し出した。
黒い一冊の手帳。
なんなのこれ、という顔をするちとせだが、大人しく受け取った。促さずともパラパラとめくるがすぐにその手は止まり、大きく顔を強張らせた。
「仁美の歌詞帳だー!」
次の瞬間、宮野家のリビングには絶叫が響き渡った。
「なんでおにいが持ってるのさ!?」
ちとせの反応は、驚きというよりは罪を糾弾するそれに近い。手帳を押し付けるように迫ってくる様は、まさに闘牛である。
そこでようやく、この手帳を託された意図に気づいた。
真理はこれが歌詞帳だと知っている。だから遺品として自分に管理してもらいたかったのではない。ちとせに届くことを願ったのである。
両手でちとせを押し返しながら、ポエム帳改め歌詞帳を手に入れた経緯を話したのだった。
「その人の連絡先を教えて」
ざっくりと語り終わった第一声がこれである。
「個人情報の保護、って知ってるか?」
「そんなのいいから、早く紹介して!」
くだらない軽口など聞きたくないと、ちとせはなおも詰め寄ってくる。
この押しの強さは一体なんなのか。
「真理になにか話したいことでもあるのか?」
「そんなの、いくらでもあるに決まってるよ」
と、ちとせは真っ直ぐとこの目を見ながら言った。
ちとせの剣幕に押され冷静さを失っていたが、言われてみればそうである。
真理は仁美にとっての親友だったはず。でなければちとせとの秘密を、たった三ヶ月で教えられるわけがない。
だからちとせも、前から真理の存在は知っていたのだ。スタジオの騒動のときに、顔合わせただけではない。こんな友人がいると、紹介したかったとすら伝えていただろう。
ちとせと真理は音楽の絆を持って、仁美と思い出を積み上げてきた者同士。文字通り、話したいことなんていくらでもあるだろう。
「わかったわかった。ちょっと待ってろ」
二人の顔合わせはきっと、互いのためになる。
ちとせの顔を鷲掴みにしながら引き離すと、メッセンジャーアプリで真理に連絡を取る。丁度スマホを触っていたのか、十秒かからず既読がついた。
ちとせが会いたがってる旨を伝えると、むしろ向こうから一度電話したいと返ってきたほどだ。要望通り通話し、一言二言挨拶を交わすと、そのままちとせに引き渡す。
かくして一年以上前、顔を合わせるも交わさなかった声を、初めて二人は交わすことになったのだ。
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