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 それはそれとして、一つ気になったことがある。


「ヒデはそうやって、ちとせのライブによく行ってるのか?」


 父さんが大笑いしていたと知っているのは、ライブに足を運んでいるということだ。


「ひととせを知って以来ね。顔を隠しながら、全てのライブに足を運んでいるよ」


「まるで熱心なファンみたいだな。ファンというのは、俺に近づくための騙りとか言ってなかったか?」


「役作りの過程で、本物になってしまっただけさ」


 秀一はからっと笑う。


 こんな男を虜にするとはちとせは大したものだと思ったが、それは違うと思い直した。


 ひととせの曲には仁美の魂が宿っている。それを知らずに秀一は惹き込まれたと言っていたではないか。


 だからきっと、秀一をライブに呼んだのは仁美の魂であり、まさに死者の声であったのかもしれない。


 四組目となり、やはり気づけば目を離せずいたところ、口にしていたドリンクが空になっていることに気づいた。おかわりを買いにいきたいところであったが、離れられずにいる煩悶を抱えていると、秀一から差し出された。


「奢りだ」


「うむ、ご苦労」


「ははっ、新しいパターンだ」


 どうやら秀一がバーカウンターへ買いにいってくれたようだ。本日三杯目の奢りである。このくらいは自分で出したいところであったが、財布すら出させてくれなかった。少なくとも今回の件が全て片付くまでは、奢らせてくれとのこと。なので偉そうに、奢られてやっているのだ。


 そうやってバンドから注意がそれたとき、会場内が混雑し始めていることに気づいた。


 吹き抜けから見下ろせる、ステージを前にしたフロア内。四組目の演奏が始まる前は、その密度は八割方だった。それが今や満員電車のようである


 隣に肩を並べていたはずの秀一も、その位置にはもう戻れない。金髪ギャルがその空席を埋めるかのように、柵にもたれかかっていた。


 身を乗り出しながら周囲を見渡すと、どうやら上階の柵前は、全て埋まっているようだ。


 今演奏しているバンドは、そんなに人気なのか。はたまた人を惹きつけたのか。


 そんな想像をしたか、すぐにそれは違うと思い知った。


 バンドが入れ替わる転換時間というものがある。ただサクッと出演者が交代するだけではない。バンドによって扱う機材が違うゆえに、前のバンドと後ろのバンドの機材を入れ替える必要が出てくる。


 タイムテーブル上では、その時間は十五分ほど取られていた。観客にとって休憩時間でもあり、退屈な時間でもある。


 だからその間に、トイレだったり、飲み物を買ったり、もう見るものはないといった者たちが、メインフロアからはけていくのだ。


 それが繰り返される光景を、毎回見続けていたのだが、今回に限りそれがなかった。


 この場から絶対に離れまいとする、そんな者たちが、この期に及んで前へと出ようとするほど。上階にあたるこのフロアも、徐々に混み始めていった。


「トシ」


 呼ばれて振り返ると、当然ながらそこにいるのは秀一。


「こんばんは、和寿さん」


 そしてその母親が肩を並べていたのだ。


 ドリンクの補充しかり、しれっとその場から離れ、秀一は母親を迎えに行っていたらしい。


「先日はごめんなさい。つい取り乱してしまって……お騒がせてしてしまったわね」


 と、秀一の母親は、その頭を丁寧に下げてくる。


 その姿はかつての娘を失った悲痛な母親でもなければ、娘を返してくれと迫る生みの親のものでもない。息子の友人に向ける、親しげなそれであった。


 果たしてこの人は、自分のことをどう見ているのか。その浮ついた雰囲気を前にして、少し動揺してしまった。


「いえ……お気持ちは、ご察しします」


 ただ、なにも考えられず当たり障りのない台詞しか吐けなかった。


 どう接するべきか迷っていると、


「君のお父さんも来ている。そこで父さんと話しているよ」


 秀一はそんな助け舟を出してくれた。


 席を変わるように見晴らしがいいこの場所を譲ると、秀一が指し示した場所へと移動した。


 扉をくぐったすぐその先。人の出入りの邪魔にならないよう、隅っこにその二人はいた。お互いにペコペコと頭を下げあっているのだ。


「父さん」


「おお、和寿」


 頭の下げあい、その応酬に終止符を打つ者が現れて、助かったような顔が向けられる。だがそれも一瞬、


「……おまえという奴は、こんなときにまで飲んでるのか」


 透明のカップ越しに映る、黄金色のしゅわしゅわとしたドリンクを見て、すぐにその口をへの字にした。


 今日はただちとせを見に来ただけではない。我が家と朝倉家、両家のこれからを決定づけるイベントだ。そんな日にまで喉越しのいい苦いものを口にしている息子に、文字通り苦そうな顔をしていた。


「まだ三杯目だ。こんなの飲んだ内に入らないって」


「もう三杯も飲んでいるのか」


「空になると、ヒデが奢りだって追加を持ってくるんだ。人の好意を無下にしない。そんな立派な息子に、俺は育てられたんだよ」


「この減らず口め」


 そうしていつものお決まりの台詞を吐いて、父さんは眉間に深いしわを刻んだ。


 そんなやり取りがおかしかったのか。すぐ隣から笑い声があがった。


「こ、これまたお恥ずかしいところをお見せしました」


「いえ。良い息子さんですね」


 恥ずかしそうに頭をかく父さんに、秀一の父親は言った。一切の皮肉はなく、ただ額面通りに受け取ってくれと。


「秀一から聞いたよ。巻き込んでおきながら、今回の件は全部君任せになってしまったと」


 そう言うと、秀一の父親はこちらに向き直ってきた。


「自分がやったことと言えば、車を出して、温泉に入って、コーラを飲んでいただけ。我がことながらろくでもないと、秀一は反省していたよ」


 そんな息子をおかしそうにしながら、秀一の父親は肩をすくめた。


 どうやら秀一は、かつて自分が言ったことをそのまま父親に伝えていたようだ。あの日の笑い話をそのまま笑い話として。今回の件をそんな風に語れるぐらいに、二人はちゃんと話し合えたのだ。


 ならばと友人甲斐がある自分は、一つくらいフォローをしてやろうと思った。


「そんなことはありません。ヒデはもっと、色々とやってくれました」


「おや、そうなのか。秀一は他になにをやったのかな?」


「飲みに行くと必ず、こう言うんです。『今日は奢らせてくれ』って。それこそ普段行けないような店に連れてって貰えるんで、いい経験をさせてもらっています」


「ははっ!」


 息子の活躍に、愉快そうな声が鳴った。その姿は秀一の面影が重なって、やはり親子なのだと思った。


「ヒデが連れてってくれる店はすげーぞ父さん。クリスマスは夜景の見える店でフレンチ。その前は隠れ家的なイタリアン。和民くんを捕まえた日なんざ、俺たちとは無縁な界隈の回らない寿司屋だぜ」


「おまえという奴は……一体どれだけ遠慮なくたかってきたんだ」


「財布を出させてもらえないんだ。探偵を雇うより安くついている、ってさ」


 減らず口を叩き続ける自分に、父さんは言い負かせることを早々に諦めた。ただ恥ずかしそうにして、秀一の父親の顔を伺っている。


「その通りだ。仁美が隠してきたもの。探偵だけではここまで綺麗な形で、私たちは知ることはできなかっただろう。迷惑をかけた分、秀一のわがままに付き合ってあげてほしい」


 一方的に迷惑をかけてしまった。穏やかな顔ながら、そんな風に物案じるようにも見える。


 ヒデの財布の支出は、元を辿れば自分が稼いできたものだ。秀一の父親はそのように例えて、このくらいはさせてほしいと言ったのかもしれない。


 秀一相手になら、よし奢られてやるか、となるが自分もその辺りの分別はついている。


「いえ、迷惑なんてとんでもありません。最初こそ戸惑いましたが、結果的に巻き込んでもらえて良かったと思っています」


 相手を慮る心でもなければ、社交辞令でもない。今回の件を振り返り、心からそう思って出た言葉だ。


「もし今回の件を知らないままなら、ちとせもヒロさんも、悪い意味で仁美のことを背負い続けなければなりませんでした。自分が関わったことでその重荷が下りたのなら、知らないままでいたかった、迷惑だった、なんてとても思えません」


 ちとせやヒロさんだけじゃない。秀一や真理。今回の件を通して得た二つの縁もまた、暗い影をその胸に残していた。それが今や、本来二人が持つ光を取り戻したのだ。


 自分にしては大活躍だったのではないか、という満足感すらある。


「だから気にしないでください。うちの家族はこれまでどおりだし、良い友人も得ることもできました」


「和寿くん……」


「なにより可愛い女の子の縁ができて、クリスマスディナーと洒落込めましたから。やはり持つべきものは、お膳立てしてくれる素晴らしき友ですね」


「ははっ!」


 息子に似た笑いを上げながら、そう来たかとこのオチに抱腹した。


 一方うちの父親は、仕方のない奴め、と困ったように笑っている。


「そうか……ならそちらの家のことはもう、私が心配することではないのだろうな」


「ええ。自分たちの家はもう、心配ありません。全員が綺麗に折り合いがつけています」


「折り合いというのなら、私も最近になってようやくついたところだ。三津屋さんのお話と、秀一から伝えられた仁美の想い。ちゃんとそれを背負って、前に進まなければならないんだと。君のおかげで私たち親子は綺麗に救われた」


 秀一の父親は穏やかな微笑を浮かべた。これから歳を重ねていくと、秀一もこんな顔になるのだろうと思うほどに。やはり二人は親子なのだと実感した。


「だから……問題は後一つだけだ」


 その顔はまた一転、暗いものへと沈んでいった。


 残された問題は後一つ。こればかりはもう、自分ではどうにかできるものではない。


 どうしたものかと、秀一の父親の顔に釣られていると、


「大丈夫ですよ」


 と、父さんが力強い声で言った。


 その顔を見ると暗いものなど一つもない。


「うちの娘が必ず、なんとかしてくれますから」


 誇らしげに、かつ自信満々なそれであった。


 秀一の父親に向かって、うちの娘がなんとかするから安心してくれと。ちとせがしようとすることが知らないまま、自信過剰なまでに言い切ったのだ。


 そんな父さんに向かって目を瞠った後、


「はい、後は娘さんにお願いいたします」


 憂いをなくしたように秀一の父親は答えたのだった。

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