05

 夏季休暇は終わり、だらしない生活リズムがようやく整ってきた、十月の始まり頃。


 平日の日中、模範的な真面目な大学生が座すべきは、大学の講義室であり、決して音楽スタジオなんかではない。


 しかし自分は今、音楽スタジオにやってきていた。


 結果的にはサボりだがサボりではない。


「はじめまして、朝倉秀一です」


「はじめまして、三津屋弘樹よ。ヒロって呼んで頂戴」


 秀一とヒロさん。二人を引き合わせるためだ。


 なにかと忙しい大学生活と、そして社会人。


 三者のタイミングを合わそうとしたら、あれから二週間も経ってしまったのだ。


 自分を抜きしたら、すぐに実現したであろうが、流石にそれは無責任すぎる。


 謎や事情はもう残されていない。なら急がなくていいと、秀一は言ってくれたのだ。


 ヒロさんに通されたのは事務所ではない。ちとせが一番使用率の高い、スタジオの一室だった。


 広さにして十畳ほどの部屋。ドラムやアンプ、スピーカーなどいった機材が、整然とセットされている。マイクスタンドと向かい合う壁は、一面が鏡張りであった。


 流行りの曲しか追わない自分にとっては、本来無縁の場所。ちとせのおかげで、今やすっかり見慣れた風景となっていた。


「これをお返しします」


 鞄から取り出したそれを、秀一はヒロさんに差し出した。


 これを返しに来ることはわかっていたのに、ヒロさんのその目は大きく見開かれる。


 仁美の部屋に残された、秀一の知らぬパソコン。それを与えた人こそが、ヒロさんだったのだ。ひととせの作詞作曲。その担当であった仁美に貸し出された――いや、そのために買い足したものであったらしい。


 持ち主を失い、与えた人の手に戻ってきた。受け取るとヒロさんは、大事な物を抱きしめるように胸の中に抱え込んだ。その目は今にも溢れ出さんとした、感情を堪えるそれであった。


「ごめんなさい」


 代わりに溢れ出してきたのは謝罪であった。秀一に向かって頭を下げたのだ。


「家族の貴方がたを差し置いて、全てを黙っていて……」


 ヒロさんは初めから全てを知っていた。その協力者ですらあった。


 仁美が亡くなってからもずっと口をつぐみ続けてきた。白日の下に晒されたときの、ちとせの世界を案じたからだ。


 だから今日、秀一と会うのに覚悟を決めていたのだろう。よくも黙っていたなと罵らせなじられた末に、暴力を受けてもそれを甘んじるつもりで。


「頭を上げてください」


 そうなることはなかった。


 頭を上げたヒロさんが目にしたのは、


「ずっと仁美を支えてくださって、ありがとうございました」


 自分の真似をするように頭を下げる秀一であった。


 そのときヒロさんが、どのような思いであったか。ただ、仁美、という言葉が出てきた瞬間に堪えていたそれが耐えられなくなった。わかったのはそれだけだ。


 強くパソコンを抱きしめたまま、堪えきれなかった嗚咽を漏らし続けていた。


 こんなヒロさんを見たのは初めてである。母さんが亡くなったときですら、自分たちのために泣いていられないと、毅然とした態度で引っ張ってくれたのに。


 今日の主役は秀一とヒロさんだ。


 自分はただ部屋の隅で、椅子に腰掛け動向を見守るだけ。


「ごめんなさい。早々にみっともない姿を見せてしまったわね」


 どれだけの時間が流れたか。


 パソコンを近くの机に置くと、恥ずかしそうにハンカチで目元を拭っていた。


「本当に、仁美のことを大切に想っていてくれていたんですね」


 そんな大人に今日まで支えてもらえ、秀一はむしろ喜ばしそうであった。


「仁美が初めて目の前に現れたときは驚いたわ。あたしが救われたときの、玲子の姿そのものだったんだもの。違いをあげるとすれば、お上品かどうかね」


 なんておどけて言うヒロさん。秀一はそれに釣られて笑っていた。


「ちとせは玲子の娘よ。その魂を存分に継いでいるわ。……でも、仁美もまた玲子の娘。間違いなくその血を引いているの」


 ヒロさんは慈しむように、その手をパソコンに置いた。


「どうしようか迷ったわ。大人として二人の代わりに、全てを告げる役目を果たす。これが良識ある対応かと思ったのだけど……二人はそれを望んでいなかった。お互いの立ち位置に満足してるから、このままが一番良いってね。だからあたしは、そんな二人の想いを優先したわ」


 ふと、ヒロさんの目は鏡越しで自分を捉えた。


「あたしと玲子の仲は聞かされている?」


「二人の仲を親友と言おうものなら憤るとは」


「ええ、そんなチンケな言葉で片付けられた日には、怒髪天を貫くわね」


「人生の課題に、答えは出たんですか?」


「残念ながら、まだまだ先のことになりそうよ」


 二人揃っておかしそうにしている。


「あたしはあの日、心に決めたのよ。玲子の忘れ形見。ちとせだけではなく、仁美のためならなんでもやってあげようって。あの二人のためなら朝倉家だけじゃない。宮野家の男二人も敵に回すつもりでいたわ」


「君はやっぱり後回しか」


「そう、いつだって俺は後回しだ。ヒロさんは兄妹に格差をつける、差別主義者レイシストなんだ」


 笑いを堪えきれずにいる秀一に、そんな軽口を叩いた。ヒロさんはヒロさんで、そんな自分の批判にどこ吹く風だ。


「そうして仁美は、このスタジオを出入りするようになったわ。ちとせと会うのはここが一番安全だものね。育ちが育ちだから、こういったうるさい場所を厭うかと思ったけど……意外なことに、この道に詳しいものだから驚かされたわ。その理由がまた、最高だったわね」


「僕の真似だ」


「そう、極度のブラコン。それ一つで、ちとせなんかよりよっぽど詳しいんだもの。愛というものは凄い力を発揮するものね」


 ニヤニヤとするヒロさんに、秀一は困ったような苦笑を浮かべた。


「でもね、その愛こそが、結果的にあの二人を強く結びつけてくれた。育ちは正反対なのに、いつも楽しそうに音楽の話をしていたわ。気づけばギターとキーボードで、セッションまでやり始めて。手が空いているときはあたしも混ぜてもらっていたわ」


 かつての思い出に馳せるようヒロさんは遠い目をする。


 ただ見守っていただけではない。その内側に入れて本当に楽しかったと、当事者として語っているのだ。


「ちとせは当時から、かつての玲子のようにプロを目指すって心に決めていたわ。作詞作曲にまで手を出して、熱心にやっていたの」


「出来はどうたったんですか?」


「亡き母の意思を継ぐ、天才少女の覚醒、なんてことが起きれば面白かったんでしょうけどね。年相応以上に頑張っているわ、よ」


 当時のちとせを、頑張っているとだけ評するヒロさん。いくら母さんの信奉者とはいえ、盲目的にならず現実を現実として受け入れているようだ。


「でも、ちとせが才能に恵まれているのは確かよ。玲子とあたしが英才教育を施してきたとはいえ、あの歌声だけは天性のもの。玲子じゃ絶対出ないような音も、軽々と出すんだもの。これだけは継いだ魂だけではどうにもならない、血に宿った力ね」


「血、か……。そう、ですね」


 血に宿る力、それがどういう意味でもたらしたのかをすぐに秀一は悟った。


 才能に溢れ、世界への切符が届きそうだったところを、お気に入り争いで負けてしまった。今度こそはと仁美はかつて、母親から世界への夢を託された。


「だから仁美はそんなちとせを応援していた。ちとせなら世界に通用するって、当人以上に信じていたのよ」


 母親のそんな夢は、ちとせの声にこそ宿っていると知っていたのだ。


「あの二人はね、姉妹のようだったんじゃない。同じ星のもとに生まれた、血の繋がらないだけの双子の姉妹だったのよ」


「だから、ひととせが生まれたのは必然だったんですね」


「ええ、必然よ。ちとせは家族の影響を受けてロックを始めた。そして血の力を持って、あの歌声を手に入れた。仁美の身にもそれが起きたのよ」


 ふと、ヒロさんは空を見上げた。そこには天井しかないのに、もっと向こうを見据えている。


「あれは、年の明けた五日目ね。仁美がスタジオに訪れるなり、あたしたちにこう言ったの。『ちとせの真似をして、私も曲を作ってみたの』って。しかも英語の歌詞までつけて。そんなこと言われたら、あたしたちも聞かないわけにいかないわ。むしろ今更恥ずかしがっても遅いぞって、見逃す気なんてなかったくらいよ」


 見逃がす気がない、というヒロさんらしさに笑ってしまった。


「あたしはね、大きな期待はかけていなかったわ。出来なんてどうでもいい。玲子のもう一人の忘れ形見が、どんな音楽を生み出すのだろうって、ワクワクしただけ」


「聞き届けた結果は?」


「ちとせと揃って愕然としたわね。なぜかわかる?」


 と、秀一ではなく、なぜか自分に質問を投げかける。


 わからん、と考えず投げやりに言った瞬間、頭を叩かれる未来は目に見えている。質問を投げかけたのだから、ちゃんと考えろって。


 数秒ほど頭をひねらした。


 仁美はひととせの作詞作曲。なら、答えはもう決まったようなものだ。


「そんなに天才的な曲だったの?」


「安心なさい。あんたに期待なんてしてなかったわ」


 折角答えたのに罵声が飛んできた。


「本当に仕方のない兄ね」


「トシのことですから。仕方ありませんね」


 二人揃って仕方ないとこき下ろすその様に、苦情を入れようとしたが止めた。やぶ蛇になるのはわかりきっている。 


 こいつはダメだと諦めたヒロさんは、秀一に視線を戻した。


「答えはわかっているわね」


「ええ、ビーマイセルフが作りそうな曲だった、ですね」


 秀一の答えに満足そうにヒロさんは頷いた。そして改めて、仕方のない奴だと自分に目線を寄越してきた。


「ちとせがプロを目指したのは、玲子の影を追ったからよ。ロックの中に玲子の魂を見出して、ビーマイが続いていたら、どんな曲が生まれていただろうか。音楽が好きなのは嘘じゃないけど、ちとせの初めの行動原理はそれだったの。


 仁美はね、あの歳でちとせが追い求めた物のを作り上げたのよ」


 母さんが作りそうな曲を作った。


 ヒロさんたちのことだ。母さんのアルバムを必ず仁美に聞かせている。仁美は自らの血の繋がった母親のアルバムを、厭うことなく聞いただろう。持ち帰って家で何度も聞いていたかもしれない。


 意識したのかはわからない。それでも血の力を呼び覚ますのに、十分な儀式であったということだろう。


「未熟なところなんて、上げていけばキリがないわ。でも、あたしにすらできない道を仁美は切り開いたの。ただ音を真似ているだけじゃない。まさに玲子だったら、こんな曲を作って、こんな詩を歌いそうだってね。


 それをブラッシュアップを重ねに重ねたのが、ひととせのデビュー曲よ」


 ああ、あの曲が!


 という顔をしている秀一と違って、自分はただキョトンとしているだけ。ひととせの曲はなに一つ覚えていないので、この反応は残当である。


 ヒロさんはこんな自分になにも期待していないとばかりに、初めて一つの曲が完成したとき、その日のことを語ってくれた。

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