12
その意味をすぐに受け入れられた者はいない。
ちとせが舞台に上がってから観客らがもたらした歓声、そして笑声。その次に彼らがもたらしたのは悲鳴であった。
動揺の波紋が広がっていく。
ひととせに一体なにがあったのかと。
ちとせはその答えをもたらすために浮かべるのは、しかつめらしいそれではなく、かといって、悲哀にくれたそれでもない。
「ソロバンドなのに、なにを解散だー、って思われるかもしれないけど。違うの。ひととせはわたしだけのバンドじゃない」
いつもの陽気なちとせらしい顔である。
「同じ星の下で生まれた、血の繋がらないわたしの双子と立ち上げたバンドだったの」
後ろめたさなど微塵もない、むしろ誇るかのようにちとせは言った。今日までひた隠しにしてきた、透明人間がいたのだと。
ひととせの意外なメンバーがいたことに驚く者は多くいる。
けれど、
「その娘の担当は作詞作曲。皆が褒めてくれた詩、喜んでくれた曲は全部その娘が作ってきたものなんだ」
時間が止まってしまうほどに驚いたのは、たった二人だけだ。
秀一の父親の横顔を見る。目を丸くしながら、口元が呆けたように開いていた。
ちとせによって口止めされていた、ひととせに置ける仁美の役割。
『曲に込められている主張、想い、そして熱意。その激しさに一気に引き込まれた』
かつて秀一がそんなことを語っていた。秀一くらいになると、英語の歌詞に翻訳など必要ない。聞いただけでその意味を理解できるのだろう。その父親もまた、同じはずだ。
娘がこんな詩を書き、曲を作っていた。娘とは縁遠いと思っていた世界を、まさに叩きつけられたかのような衝撃であっただろう
母親のほうは、今はその背中しか見えないでいる。その心中はまるで察せれない。
「あ、言っとくけどわたしは手柄を独り占めしたかったわけじゃないから。ちょっと家の事情でね、その娘のことは高校卒業まで隠し通さなければならなかったの」
勘違いするなよ、とちとせは目で制する。
「その先で、実はソロバンドではありませんでした、って大々的に発表したかったんだけど……もう、それができなくなっちゃった」
決して陽気さを崩さないまでも、ちとせの声色は困ったようなそれである。
どういうこと、という疑問が会場内を包み込む。
その真の答えに辿り着いている者は、自分の近くにいる数人ばかしだけだ。秀一の父親の目頭が、少し水気を帯びていた。
「もう、その娘はいない。わたし一人じゃ、ひととせを続けられないの。あの娘がいなくなった時点で、本当はすぐにひととせを畳むつもりだった」
ざわついている会場がどんどん静まり返っていく。
その娘はいない。その意味をわかり始めた者たちから順に声を失っているのだろう。
「でも、その娘が残したものを、一つでも多く形にして世に送り出したかった。それがわたしの役目だと思ってたんだけど……中途半端に引き継いちゃったから、五月以前のひととせの曲とは別物になっちゃった。いやいや、改めて才能の差を見せつけられたね」
おどけてちとせは言うが、それに引っ張られ笑う者は誰もいない。
ひととせの作詞作曲担当は、もうこの世にいないんだとわかったから。笑うにはあまりにも不謹慎だと感じたのだろう。ファンの中には悲哀に飲まれた者も出ただろう。
今のちとせの姿は、そんな彼らとは対照的だ。
仁美の死を乗り越え、折り合いの全てをつけているからこそ、そこに暗い影など一つもない。
「だからもう、ここで区切りをつける。あの娘と一緒に築いてきたひととせを、せめて綺麗なまま、これ以上貶めないようここで終わせようって、ようやく覚悟が決まった」
自らに課せられた役目を果たそうとする、勇ましすらそこにはあった。
「だから次の曲はひととせとしてじゃない。わたしたちがあの娘のためにしてあげられる、最後の役目。この場を借りてあの娘が残した想い、その声をとある人のために歌わせてもらうね」
するとステージの袖から、まだひととせの出番が終わっていないというのに、スタッフたちが現れたのだ。
その中に紛れている二人を見て、自分は目を見開いた。
「ヒロさん、真理……?」
意外な二人がステージに上がってきたことにより驚いた。
秀一もまた自分と同じような顔をし、こちらを向いてくる。なにか聞いていたかい、と。見に覚えはないと首を振るしかできなかった。
自分たちの見えない舞台裏。そのリハーサルでことの流れは決まっていたのだろう。転換時間の間に、二人が壇上に上がってからすぐ、演奏に移せる準備はされていたのだ。一分もしない内にスタッフは撤収し、舞台には三人だけが残された。
ドラムを前にドシッと腰を据えたヒロさん。
ベースを手に初めての大舞台に臨む真理。
そんな仲間を頼もしそうに背中に置いたちとせは、互いに頷き合いながら、マイクを前に口を開いた。
「Wrong world」
カッ、カッ、カッ、カッ。
と、ヒロさんはドラムスティックを打ち付ける。
次の瞬間、ちとせのギターが疾走する――ことはなかった。
疾走感溢れるギターのテクニック。それを存分に振るってきた今までと打って変わった、軽快な音。それこそロックに興味がなかった自分に、スッと入ってくるような馴染みの良さ。
叩きつけるような音楽ではなく、耳障りのよい爽快感。
世間受けしそうなエンタメ感溢れるイントロだ。そのリズム感はまさに、普段から自分が聞くような音楽である。
ポップ・ロック。真理の言葉を借りるなら、きっとそんなジャンルなのであろう。
そしてその歌声は、数分ぶりに披露された。
やはり変わらぬ英語の歌詞。先程より聞き取りやすくあるが、やはりヒアリングは全然である。
ただ、単語単語を拾っていく先で、どんなことを歌われているのか。その歌詞が日本語となって脳裏に浮かんできたのだ。
――
私は間違ってここにいる。間違った世界を歩んできた。
英語に落とし込まれたその歌詞の元を、自分は一度見ていたから。
――周りは、そんな私を可哀相だと言うのだろう。
どこかで見たような言葉を操って、どこかで耳にしたような台詞を振りかざして、
おまえは悲劇のヒロインだ。そうだろ? なんて得意げに言うのだ。
ポエムと勘違いし、かつて胸を打ったその詩。
残されたその言葉が、どのような思いで綴られていたのか。自分は大きく勘違いしていたのだ。
――間違いは悲劇でなければならないと、愚かにも信じているのだ。
陽気かつ、どこかシニカルにちとせは歌う。
その姿はまさに仁美が残したその言葉、正しき代弁者である。
――それに私はこう言ってやる。
貴方たちほどの愚か者を私は知らないわ、って。
世の中は、明日もまたあるつもりで死んでいく人間がほとんどだ。死んだ者だけではなく、残されたほうもまた、準備なんてできていない。死への準備不足こそが、現実を受け入れられない最大の要因だ。
――私は間違った世界を今日まで生きてきた。
歪められた人生を今日まで歩んできた。
だからなに? なぜそれが悲劇に繋がるの?
普段から遺書を準備していればいいわけではない。
そこに残されているのはただの言葉。
大事なのは、その言葉がどんな音で伝えられるか。喜怒哀楽の声色があって、初めて伝わる想いがある
――こんな素晴らしき世界のどこで、私は悲劇のヒロインを演じればいいのかしら?
次は間違いに気づいたのが悲劇だというの?
しつこい人たちね。笑えるほどに愚かな人たち。
残された者に一番必要なものは死者の声だ。
秀一もそれには納得していた。
――残念ながらこれは希望。私にとってこの世界で芽生えた新たな希望。
だってそうでしょう?
間違いだと知らなかったなら、それこそ一つの悲劇を迎えたんだもの。
これは喜劇だ。間違いが起きて、間違いに気づいたからこその希望である。
『仁美がどんな思いを残して逝ってしまったのか。どれだけ悲しくても、それを背負って前に進まなきゃいけないってさ』
――素晴らしき間違えた世界。
私はこの世界こそ愛おしい。
だから間違いが起きた世界に願う。
『その声さえあれば、母さんも気持ちの整理がつけられただろうね』
――どうかこれからも、間違えたままでいさせてほしい。
まさに必要だったのはこの声だ。
――この間違いを正さないでほしい。
仁美が残した想いは、すがるでもない、請わんとするものでもない。
――だって私は、間違った世界で生きてきたからこそ、こんなにも幸せなのだから。
こんな家族のもとで生きてきた自分は幸せだった。
そんな笑い声だったのだ。
一番目は終わるも、まだまだ曲は続いていく。曲の構成を考えるならまだまだ折り返しですらない。
「仁美ッ……!」
だけどその声がもたらした想いは、届くべき者に届いたようだ。
その場に崩れ落ちるようにしながら、秀一の母親は娘の名を叫んだ。
「ごめんね……ごめんね……」
むせび泣きながら、繰り返し娘に謝り続けるその姿。
現実から目を逸してしまい、始まりの間違いを本来の形に正そうとした。ただそれは、仁美が今日まで自らの娘であったことを、間違いであったと言っているのと同じことだ。そんな気がなくても、仁美をそうやって蔑ろにし、間違いであったかのように扱ってしまった。
自分の娘が誰であるのか。それを思い出し、自らがしでかしてしまった大きな過ちを、嘆くように悔いている。
ひととせの作詞作曲担当はもうこの世にはいない。だから後、三時間もせず解散する。
ファンであれば誰もが惜しみ、悲しみにくれるはずだったのに。今やそんなことも忘れたかのように、陽気で軽快な笑い声に引っ張られ、会場内は賑わいと歓声で満ちている。
だからそんな場所で涙している者は三人だけ。
母親だけではなく、父親も、そして秀一もその笑い声に泣き出していた。その場にうずくまった家族の肩を抱きながら支えている。
娘の死を現実として受け入れられず、今日までずっと止まり続けてきたその世界。
『ロックにはね、世界を回す力があるんだよ。止まった世界が簡単に動き出しちゃうくらいの、音楽の力がね』
まさに音楽の力によって、それが動き出した瞬間であった。
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