03

 リビングに戻ると、どんよりとした空気。


 窓を開けただけで換気がされるのなら、一桁の外気をいくらでも取り入れたであろう。


 ソファーに座り直すことなく、父さんはその場から一歩も動いていない。ただ仁美の写真にだけ目を落としている。そういていれば、いずれ問題の全てが解決する。そんな現実逃避のように。


 ヒロさんはヒロさんで、父さんに負い目がある。今日までひた隠しにしてきた真実。仁美たちのためとはいえ、父さんを蔑ろにしてきたことには変わらない。自らのことを棚に上げて、しっかりしなさいとケツを叩けないのだろう。


 母さんが亡くなったときですら、父さんはこんな痛々しい姿を見せなかった。ヒロさんの存在があったとはいえ、それ以上に自分とちとせのためにも、父親として情けない姿を見せないよう気丈に振る舞ってきたのだ。


 それが育ててきた娘と血縁関係はなく、血の繋がった娘はもう亡くなっている。いきなりそんなことを突きつけられた末に、娘を返してくれだなんて言われたのだ。気丈に振る舞えというほうが酷な話だろう。


「玲子は……知っていたと思うか?」


 ふと、父さんはそんなことを口にした。


 顔を落としたままの父さんに、ヒロさんはわらかないと首を振る。


「知ってたよ、母さんは」


 だから代わりに、自分がそれに答えたのだ。


「夏頃に、温泉で俺と遭遇したのを覚えてる? あの前に、ちとせたちが生まれたクリニックに寄ったんだ。そうしたらたまたま、二人を取り上げてくれた先生に会えてさ。ちとせたちが生まれた五年後に、そこで母さんと会っていたらしいんだ」


 父さんとヒロさん。二人揃って呆然とした顔を向けてくる。それだけでちとせが自分が生んだ娘ではないと、母さんが気づいていたと悟ったようだ。


「そうか……玲子は知っていたのか」


 また現実逃避のように写真を見下ろした。そこに仁美ではなく、今度は母さんを見出すかのように。


「ちとせも、ヒロも、そして和寿も……皆、知っていたのか」


 犯罪者を追い込むことをやり甲斐としている父さん。


 ゴリラのように逞しく、交番に立てばあいつは怖いからなんとかしてくれと、苦情が来るほどのその身体。


「俺だけが……俺だけが知らなかったのか」


 今はそれが、とてお小さく見えた。


「そうか……」


 今にも嗚咽にならんほどに喉は震え、


「ちとせは……俺の娘じゃなかったのか」


 その末に、決して許されない戯言よわねを吐き出したのだ。


 フラッシュバックのように、かつての過去が脳内に蘇る。


 後ろ姿しか見えなかった小柄の鬼神。体格差が覆る錯覚を覚えるほどに、身を縮こませていた父さんの矮小さは、まさにこの情けない姿に重なった。いや、あのときよりも輪にかけて酷いものだ。


 占い師としてなにか言わなければ、なんていう思いは既にない。


 だってこれは代弁でもなんでもない。


「寿幸、あんた――」


 ヒロさんの憤りを遮って、この身は勝手に動き出していたのだから。


 肉を叩きつける鈍い音。


 この音を聞くのはまさに秋以来か。


 あの日は一方的な聞き手側であったが、今日は奏者として壇上に上がったのだ。


 聞き手のヒロさんだけではなく、楽器となった父さんですら、なにが起きたかわからずにいる。


「おい……今、なんて言った?」


「え……?」


 ようやくこの右手に、頬を殴られたことを父さんは知ったようだ。しかしその間抜けな声は、なぜ殴られたかも未だわかっていない。


「ちとせは俺の娘じゃなかった……だって?」


 かつての景色を再現するように、この両手は胸ぐらを掴んだ。


「あんたはちとせの父親だろ! 今更血が繋がってないのを知ったくらいで、なんだその様は!? ちとせは俺たちの家族だろ! ちょっとビビったからって、そんなくだらないことを言ってんじゃねぇぞ!」


 今まで上げたことのないような怒声を轟かせた。こんな鬼気迫るほどの力が、自分に宿っているなんて思いも寄らないほどだ。


「それでもまだ言うようなら、わかるまで何度でもぶん殴ってやる! いいな!?」


 唖然とすらしていた父さんの顔。


 その目は自分ではなく、かつての過去を見ているかのようであった。


「……すまん。俺が悪かった」


 だから父さんは、かつての台詞をそのままに、自らの否を認めたのだ。二度と言わないとしたはずの約束。それを破った自らの愚かさを。


「そうだ……これからも、今まで通りだ。なにも、変わらない」


 父親の面目を保つためか。精一杯の強がりで涙を飲み込んで、かつてした母さんとの約束を守り続けると、改めて誓ったのだ。


「ただいまー」


 そんなところに我が家の末っ子が帰還した。


 ファミレスにいたとは思えない帰宅速度。やはり近くに身を潜めていたのだ。


 迷うことなくリビングに入ってきたが、ちとせが目撃したのは修羅場を乗り越えた矢先。


「なにしてるのさ、おにい!」


 父さんの胸ぐらを掴んでいる最中であった。


 やることは終えたので、あっさりと父さんを開放した。急に手を離された父さんは、床に後頭部を打ち付け小さな雄叫びを上げる。


 ちとせはそんな父さんに駆け寄って、抱き起こすのを手伝うように介護した。


「大丈夫、お父さん?」


 頬の殴られた跡に気づいたのだろう。ちとせは労るように、そこに手を当てている。


「ああ、大丈夫だ」


 さっきまで悲劇の主人公ぶっていた父親は、今やその面影はまるでない。むしろ甲斐甲斐しい娘の労りに喜んですらいる。


 全くもって現金な父親である。


 殴られたほうより殴ったほうが痛い。なんて戯言があるが、あれは本当であった。巨大なゴリラをぶん殴った反動で、右の拳が痛かった。骨にヒビが入っていないか、不安になってくるほどだ。


「それにしても、親を殴るとは酷い息子だ」


 いつもの調子で父さんは、恨みがましそうに口をへの字に折り曲げた。


「一体誰に似たんだおまえは」


 今度は『おまえは俺の息子ではないんじゃないか』、と咎めるような口ぶりですらある。


 残念ながらと、いつものように教えてやるのだ。


「隔世遺伝だよ。祖先たるシャーマンの血が、俺の代で目覚めたんだ」


「この、減らず口め。そんな血はさっさと眠らせろ」


 眉間のしわをより一層深めながら、父さんは乱暴な言葉で返してくる。


 ただ、これはいつもの減らず口でもなんでもない。この情けない男を引っ叩けと、母さんが自分に乗り移ったのだ。


 そう、占い師たる自分は、ついに霊媒師へと進化を果たしたのである。


「おにい、最低……」


 非難してくるちとせのジト目を、鼻で笑うように受け止める。


「待っててお父さん、今救急箱持ってくるから」


 普段日の目を見ないものなので、「あれ、どこだっけ」と言いながら、ちとせはリビングを駆け回っている。


 そんなちとせを眺めていると、ポン、と肩に手を置かれた。


 ヒロさんだ。その顔は、よくやった、と誇らしげですらあった。


「こんな酷い息子に引き換え、ちとせはわかりやすい」


 自分のために駆け回る娘を見ながら、


「間違いなくあれは、母さんの子だ」


 父さんはいつものように兄妹差別をしたのであった。

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