06
仁美の曲に、ちとせが編曲作業というものを行ったようだ。
作曲は楽曲の骨格、メロディを生み出す作業なら、編曲は曲の魅力を最大限に引き出す作業である。ゼロから一を生み出し、一を十に膨らませる。その分担らしい。
ちとせはギターだけではなく、ドラム、ベースなども扱える。ただし、それがメロディを膨らませ良い音を付けられるかには直結しない。
一つの曲を作り上げる編曲作業は初めてらしく、難航したとのこと。
ヒロさんは羅針盤には決してならないと徹したようだ。あくまで編曲のいろはだけを叩き込む。母さんが生み出したメロディを、膨らませ続けてきた男の生き様だ。
自らに妥協を許さなかったちとせは、初めて表現者の生み出す苦悩、というものに遭遇したようだ。良い意味でそれは、これからのちとせに大きな成長を与えるものとなった。
この話で思い出した。確かにその時期、ちとせがヒロさんのところに泊まる日々が続いていた。冬休みの残り期間、家でちとせを見ることがなくなっていた。
普通なら家庭の大問題であるが、ヒロさんが父さんを説得した。今はちとせの好きにさせてあげてほしいと。母さんが亡くなってからまだ一年と経っていない時期で、ヒロさんに散々助けられてきたのだ。父さんはただ、わかったとだけ言って承知した。
朝から晩までどころか、家に帰らずスタジオに籠もる日々。冬休みが明けた後も、学校が終わればスタジオへ向かい、夜遅くにヒロさんに送られて帰ってくる。
そんな生活が終わったのは、月の終わりであった。
二月に入った初めての休日。
ちとせによって呼ばれた仁美は、このときなにが披露されるかわからなかったようだ。ずっとひた隠しにして、サプライズとばかりに驚かせたかったようである。
ギターを手に取り、いつものようにマイクスタンド前に立つちとせ。ヒロさんに向かって頷くと、その曲は始まりを告げた。
カッ、カッ、カッ、カッ。
と、スピーカーから流れるドラムスティックを打ち付ける音。
次の瞬間、ちとせのギターが疾走した。
ヒロさんはこのとき、絶対に見逃すものかと捉えていたものがある。満を持した、ちとせのお披露目姿ではない。仁美の顔だ。
ちとせのギターテクニックは仁美も承知の通り。走り抜けるような高速カッティングに、魅了はされても驚くことはない。
だから目を瞠り、呆けるように口を開いてしまったのは、それが自ら生み出したメロディだと気づいたからだ。
かつて託された母の夢。
決して自らでは届かない、声の彼方。
世界へ届くほどの歌声が、自ら綴った詩を惜しみなく歌い上げたのだ。
「どうだった、仁美?」
ちとせは振り返り、その感想を求めた。
茫然自失すらしている仁美に、二人は心配することはない。ちとせもヒロさんもしてやったりと、自らの悪戯を誇るかのようであったらしい。
その果てに、我を取り戻した仁美がもたらした初めての言葉が、
「また曲を作ったら、貴女は歌ってくれる?」
二人にとっても意表を突かれるようなものだった。
今度は二人が面を食らったように目を見開くが、ちとせのほうはすぐに我を取り戻し、
「もちろん!」
と笑ったのだった。
◆
「以来、作詞作曲は仁美、編曲はちとせ。そうやって二人は、どんどん新しい曲を作り上げていったわ。当時の玲子とあたしなんかと比べ物にならない。素晴らしい曲が生まれてきた」
懐かしむような、二人への称賛。
当時の自分たちと比べ物にならないとはいうが、それは全て、ヒロさんがバックアップがあってこそだろう。環境、道具、指導者、なにより無視できないお金の問題。それら全てを用意され与えられたからこそ、なんの憂いもない創作活動に二人は勤しめたのだ。
「もちろん、世界なんて夢のまた夢。日本でもすぐに通じるものじゃない。ただこれから何度も失敗して、挫折を乗り越え、経験を積んでいくことで、当時の
あたしはね、あの娘たちにそんな夢を見たのよ」
かつて母さんの身勝手な一目惚れで、閉ざされたプロへの道。
玲子のことだから仕方ない、と笑って済ませたヒロさんであったが、それでもやはり悔いはあるはずだ。ただプロになりたかったのではない。母さんと一緒に、同じ夢を叶えたかったはずだ。
母さんの忘れ形見のためなら、それこそなんでもやると言っていた。そこに贔屓目はあるだろうが、現実を現実のまま捉えられるヒロさんが、かつての夢を二人に見出したようだ。
高校進学を機会に、結成されたひととせはデビューを果たした。表向きソロバンドであるが、その影には透明人間となった仁美がいる。
プロを目指す。そんな夢を掲げた二人に、ヒロさんは負けないくらいの情熱を持って、ひととせを支え、押し上げようとしたのである。まさに第三のメンバーに相応しいほどの活躍だ。
「……でも、その夢はまた潰えてしまったわ」
なのにヒロさんの夢はまた、身勝手さによって潰えてしまった。顔の見えない、狂気にとりつかれた何者かによって。
ノックアウトゲーム。
運の悪い被害者として、仁美の命は理不尽に奪われてしまった。
仁美が亡くなった日。
今になって思い出すと、あの頃のちとせは帰らぬ日々が続いていた。占い師として真理に適当なことを吹き込んだが、もしかすると当たっていたのかもしれない。
かつて母さんが亡くなったときのように、このスタジオで復活の儀を行い続けていたのだろう。仁美が生み出したひととせの曲を、毎日声が枯れるまで。
そしてヒロさん。
ずっと二人を支え続けてきた。このままの世界が良いという、全ての秘密を知る唯一の大人。
沈んだその顔を見て、一つ察してしまったのだ。
「ヒロさんさ、ひととせを立ち上げたことに後悔してるだろ」
「……和寿」
目を見開くヒロさん。
バンド活動を支援し、二人に夢を見てきた。ひととせの第三のメンバーに相応しい活動をして、日々精を注いできたそれを、自分は後悔してるだろと言い切った。
ヒロさんはそれに憤ることはない。ただその顔は、なんでそれを、と語っていた。
「全部初めから、二人の取り違えを両家に打ち上げるべきだった。子供の想いを優先するのではなく、大人として良識な判断をするべきだった。それで二人の世界が今まで通りにいかず壊れることはあっても、少なくとも仁美が死ぬことはないはずだった。だっただっただったって、そんなくっだらないことでも考えてるんだろ」
「あんた!」
激昂するヒロさん。その姿は仁美の死がくだらないと切り捨てられたように、怒髪天を貫いている。
でも仕方ない。くだらないものは、くだらないのだ。
「連れ出した出先や、運転ミスって死んだなら、死ぬほど後悔するのはわかるさ。でも違うだろ? だからヒロさんの後悔はさ、仁美がそれまで積み上げてきたものを無視して、放って、無下にして、とりあえず生きていればそれで良かったのに、って言ってるのと同じなんだよ」
「あ……」
今にも殴りにかかってきそうなヒロさんは、一気にその炎を鎮火させた。
ヒロさんはまさに、真理と同じ苦しみに囚われている。
あのとき引き止めていれば、数時間後に仁美が死ぬことはなかったかもしれない。
あのとき全部打ち明けていれば、数年後に仁美が死ぬことはなかったかもしれない。
誰が見ても間違っている選択。それをしたわけではないにも関わらず、全てが終わった後に、あのときこうしていれば、というもしもの可能性に後悔しているのだ。
「結局、ヒロさんの後悔は結果論だ。あのとき結婚を止めていれば、母さんが死ぬことはなかったはずだった、と言ってるのとなにが違う? 仁美は生まれず、ちとせと出会えず、とりあえず母さんが生きていればそれで良かったのに、とでも言う気か? 言っとくがそのときは、俺だって生まれてこなかったからな」
声が出ないとばかりに、ヒロさんは首を左右に振った。そんなことは絶対にない、と。
親友なんて言葉では片付けられない友人を失った。それでもヒロさんは自分たちを蔑ろにして、母さんさえ生きていてくれていればよかったのに、なんて言う人ではない。
ただ、たられば話の呪縛に囚われていただけなのだ。
だから占い師として、今度は母さんの言葉を勝手に代弁した。自分の子供たちを蔑ろにされたら、どんなことを言うだろうかと思索した先で。
くだらない後悔なんてしてるんじゃない、と。
母さんならそうやって、ヒロさんのケツを叩いたはずだ。
うるさくすることがマナーの室内に、幾許かの静寂が支配した。
顔を俯向けずっと考え込んでいたヒロさんだが、
「そうね、和寿。あんたの言うとおりよ」
どこか吹っ切れたように微笑をこぼしていた。まるでこんな後悔をしていた自分を、笑い飛ばすかのようだ。
「仁美への後悔は、玲子が生きていればと言っているのと同じだったわね。仁美が生まれず、ちとせと出会えなかった人生なんて、あたしには考えられないわ」
「覚えておけヒデ、これが差別主義者の顔だ」
自分が蔑ろにされているのがおかしくて、秀一は噴き出した。ヒロさんもそんな秀一を真似するように笑声を上げ、暗い雰囲気などなかったかのように空気は一変した。
一通り笑いが落ち着くと、秀一は改めてヒロさんに向き直った。
「トシの言う通り、仁美が亡くなったのはあくまで結果論に過ぎません。あまりにも短い人生になってしまいましたけど……それでも自分で選んだ生き方、人生に後悔はなかったと僕は信じています」
残された謎は全て明かされた。
その舞台裏側に至るまで、仁美がどのような思いで生きてきたか。
「だって仁美は、こんなにも素晴らしい曲を沢山生み出してきたんですから。その生き方が間違いであったなんていいわけがない」
そこに胸が張れないものなど一つもなかった。
仁美に間違いなんて一つもなかったのだ。
「今まで仁美のことを守ってくださって、ありがとうございました」
改めてヒロさんに頭を下げるその横顔は、スッキリとした顔をしていた。
どうやら秀一もまた、本当の意味で一つの折り合いがついたようだ。
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