02

 その夜、ちとせを送れないから、迎えに来てくれとヒロさんから連絡が来た。


 ヒロさんの音楽スタジオまで、車を出して三十分ほど。夜の九時を過ぎた頃にそんな連絡が来て、面倒だという気持ちが泉のように湧いてきた。


 電車で帰って来られる距離とはいえ、夜道を一人帰らせるには危険な時勢だ。もういっそ、ヒロさんのところで泊まればと言いたいが、ちとせは今日帰る気満々らしい。


 実に身勝手で我儘な妹である。偉そうな妹のために、自分がそこまでしてやるのはお門違いだと高々に主張したいが、残念ながらできないでいる。なぜか。ちとせへの活動支援を渋ると、ヒロさんからのお小遣いの額もまた渋られる。


 お小遣いの額の上下は、大学生活の満足度に影響する。例え酒が入って車を出せないとしても、電車に乗ってでも迎えにいかなければならない。


 かくしてスタジオまで迎えに行って待っていたものは、


「今、神様が降りてきたの。お帰りになられるまでおにいは待機してて」


 偉そうな妹のお言葉であった。


 神様が降りてきたとは、曲作りの調子が波に乗っているときに、ちとせがよく使う表現である。帰りのタクシーを呼んでおいて待ってろというのだ。実に我儘で偉そうだ。


 神様がお帰りになられるのはいつになるかわからない。


 仕方ないのでスタジオの入り口にあるベンチに座りながら、大人しく待つことにした。


 手持ち無沙汰ないつもなら、今どきの若者の正しいあり方を示すように、スマホをポチポチと触ってただろう。ただし今日は、真理から渡された手帳がある。


 中身がどんなものであるかは伝えられておらず、また確認をしていない。


 中を見ずに秀一にそのまま渡すことこそが、正しいのだろうと思った。ただ真理は、家族には見られたくないものだろうと渡してきたのだ。きっとそれは、秀一に見せていいか悩んだのかもしれない。


 自分が見て、秀一に見せるかどうかを判断することにした。同じ手帳だ。もしかすると、これもまた同じ日記帳かもしれない。


 仁美はこれを、机の中に忘れた。次の日に自分で回収するのではなく、早急に真理へ回収することを頼んだ。必ずこれは、人に見られたくないものである。同時に真理になら見られてもいいと思うほどに、彼女を信頼していたのかもしれない。


 仁美が残した謎。その答えがもしかしたら、これに詰まっている可能性。


 ついにそれを、自分は開いた。


 ページを捲っていく。


 あの日記帳のように、淡白な一文だけで終わるそれではない。常に一行の空白を置きながらも、文字はページいっぱいに書き込まれている。


 日付もなく、日々を綴るそれではないのはひと目でわかる。


 日記帳ではなく、これはなんであるのか。その正体は、すぐに思い至った。


 ……うん、これは確かに家族には見られたくないものだ。


「ポエム……か」


 これはポエム帳だった。


 自分が今日まで作り上げてきた仁美は、クールビューティー。世間に流されず、迎合しない、その辺の小娘たちとは一味違う女子高生。それが蓋を開ければ、あまりにも痛々しい一面が牙を剥いてきた。恥部が剣となり、胸をズキズキと突いてくる。


 一つ一つ全部読み切るには、あまりにも辛すぎる。違う意味で心を打つ。


 あくまで流し見で見ていると、一つのポエムに目が止まった。


『ある日、私を見つけた。


 私が立っているこの世界は、私の物ではなかった。


 あなたが立っているその場所こそ、私の本当の世界だった。


 私は間違ってここにいる。間違った世界を歩んできた。


 周りは、そんな私を可哀相だと言うのだろう。


 どこかで見たような言葉を操って、どこかで耳にしたような台詞を振りかざして、


 おまえは悲劇のヒロインだ。そうだろ? なんて得意げに言うのだ。


 間違いは悲劇でなければならないと、愚かにも信じているのだ。


 それに私はこう言ってやる。


 貴方たちほどの愚か者を私は知らないわ、って。


 私は間違った世界を今日まで生きてきた。


 歪められた人生を今日まで歩んできた。


 だからなに? なぜそれが悲劇に繋がるの?


 こんな素晴らしき世界のどこで、私は悲劇のヒロインを演じればいいのかしら?


 次は間違いに気づいたのが悲劇だというの?


 しつこい人たちね。笑えるほどに愚かな人たち。


 残念ながらこれは希望。私にとってこの世界で芽生えた新たな希望。


 だってそうでしょう? 間違いだと知らなかったなら、それこそ一つの悲劇を迎えたんだもの。


 これは喜劇だ。間違いが起きて、間違いに気づいたからこその希望である。


 素晴らしき間違えた世界。


 私はこの世界こそ愛おしい。


 だから間違いが起きた世界に願う。


 どうかこれからも、間違えたままでいさせてほしい。


 この間違いを正さないでほしい。


 だって私は、間違った世界で生きてきたからこそ、こんなにも幸せなのだから』


 まだまだ先が続いているが、ページを捲るのをそこで止めた。


 痛々しいからではない。仁美がどのような思いでこのポエムを書いたのか、それが胸を打ったからだ。


 やはり仁美は、全てを知っていたのだ。おそらく全てが正しい形で、なぜこんなことが起きたのかも。自分たちと同じ真実に辿り着いているのだ。


 だからこそ、仁美はこんなポエムを綴ったのだ。


 世界とはすなわち、家族のことを指している。朝倉家で生きてきた人生を、間違いが起きたからこそ素晴らしい。間違ったからこんなにも幸せだったと。ここに綴っているのだ。


 そんな中で笑えたのは、間違いに気づいたからこそ辿り着ける希望、である。これはもう、秀一との関係を指しているに違いない。何歳のときに綴ったポエムかは知らないが、秀一を全力で取りに行く宣言だ。


 このポエム帳。果たして、どう扱うべきか。しばらくは様子を見て、自分が封印しておこう。


「なにニヤニヤしているのかしら、和寿」


 ふと頭上から、そんな言葉が降りかかる。


「女が一人でニヤニヤするのは可愛いけれど、男がやったら絵面が犯罪よ」


 見上げると、そこにはヒロさんがいた。


 バンドTシャツとスキニーパンツという、いつもと同じ装い。人体改造と化粧を施しているとは言え、骨格からしてヒロさんは男である。自分よりも長身であるからこそ、女の顔をしているその様は迫力がある。


「一体なにを見てそんな顔をしているのだか」


「友達が車にポエム帳忘れてさ。絶対に中を見るなって言われたんだ」


「あたしには、開いていたように見えたけど」


「ヒロさんは慧眼だ」


 自分の行いに呆れたようにヒロさんは眉間に皺を作った。


「というかヒロさん、所要で出てるんじゃなかったの?」


 お店は基本、アルバイトのスタッフが回している。決して高い給料ではないが、皆この店のお客から雇われた者たちだ。ヒロさんを慕い、この店が好きであるからこそスタッフとしての意識が高い。


 通常業務で店を回すだけなら、ヒロさん抜きでも回せる体制はしっかりとできている。だからちとせの送り迎えなど普段からしているのだが、今日は急用が入ったようだ。


 これだけ早く帰ってくるなら、自分が迎えにくる意味などなかったのではないか。


「ドタキャンにあって戻ってきたのよ」


「ヒロさん相手にドタキャンか。また命知らずな真似を」


「命知らずって、人を物の怪や妖怪扱いにしないで頂戴」


 頭をパーで叩かれた。痛みはないが、頭がガクっとなった。


 ヒロさんは約束事、時間には厳しい人だ。約束を違えたり、時間に遅れるのをなによりも許さない。


「でもヒロさん、そういうのにうるさいじゃん」


「あたしがうるさいのは、相手がだらしないときだけよ。親が持病で運ばれたなら、そっちについてあげるのが筋でしょ」


 だからヒロさんはドタキャンされたのに怒ってないのか。むしろそんな親を放って来ようものなら、烈火のごとく憤りだし、早く病院へ行けと背中を蹴るに違いない。


「それで、ちとせはどうしたの? 流石にもう帰ったと思ったんだけれど」


「そうだ、あの偉そうな妹に、ここはヒロさんがガツンと言ってくれ。お兄様と神様、一体どちらの時間が大事だと思っているんだ。時間にだらしないのは許さないわよ! って」


「神様が降りてきてるの? ならそっちのほうが大事に決まってるわ」


 自分が未だここにいる理由を、あっさりと受け入れるヒロさん。


 ヒロさんは、ちとせが音楽に関わることをやっているときはとにかく甘い。真剣にやっている結果ならばと、自分では許されないようなこともなんでも許す。


「それに、ちとせは別に偉そうにしているわけじゃないの」


 この通りである。表彰台に掲げてもいいほどの兄妹差別だ。


「玲子と一緒よ。ちとせはいつだって、自分に正直なだけのよ」


「ヒロさんってさ、なんで母さんのことになるとそんな大物なわけ? 人生の一大事を、母さんの自分勝手な一目惚れで台無しにされたじゃんか」


 音楽バンドがどういうものであるかはわからない。ただ、アマチュアからプロになろうとするのは、並大抵のことじゃない。プロデビューの目処がたった矢先に、母さんが結婚するから辞めると言い出したのだ。それこそ結婚の目処が立っていない一目惚れで。


「普通はさ、大喧嘩に発展して、縁を断つレベルだろ?」


「玲子のことだもの。仕方ないわ」


「それだ、母さんだから仕方ない。一体母さんのなにが、そこまでヒロさんにさせるんだ」


 眉をひそめるヒロさん。


 それは不快感から来るのでない。なんでそんなことも知らないの、と訴えかけてくるようだった。


「そういえばあんたは、玲子の昔話に全然興味がなかった子だったわね」


「両親の過去を詮索しないのが、正しい少年のあり方だ。大事なのは、今だよ、今」


「妹が頑張ってる今に興味を見出さない子が、なにを言ってるのかしら。どうせひととせが出している曲の一つも知らないでしょう?」


 「一つくらい知ってるさ」と口に出した曲名は、母さんのアルバムに収録されている曲名だったことに、また頭を叩かれた。


「それで、母さんのなにがそこまでさせるわけ?」


「親の過去は詮索しないんじゃなかったの?」


「俺もそろそろ成人だ。母さんの過去に向き合うときが来たんだよ」


「本当に減らず口ばかりね。一体誰に似たのよあんたは」


「隔世遺伝だよ。有能な祖先の血が、俺の代で覚醒したんだ」


 口でやり込むことはできないと諦めたヒロさんは、大きなため息の後、過去を語るべくその口を開いた。


「玲子のなにがあたしにそこまでさせると言ったわね」


「うん」


「玲子がいなかったらあたしは、今頃首を吊ってこの世にいなかったわ」


 ヒロさんから、とても似つかわしくない言葉が出てきて仰天した。

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