11

 父さんたちと引き返すと、それは既にステージの上にいた。


 本日のイベント、目玉の一つ。


 現在この空間にいる大多数の目的。


 それを見るために、休憩時間も動かず観客らは粘り続けていたのだ。前のバンドから先乗りして手に入れた、この位置を奪われるものかと。


 どうやらもう、一通りセッティングが終わっているようである。


 ステージから最後のスタッフが撤収すると、ふいに明かりが落とされた。小さなざわめきは起こるが、突然のことに驚いたわけではない。なにせ前のバンドでも、一度同じことが起きたのだ。だからそれはこれから起こるものに対しての、期待を寄せた歓呼であった。


 暗闇とまでは言わない。けれどこちらを振り向いた、ステージ上にいる者の表情は伺えない、そんな薄暗さ。


 現在時刻、何時何分か。それを告げるアラームの代わりに、腹の底を叩きつけるようなドラム音が鳴り響いた。


 ひととせの演目が始まったのだ。


 追従するように疾走するギター音。それと共にステージ上に明かりはもたらされた。


 青と緑がチカチカと瞬きながら、マイクスタンド前に立つ主役に向かって、スポットライトが浴びせられた。


 そこに浮かんでいるのは、よく知る気の抜けたにへら顔ではない。何百もの瞳、その眼差しを一身に引き受けながらも、それに屈することのない力強さが宿っていた。


 そうしてちとせは、高らかにその歌声を会場に響かせる。


 まるでそれは地震のようだ。問答無用に身体を震わしてくる暴力的なまでの衝撃。脳震盪起こしたかのように、そのリズムに沿って強引に頭が揺さぶれる。


 密集した階下のフロア、その観客たちは必死になって上下運動を始めた。まるで地震が呼んだ津波のように、一体となって歓声を上げている。


 間違いなく、自分が入場してから最高の盛り上がりである。それどころか一つ二つ突き抜けおり、まさにこのときのために、全てがあったのだとばかりだ。


 ちとせの生の歌声は、度々耳にする機会はあった。大抵パシリとして使わされたとき、その場に居合わせて聞くもの。自分はいつだって役目が終わればとっとと立ち去っていた。


 曲だってろくに聞いたことがない。精々、ヒロさんのスタジオで流れているときに、たまたま耳にするくらい。ああ、ちとせの声だな、と。いつものちとせからは想像のつかない迫力さこそあるが、それでも妹の声の判別くらいはつく。


 その程度である。


 別に徹底して避けてきたわけではない。


 ちとせが頑張っているのもよく知っていた。


 それなのにここまで興味を持ってこなかったのは、ただ一つ。偉そうな言葉で表すのなら、音楽性の違いである。


 自分はいつだって流行りの曲しか追ってこなかった。テレビから主に発信される、キャッチーな曲以外、すっと耳と胸に入ってこないのだ。


 ロックというジャンルはよくわからないし惹かれない。その上歌詞が英語と言うのだから、なおさらわけがわからない。


 ひととせの良さが、自分にはわからないのだ。どれだけ聞いたところできっと知ることはできないし、誰かの言葉を借りた知ったかぶりしかできない。


 今思い返せば自分はそんなものだからと、知ろうとするのを初めから放棄していたのかもしれない。わかるのを諦めていたのだ。


 それが今、一気に覆ったのを感じた。


 知ろうとするとか、わかろうとするか、そんな小手先な小細工のようなものは必要ない。


 地震に震え、津波に飲み込まれるかのような、そんな天災的な力を持って、胸の奥が熱くなるものを感じた。


 ああ、と。


 かつて受けた母さんの衝撃。それの何分の一かは理解できたのだ。


 止まっていたものがつい動き出してしまうくらいの力を持って、一気に引き込まれてしまったのだ。


 ライブという場を持って、素晴らしいものだと皆が褒め称える、ひととせの良さ。その入口へと入ったのだ。


 こうして入り口へと入れたのは、ちとせの力だけではない。仁美の魂が込められた曲だと知っているから。そして今日、自分にとってひととせの前座となった、前四組のバンドたちの功績がなによりも大きい。


 彼らによって自分は、ロックって案外いいものなんだなと、その面白さをかじらせてもらえた。自分からロックへの警戒心を取り払い、未知と捉えていた物を形をして貰えたから。ひととせを受け入れるための場が、十分に温まりきったからだろう。


 リズミカルにギターを鳴らし、身体を揺すらせ歌声を張り上げるそれが、自分の妹であることを忘れて。


 曲と曲の繋がり。その小さな間ですらじれったく思い、早く次の曲を求めてしまうほどに。夢中になっていたのだ。


 四曲目が終わると、曲に合わせて瞬いた光の三原色はその色を失った。ちとせの直下だけではなく、ステージ全体が白い光が落とされる。


 小休止も兼ねた、トークタイムが始まるのだろう。


 普段とは無縁な、凛々しいまでのその顔つき。


「どうも、ひととせでーす!」


 それがよく知るい妹の表情に戻ったのだった。気こそ抜けていないが、先ほどとは別人のような人懐っこい顔である。


 会場中を一瞥しながら手を振るその姿に、観客らは叫声を上げた。曲の最中に上げた歓声とはまた別な、黄色い声に近いそれである。


 ちとせは見た目に恵まれている。それで男性ファンを中心に取り込んでいるのかと思ったが、どうやら女性ファンも多いようだ。少なくとも会場内では半々に見受けられ、「ちとせちゃーん!」と呼んでいるのは女性のほうが多いくらいである。


 秀一に邪魔された春頃の飲み会を思い返すと、確かに彼女も『可愛いのに歌ってるときはカッコよくて。たまらないんです』みたいなことを言っていた。


 アイドル路線ではなく、しっかりロックバンドとして売り出せているようだ。


 満足そうなちとせの顔。


「わたしは今、とんでもなく慄いてるよ」


 それが似つかわしくない単語を持ち出しながら、生真面目な顔へと引き締まった。


「ひととせ史上最大の観客数を前にして、正直もうビビりまくり。数の暴力の前に、ビビってビビって慄いて、皆がわたしを取って食わんとする、魑魅魍魎の類にしか見えないよ。ここに広がる光景はまさに百鬼夜行のそれだね」


 次の瞬間、どっとした笑いが会場を包み込んだ。


 まさに不意打ちとも言えよう一撃に、思わず自分も笑ってしまった。父さんも、秀一も、その父親も、そしてその母親も。性別世代など関係ない、誰もが置いてきぼりにならないジョークセンスであった。


 「あ」とちとせはなにか思い出したかのように、口を開いた。 


「暴力といえば、そうそう、うちのおにいがさ、ついに家庭内暴力に走ったんだよ。お父さんに対してズドンとさ」


 なんともなさげに、つい先日の話をちとせは引っ張り出す。


 家庭内暴力、お父さんに対してズドン。


 誰が聞いても面白おかしく語る問題ではない。このような場で語るには相応しくなく、引くものも出てくるだろう。


「当人いわく、気合を注入したらしいんだけど、グーだよグー。信じられる?」


 実際、会場内の笑いはスッと引いた。この話をどうやって受け取っていいものか。皆が顔を見合わせながら悩んでいる風である。


「お父さんもこれには、いつものように呆れて言うわけ。『一体誰に似たんだおまえは』って」


 あれだけ温まっていた場が、外気を取り入れたように冷えていく。


 それなのにちとせは場の空気など知らない。気にしないとばかりに、止まることなくその舌を回し続ける。


「そしたらさ、おにいは拳の次に、いつものあれを叩くわけ」


 なんだと思う、と観客らに振るような口ぶり。


 ちとせが口を開かぬまま、数秒の間が開いた。


 ちとせと観客の温度さ。それが怖くないのだろうか。見ているほうがハラハラする、まさに慄きを抱いていた。


 けれどちとせは信じていたのだろう。自らのファンを。


 誰かがおかしそうに「減らず口!」と叫ぶ。


 ちとせはそれを待っていたとばかりに、ニヤっとしながら、呆れたように眉をひそめた。


「そ、減らず口。『隔世遺伝だよ。祖先たるシャーマンの血が、俺の代で目覚めたんだ』ってさ」


 冷え切った会場内からは、徐々に笑いが上がってくる。それに釣られてこれは笑いどころだと観客らは受け取ったのだ。


「なんでもお母さんが乗り移って、引っ叩け、って言われたらしいんだけどさ。いやいやいやいや、注文間違ってるよ、殴ってるじゃん!」


 咎めるような口ぶりで、人差し指を突きつけるように振り下ろす。


「それを言ったら、おにいはまた言うわけ。『俺は指示待ち人間じゃない。言われた以上のことをやってこその、仕事ができる男だ』って」


 もうダメだこいつ。


 そう言わんばかりの諦めた表情で、ちとせはやれやれと首を左右に振ったのだ。


「皆、今すぐスマホでこの言葉を調べてみて。『ああ言えばこう言う』。そしたらそこに、うちのおにいの名前が載ってるから」


 それがとどめとばかりに、会場内は笑いの海に包まれた。


 そんな会場内で唯一苦々しい顔をしている男がいる。それを伺う三つの視線が突き刺さる。父さんと、秀一と、その父親だ。


「ちとせの奴め……後で絶対金取ってやる」


 それがまた、三人の笑いを更に増長させた。


 上手くいったと満足そうにしているちとせの顔は、ニヤニヤとしているようにも見える。おそらく会場内に自分がいることがわかっているからだろう。


 笑いの海に一区切りがつくと、ちとせは次の話題へと話を移す。


「ま、うちのおにいの近況報告はそんな感じ。次はひととせからの重大発表ね」


 重大発表と。


 笑いの次は、期待に富んだどよめきだ。


 これから一体、どんな発表がその小ぶりな唇からもたされるのか。暗い顔ではなく、笑顔を浮かべているのだから、当人にとっては面白くない話ではない。


「もしかしてプロデビュー?」


 と誰かが口にした。


 笑いながら重大発表だなんて言うのだから、それくらいあってもおかしくないと。ちとせのファンはそう信じているようである。


 少なくともそんな話は自分は聞いていない。だが普段の行いを考えると、事後報告で十分だろうという可能性もある。


 父さんに目をやると、首を左右に振っている。どうやら今から語られることに覚えはないようだ。


 この会場にいるどんなファンよりも、次の言葉を自分ら親子は待ちわびた。


 もったいぶったように引っ張ったちとせは、ついにそれを口にした。


「ひととせは今年をもって解散しまーす!」


 どこまでも明るい声色で、ひととせが解散まで三時間を切っていると。

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