夏
01
内田真理と出会ったのは、暦の上では春が終わりを告げた夏の日であった。
仁美の月命日ということもあり、朝倉家を訪れていた。両親がいない時間を見計らい、秀一に手引してもらったのだ。
その帰り道。ふと、仁美が亡くなった場所へのお参りが済んでいないことに気づいた。
訪れたことはないが、場所はわかっている。スマホの地図のおかげで迷うことはない。朝倉家から十五分ほど。
仁美が発見されたのは、地域の名を冠した道路沿いにある、鳥居をくぐった向こう側。地平の向こう側まで見渡せるほど長く広い、その途中、ではない。
横道に入ると、この先へ足を踏み入れるのは厳禁だと、緑の手前にロープが張られている。ただし桜の名所ということもあり、花を愛でる際、無粋なそれらが目に入らないよう膝丈の高さで収められていた。
真っ直ぐと進めばゴールへと辿り着ける先の通りとは違い、ここはうねうねと入り組んでいる。迷路とまでは言わない。終わりを決めなければひたすら巡り、延々と思索にふけられる、そんな自然さを感じられる。
夕方ということもあって、人影はあまり見受けられない。ぽつぽつと数えられるくらいだ。
仁美が発見された場所には、献花台があるわけでもなく、その名残も残されているわけでもない。前知識がなければ、ここで悲劇があったなどと誰も思わないだろう。
そこにただ立ち尽くし、手を合わせる。
彼女に思い馳せられるほどの思い出はない。思い馳せるのは彼女が残した謎へのみ。
身体が震えた。恐怖からでもなく、悲哀からでもなく、驚嘆からでもない。単純に、外気温のせいで寒気に襲われただけだ。
関東と比べまだまだ涼しいこの地域では、ようやく暖かくなってきた。だが夜になると長袖は手放せない。
夕方となり冷えてきた。半袖で来たことを後悔していたところで、彼女に出会った。
後ろで立ち止まる気配を感じ、振り返る。
「あの……仁美ちゃんの、お兄さんですよね?」
自分の顔を見るなり目を見開き、散々迷ったような顔をした先で、その形のいい唇は告げた。
可愛らしい女の子だった。見開かれたその釣り眼は、きついイメージではなく溌剌さを印象づける。肩まで届かぬ髪がさらさらと風で揺れていた。その制服はどうやら、仁美と同じ高校のものだ。
勝手なイメージであるが、ちとせと同じような活発な女の子だと感じた。一つの魅力として誇れるであろうそれは、今は沈み、その姿を見失っているように見えた。
「仁美の友達かな?」
彼女の問いに答えるではなく、質問をまた、質問で返した。
仁美は血の繋がった妹ではあるが、自分の妹ではない。仁美はあくまで秀一の妹である。そうだ、と答えるのも、違う、と答えるのも違う気がしたのだ。
初めて、自分は血の繋がりのある妹の名を口にした。
「はい。仁美ちゃんとは仲良くさせて頂きました」
ペコリと頭頂部を見せてくる。
「内田真理と言います」
自分もまた礼儀として名乗ろうとしたが、言葉に詰まった。朝倉秀一の名を口にし、騙すような真似は気が引ける。だからといって本名を伝えるわけにもいくまい。
「お兄さんのことは、仁美ちゃんからよく聞かされていました」
頬を緩ませながら真理は言った。
「凄いお兄さんがいるって」
「凄いお兄さんか」
カッコイイでもなく、大好きでもなく、愛しいでもなく、秀一のことを友達には凄いの一言で括って伝えていたようだ。あれは確かに、凄いで括れる。
「ごめんなさい。手を合わさせてもらっていいですか?」
もちろんだと声にする代わりに頷いた。
道を譲るように後ろへ下がると、真理はその場所へとしゃがみ込んだ。
コンビニ袋から取り出したのは、チルドカップのカフェラテが二つ。コンビニ袋を敷物代わりにして、そこに供えた。
合掌したその後姿を見守る。
彼女は自分を、仁美の兄ですか、ではなく、仁美の兄ですよね、と断言し見抜いた。
自分はゴリラでこそないが父さん似であると、ちとせやヒロさんにはいつも言われる。遺憾ではあるが、そういう自覚もある。母さんにはそんなに似ていないからこそ、仁美の面影を見出され驚いた。
こういうのはいつだって、女の方が鋭く、男は鈍感なのだろう。
合掌し、たっぷり一分か。真理は丁寧にコンビニ袋へそれらを戻した。
「おまたせしました」
ペコリとまたも真理は頭頂部を見せてくる。
もしかしたら、自分がいなければもっと長い時間、仁美に思い馳せていたのかもしれない。
「内田さんは、この辺りに住んでいるのかな?」
「いえ。こんなエリアで居を構えられるほど、うちは凄くありませんから」
裕福とか金持ち、という言葉はTPOを間違えれば嫌味になる。パッと凄くありませんと出る辺り、真理の人柄の良さが窺えた。
凄くないと言う割には、その後伝えられた住所は金持ちエリアであったのである。
どちらにせよ、電車に乗ってまでこんな場所まで来て、手を合わせてくれる子だ。どれほどの仲だったかは知らないが、仁美を想っていることは間違いない。
「駅まで送るよ」
日が沈んではないとはいえ夕方だ。こんな事件が起こった場所で、一人で帰らせるのは忍びない。
真理はポカンとしながらも、面映そうに頭を縦に振ってくれた。
「内田さんは、いつから仁美と?」
「去年、初めて同じクラスになってからです」
去年の仁美は高校一年生。初めて同じクラスというのは、中高一貫校ならばの表現だろう。
「後、わたしのことは真理で構いません。仁美ちゃんにも、真理って呼んでもらっていましたから」
「じゃあ遠慮なく。真理と仁美が仲良くなるのに、なにかキッカケとかあったのか?」
会ったばかりの子をいきなり名前で呼び捨てるのは、面映い思いがあったが、以外とこれがハマった。ちとせと同じ年だからこそかもしれない。
「キッカケもなにもありません。わたしが仁美ちゃんと友達になりたい、って思ったのが始まりです」
真理もまた面映ゆさを感じたのか。自分から頼みはしたが、いきなり年上にこう気軽に接せられることに照れているようだ。染まった頬は夕焼けのせいではないだろう。
「ほら、仁美ちゃんって凄い可愛いじゃないですか。仁美ちゃんと是非お近づきになりたい。絶対に仲良くならなければ、って使命感にかられたんです」
「また凄い使命感だ。誤解を受けてもおかしくない熱意だ」
「実際、おまえはおかしい。ストーカーか、って周りには呆れられました」
後頭部に手をやり、悪戯を見つかった子供のように真理ははにかんだ。
「それでも、立ち止まらなければ夢は叶うと信じてたんです」
「そんなストーカーの、仁美へのファーストコンタクトはなんて」
「わたし、内田真理。友達になろう!」
当時の真似なのか、真理は元気溌剌に両手を広げた。
これには噴き出してしまった。かつてちとせが語った、ヤバイ奴そのものだ。
「仁美の反応は?」
「目を点にしながら『えっと……困るわ』って逃げられちゃいました。確かにあれは仁美ちゃんを困らす行動だったって、後になって反省しました」
「後になってか」
「ええ、当時はなにに困っていたのか、全然わからなかったんです」
照れるのではなく、むしろ誇るように自らの失敗を真理は語る。
「それでもめげない、こりない、諦めないが内田真理三カ条ですから。色んなアプローチを重ね、失敗し、逃げられましたが、わたしはついに仁美ちゃんと仲良くなったんです」
ストーカー三カ条を貫き、夢を叶えた真理は胸を張っている。
凄い子だと、素直に思った。やはり真理は自分が見立てた通り、ちとせタイプのようだ。方向性は別として、元気溌剌な女の子。世間に流されない、内側からエネルギッシュ溢れる子のようだ。
それが内田真理が持つ、本来の魅力なのだろう。ただし今は、空元気のそれと変わらず、暗い影を心に落としているようだ。
「そのついに至るまで、なにが起きたのやら」
「そこは……乙女同士の秘密ですね。ただ、お兄さんのおかげだとお礼を言います」
「お兄さんの、おかげ?」
俺が一体なにをやったのかと思ったが、すぐに心の内で首を振った。秀一がなにか、縁を繋ぐようなことをしたのだ。
「お父さん、学生の頃にバンドをやっていたんですよ」
真理のふいな言葉に、話が飛んでるような錯覚を受けた。
「今は趣味でギターを弾いてるだけですけど、わたしもその影響を受けたんです」
「それでギターを始めたと?」
「いえ、ベースです」
まるでその間違いを待っていた、とばかりに真理は白い歯をこぼす。
ちなみに自分は、ギターとベースの違いは弦の本数だけだと思っている。バンドに置いての重要性は全くわかっていない。
「楽器が変われば、お父さんと一緒にセッションができる。できることが増えれば増えるほど、お父さんが喜んでくれるんです。だから子供ながら、それが嬉しくていっぱい練習してきたんです」
「お父さんっ子なんだな」
「ええ。父子家庭ですから、その分仲がいいんですよ」
落ち込むでもなく、さらっと重大なことを真理は口にする。彼女にとってそれは、とうの昔に折り合いがついており、重苦しく語る事柄ではないのかもしれない。
そんな真理の中に、ちとせを見つけた。母さんが喜んでくれるから、練習してメキメキと上達していく。どこの家庭でもある、珍しくないことなのだろう。
「人より多くの曲を聞いてきたし、弾いてきました。人より音楽に詳しいって自負もあります。だからあの日、仁美ちゃんが音楽室で弾いていた曲に、驚いたんです」
「仁美が弾いていた曲?」
その曲名を口にする仁美であるが、その横文字に覚えはない。日本の曲か海外の曲かも判断が付かないでいる。
「まさか仁美ちゃんが、あのロックバンドの曲を弾くなんて。仁美ちゃんの中に、とんでもない仁美ちゃんを見つけて胸が震えましたね」
ロックバンド。身近でありながら、自分はそれには無知である。
ただ、母さんの曲は何度も聞いてきたからわかる。あれは、ピアノと茶道と生花を嗜んできたお嬢様とは縁遠いものだ。
「『聞き始めたキッカケは、兄さんが好きなものだから』。仁美ちゃんはそう言ってました」
なんで仁美がロックを、と口を開かずによかった。
秀一がロック好きなのは初耳だった。ロックの知識や批評はにわか仕込みではなく、母さんのアルバムを褒めたときも、本当に気に入ってくれたのかもしれない。
仁美と仲良くなれたのはお兄さんのおかげ、と言ったのも、その辺りを指してのものだろう。
「それをキッカケにして、やっと仁美と仲良くなれたのか」
「はい。真理、って呼んでもらえるようになりました。それもこれも全部、お兄さんのおかげです」
ありがとうございます、と口にせず真理は軽く頭を下げてきた。
正直、この頭は秀一に見せるべきものであり、決して俺が見ていいものではない。少し、居心地の悪さを覚えた。
「そうだ」と真理はコンビニ袋から、カフェラテを取り出した。お供え物のであったそれを、「よかったらどうぞ」と自分に差し出してきた。「ありがとう」とだけ口にして、ストローを差した。真理もまた、それにならった。
「仁美ちゃん……これ、好きだったんです」
一口飲むと、真理は言った。
「あの日、放課後まで遅く残った仁美ちゃんと、学校の帰り道でこれを飲むつもりでした。その途中で忘れ物に気づいて、先に帰ってもらったんです」
あの日、という言葉を口にして、真理は深く沈む。それがどんな意味を持っているのか、自分は既にわかっていた。
「多分、最後に仁美ちゃんを見たのはわたしです」
嗚咽となろうとするそれを、必死に堪える声色がそう語った。
それは目撃者としての意味ではない。仁美と親しい者たちの中で、誰が最後に仁美の顔を見たのか、ということだ。
ただ親しい友達が亡くなったのではない。最後にそれを見たのが自分だという事実が、真理を今日まで苦しめてきたのかもしれない。
駅に着くと、そこが別れだ。
一応秀一として振る舞っているので、真理と一緒に改札へ入ることはできない。
「お兄さん」
改札へ向かおうとする真理を見送っていると、その背中が振り返った。するとまたこちらへ戻ってきた。
「これ、お渡しします」
鞄の中から取り出したのは、いつか見た日記帳として使われていた、手帳であった。
「これは?」
「仁美ちゃんがあの日にした忘れ物です。机の中にこれがあるから預かってくれって、電話をもらったんです」
両手で差し出される手帳を、素直に受け取った。
「ずっと、これを誰に返せばいいか悩みました。仁美ちゃんは、これをご家族の方に見られたくないと思います。だからお兄さんに、これをお返しします」
仁美の手帳が手から離れたことに、真理は肩の荷が降りたかのようだった。
どこか気持ちが軽くなった真理の顔は、しかしまだ、なにか言いたそうにしていた。
朝倉家が知らない仁美を、真理はまだ知っているのだろう。それを口にしていいのか、悩んでいるようでもあった。
「よければさ、連絡先を教えてもらっていいかな?」
「え……」
「思い出したときでもいい。仁美のことでまたなにかあれば聞かせてほしい」
答えを急ぐ必要はない。
真理はまだ、仁美の死と折り合いがつけられていない。そんな彼女の両肩を揺らし、知っていることがあれば全部教えろなど、自分にする権利などない。
だからせめて、折り合いがついたらでもいい。折り合いをつけるキッカケでもいい。そのときが来たら、いつでも話してほしいというつもりで、連絡先を求めた。
「はい」
真理はそれに、目の端を濡らしながらも、笑顔で応えてくれた。
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