02
どれだけの懸念があろうと、大学生活をかまけるわけにはいかない。ノックアウトゲームの犯人を捕まえて以降、誘われた飲み会にこそ顔を出すが、出会いを求めた席は自粛していたのだ。
後ろめたさなどがあったわけではない。なんとなく、そんな気分になれなかった。
一体どうしたんだと友人たちに心配されながらも、日々を重ねるごとに気持ちの整理がついていき、自分が大学二年生であることを思い出したのだ。
モラトリアム期間は残り二年と四ヶ月は残っているが、真面目にやるなら来年の今頃は、就活に追われ遊んでいる暇などないだろう。
このままでは彼女ができず、大学生活が灰色のまま終わってしまう。
これはまずいと己を奮い立たせ、かつてのモチベーションを取り戻し、昨夜は久しぶりの出会いを求め飲み会に臨んでいた。
二次会で野郎共と「俺たちの一体なにがダメなんだ」と愚痴りあいながら、終電で帰ってきたのが昨夜の顛末だ。
目覚めると時計の数字は微動だにせず。精々AがPに変わっていたくらいであった。
本日は祝日。ちとせはスタジオ、父さんはちわわの相手。水分を求めて誰もいないはずのリビングの扉を開けると驚いた。
「ん?」
ソファに腰掛けている父さんがいた。それだけじゃない。
「あら、随分と早起きなのね」
ちとせの代わりのように、ヒロさんまでいたのだ。
皮肉げに軽口を叩いてくるが、鼻で笑うような声音がそこには込められていない。どこか重苦しい雰囲気がリビングを支配していた。
自分でなくても、なにかがあったのだと察せれるだろう。
問題は、なにが起こったのか。確実に休日出勤だったはずの父さんが、休んでまでなぜ家にいるのか。
「これから朝倉家の人たちが来る」
自分の位置からは、父さんの後頭部しか見受けられない。ただその顔が、どんな生真面目な顔をしているかくらいは察せれた。
「ちとせの生まれ時のことは、前に話しただろ?」
と、だけ父さんは続けた。
それ以上語らなくても、秋頃に見事な推理を発揮したおまえならわかるだろうと。
「まさか……そういう話?」
全てを察した自分は、父さんではなくヒロさんを見た。
ただコクリと、おまえの考えている通りだと肯定される。
どうやらこんな朝早くから申し訳ないと、弁護士が訪ねてきたようだ。父さんは刑事である。休みなど関係ない。日中では捕まらないだろうからと、まずはその非礼を侘びてきた。
こんな早朝からの弁護士の来訪を、父さんは無礼と思うことはなかった。自分の仕事を考えれば仕方ない。それよりも心当たりのない弁護士の来訪に、不穏なものを感じながら要件を促した。
弁護士はずばり、遠回しではなく、簡潔に新生児取り違えの件を切り出したようだ。
そんなバカな……、と思うことはなかった。驚愕するもあってもおかしくない事実だ。先日の朝倉家と対面したこともあり、すぐに得心すらいっていた。
後日改めて、場を作らせてほしいという願い。父さんはそれを跳ね除けるどころか、早期決着を望んだ。
その場で朝倉家に連絡を入れた弁護士は、すぐに会見の場を整えた。
今日の十三時。この宮野家で。
慌てて自室に駆け上がると、スマホを確認した。昨夜の七時頃から、何十件も連絡が入っていた。マナーモードのまま放っておいたので気づかなかったのだ。
メッセージを送るもすぐに既読になることはない。
電話をすぐにかけようとしたが止めた。
現在十二時三十分。秀一が今なにをしているかが想像ついたからだ。
そうして身なりを整え終えたところでチャイムが鳴り、到着した朝倉家一行。
その玄関で、秀一は困ったように自分を見たのであった。
◆
かくして両家揃った会見は行われた。
しかしちとせはいない。父さんいわくなにも知らせず、近くのファミレスで待機させているとのこと。が、おそらくヒロさんのほうから、全部伝わっているに違いない。ちとせのことだからファミレスに向かわず、近くで様子を伺っている可能性もある。
テーブルを挟んで向き合う宮野家と朝倉家。
こちらは自分と父さんとヒロさん。
向こうは秀一とその両親。弁護士は彼らの隣に座ることなく、あくまで折衝役だと、宮野家から見て右側に腰を下ろしていた。
互いの自己紹介を早々に、始められた新生児取り違えの問題話。父さんはその話を聞かされる中で目を丸くしていたが、自分やヒロさんにとってはもう既知の事実。かつて秀一からもたらされた、探偵を雇った推論そのままであった。
取り違えがあった経緯を語られた後、秀一の母親から一枚の写真を差し出された。
「娘です」
誰の、とまで口にせず。堪えるような悲痛な面持ちであった。
父さんはその写真を取ると、すぐにその肩を揺らせ、大きくその目を見開いた。大声を出すのではなく、ただ喉を小さく震わせる。
「玲子……」
妻の生き写しを見て、その名を呼んだ。
どのように思い馳せているのか。誰も話を進めようとすることはなく、黙ってその口が開かれるのを待っていた。
気を持ち直すように、父さんは息を吸った。
「こんな物を見せられたら、納得するしかありません」
悲哀に満ちたものはそこにはない。
自分たちの身に降り掛かった、不幸とも言える人為的な取り違え。そこに憤りも嘆きもない。こんなことが起きていたのかと、どこか開き直ったような姿であった。
例え血が繋がっていなくても、ちとせは自分の娘。その上で、物事を前向きに見ようとした、一人の父親としての顔だったのだ。
「名前を教えて頂いても?」
血の繋がった娘。母さんの血を引いたもう一人の忘れ形見。
いくらちとせが自分の娘であり、それでいいのだと開き直ったとはいえ、無関心なんかでいられるはずはなかった。
「ヒトミです。人偏に漢数字の二。そこに美しいと書いて、仁美と名付けました」
「そう、仁美というのか」
秀一の父親にそう告げられ、再び写真に目を落とした。
一体どのような娘なのだろうと、思い巡らせ、物思いに耽る。
「……仁美?」
しかし、それはすぐに断ち切られた。
「朝倉……仁美?」
父さんは刑事である。
前に担当事件でなくても、世を騒がすほどのあの事件。顔を知らずとも、その被害者の名は全て頭に入っているのだ。
「あの通り魔事件の、唯一の死者も……そんな名前だったはず」
信じられない物を目の当たりにしたように、父さんは写真から顔を上げた。朝倉家は全員、現実から目を逸らすように、その顔を俯かせていたのだ。
「もう……いないのですか?」
震えた音で紡ぎ出されたその問いは、秀一の母親の哀哭によって応えられた。
全てを悟った父さんの肩は、もう震えてすらいない。肩と共に、黙って写真に目を落としていた。
時間だけがただ、無為に流れていく。
「今回の目的なのですが」
いつまでこうしていても仕方ない。誰かが場を取り仕切らなければならないと、弁護士が口を開いた。
「まずはちとせさんとの血縁関係をハッキリさせたい。というのが朝倉家のご意向になります」
血縁関係をハッキリさせる。
そんなことしなくても、もう結果はわかっている。この先の話に進むための、ただの手順を踏もうとしているだけだ。
その先の話をしたくない。そう拒否するかのように、父さんは黙って写真を見続ける。
「その必要はありません」
だから口を開いたのは、ヒロさんだった。
「仁美とちとせは、中学校一年生の頃に出会っていました」
大人たちが一斉に、驚きの息を漏らした。
どういうことだと、父さんはヒロさんを見ている。
「母親の生き写し同士です。どのように自分たちが生まれてきたのか。それがわかっていれば、答えへ辿り着くのに時間はいりません。ですが仁美はその証明を望み、自分がそれに手を貸しました」
あまりにも予想外の展開に、父さんと朝倉家の両親。そして弁護士までもが唖然としていた。
「二人と和寿の血縁関係は、自分がハッキリさせて頂いております。仁美と和寿には血の繋がりがあり、ちとせとはありませんでした」
「あぁ……」
と息を飲んだのは、どちらの父親であったが。
ヒロさんは朝倉家の両親に向かって、その頭を下げた。
「ずっと黙ってきて申し訳有りません。貴方たち家族の気持ちを差し置いて、自分は仁美たちの想いだけを優先させてきました」
「仁美が……望んたのですか?」
「はい。自分たちは今の立ち位置に満足している。変わらぬ家族のままでありたいと。今の関係が壊れてしまうことを、一番恐れておりました」
ヒロさんは頭を上げると、秀一の父親の顔を真っ直ぐと見据えた。
「ですが一生、秘密を守り通したかったわけではありません。高校を卒業したら全てを打ち明ける。その歳まで十分に育てば、きっと打ち明けた後も変わらぬ家族でいられると、二人は信じていたんです」
秀一の父親はただ口を震わせていた。
次の瞬間、よくも黙っていたなと雄叫びをあげる。悪しざまに罵り、その拳をヒロさんに向かって振り下ろす。
「ありがとう、ございました……」
そんなことはなく、黙ってその頭を下げてきた。
感謝に込められたのは、かつての秀一と同じ想いであろう。不確かな足元の上で生きてきた、娘を支えてくれてありがとう、と。
自分たち家族を大切に想っていた、娘の気持ちを知れた。後に振り返れば、秀一の父親はここで娘への折り合いが、本当につけられたのかもしれない。
「なら、後はちとせさんと朝倉の血縁関係だけか」
それでも現実を無視することはできない。全ての真実を明らかにして、前に進みたいという思いから出た言葉だろう。血の繋がった娘を取り返そうだなんて気はないはずだ。
「その必要はないよ」
だからこそ秀一は、父親に向かってその口を安心して開いたのかもしれない。
「ちとせと僕の血の繋がりはもう調べた。間違いなく僕たちの間には、血の繋がりがあるよ」
「秀一……おまえ」
知っていたのか、と。何も知らずにいた者たちはヒロさんに向けた驚きを、今度は秀一へ差し出したのだ。
「仁美が僕と血が繋がってないと、日記に残してたんだ。それだけわかればもう、思いつくことは一緒だよ。父さんたちと同じ方法で調べて、宮野家を知ったんだ」
「でも……調べたってどうやって」
ずっと黙り込んでいた父さんが、息を吹き返したように口を開いた。まさに心肺蘇生するほどの衝撃だったのだ。
秀一ほどの男とちとせが親しくなれば、自分の耳に入らないはずなのに。どうやって秀一は、その血縁関係を調べたのか。
父さんはその正解に、すぐに気づいたようだ。
「こんな話、できるわけないだろ」
こちらを向いてきた父さんから、逃げるように顔を俯けた。
おまえも全て知っていたのかと、その目はきっと見開かれているだろう。今はそれに向き合う勇気が自分にはなかった。
「じゃあ、ちとせさんは……」
「間違いなく、朝倉の血を引いている」
写真を渡して以降、初めて口を開いた母親に、秀一は答えた。
真実を白日のもとに晒し、両家族の雁首を揃える。少なくとも宮野家には不幸しか生まれない。こんな不幸になるだけの真実などに意味がない。
「お願いします。娘を……返してください!」
だからこうなることは、春頃にわかりきっていたことなのだ。
娘の死から立ち直れず、不安定だからこそ、秀一の母親はちとせを返してくれと求める。血の繋がりがある娘。それが死んだ事実だけを突きつけられ、こんなことを父さんは言われたのだ。朝倉家は裕福である。自分の娘はもうこの世にいないのに、返せとはどういうことか、とそれを言葉にできずに、堂々と跳ね除けることもできず、狼狽えることしかできないでいる。
「お願いします……お願いします……!」
「おい!」
「母さん!」
頭を下げ娘を返してくれと繰り返す、妻と母親を諌める二人。
父さんも、弁護士も、そしてヒロさんすらもそんな母親に狼狽えることしかできない。このまま誰かが仕切らなければ、延々とこれが続くだろう。
「今日は血の繋がりを確認することが目的ですよね。父も動揺しています。今日の所はお引取りください」
毅然とした態度で、自分が場を仕切るしかなかった。
我に返った弁護士のとりなしもあり、秀一たちに無理やり立たされた母親は口を閉じた。ただ泣き悲しんだ音だけを、最後までこの家に残し続けたのだ。
「今回の一連のことは、全て秀一が知っています。お話はどうか、そちらからお聞きください」
そう告げると、朝倉家の両親と、そして弁護士は宮野家から退出していった。
玄関に残った秀一は、
「すまない、トシ」
申し訳なさそうに気を落としているだけだった。
こうならないようにすると、春頃に告げたはずなのに。全ては現実になってしまった。
「安心しろ、また奢られてやる」
いいから顔を上げろと、そんないつもの軽口を叩いたのだ。
目を一度パチパチとさせた秀一は、
「ははっ、君は偉そうだ」
そんな自分の気遣いを素直に受け取ってくれたようだ。
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