ひととせロックンガールズ

二上圭@じたこよ発売中

01

 たっぷりの湯気を放つスープカレーを眺めながら、自分は鍋のことを考えていた。生まれる前からそこにあるダイニングテーブル。その日もその上には、母さんお得意の鍋料理が披露されていた。


「スープカレーってくらいなんだから、鍋にして美味しくないわけがないのよ」


 外気に晒されるだけで、寒いではなく痛い冬の日だった。


「家族で鍋を囲うのっていいわよね。私は両親と仲が悪かったから、こうやって家族で鍋を囲えるだけで幸せだわ」


 母さんが両親と不仲であることは、自分もよく知っていた。なぜならば彼らの顔どころか、名前すら耳にしたことがない。存命中の祖父母のはずなのに、だ。


 いわく、その人達から生まれたことに違いない。しかし根っこの部分からそりが合わない。合わないまま、気づけば食事の時間も合わなくなったのだと聞いていた。


 この時、母さんは自分たち家族がいることの幸せを吐露していた。わけではない。一ヶ月続けて鍋料理という所業についての言い訳にすぎないと、自分は見抜いていた。


 当時、小学生特有の上げ足取りを使命としていた自分は、母のその非を突いた。どのようなニュアンスだったかはもう覚えてはいない。ただ背伸びをした覚えたての言葉を操り、かつ最近別れた恋人のように面倒くさかったのは覚えている。


 親子のコミュニケーションが円滑に行われていない家庭ならば、可愛げのない我が子に「なら食べなくてもいいわよ!」と叫び、殺伐とした食卓に発展してもおかしくはない。そのくらい可愛げのない子供だったと自覚している。


「そうよ。どう、参ったでしょ?」


 母さんはしかし、そんな可愛げのない我が子にからっと笑ってみせた。露見した悪戯を、さも誇るような堂々とした佇まいだ。


 この瞬間、どんなことがあっても母さんに勝てないことを悟った。


 母は強かった。陰湿な嫌がらせをするご近所には正面から立ち向かい、時には横柄な態度でクラスをを支配する教師を倒した。そしてなにより、犯罪者を追い込むことをやり甲斐としている父を従えていた。


 自分ら兄妹にとって、母さんはいつだって最強だった。母さんを倒せるものなどこの世にはないと、本気で信じてさえいた。


 最強な母がまさかその五年後、居眠り運転に負けてしまった。自分は未だに信じられないでいる。



     ◆



「ねえおにい、聞いてる?」


 不機嫌な声をかけられ、はっとする。遡行していた意識を現実に向けると、熱々のスープの中に自分のではないフォークが浸っていた。それが引き抜かれると、メインの具であるベーコンが刺さっている。


 抗議の声を上げる間もない。ベーコンの行く先は薄紅色をした潤いのある唇。小ぶりな装いを裏切るようにそれは大きく開かれ、一口でその姿を消してみせた。


「もう。折角失恋中のおにいのために、こうしてご飯に誘ってあげたのに」


 ベーコンが喉を通り終わると、ちとせはそう口火を切った。


「いざ連れ出してみれば上の空。可愛い妹を前にしてどうかと思うよ、その態度?」


「まるで俺に可愛い妹がいるような口ぶりだ」


「いるでしょ」


「どこに?」


「ここに。目、大丈夫?」


 皮肉がまるで通じていないのか。ちとせは心配そうに小首を傾げる。


「おにいはさ、素直に相手を褒められないところがあるよね。そんなんだから、ある日突然彼女に振られるんだよ」


「それには俺が一番驚いた」


 一週間前、元恋人から連絡がきた。『新しく好きな人ができた』『相手は包容力のある社会人』『放っておくあなたが悪いの』。原稿用紙一枚分にも及ぶ長広舌を振るわれたが、要約するとこのような筋となる別れ話だ。


「まだ続いていたんだ、って」


 自分にとって、去年の五月には終わっていた関係だった。それが夏を過ぎ、秋を通り、冬を越したこの春まで、まさか続いているとは思いもよらなかった。


 付き合い始めたのも、一目惚れという形でなければ、自然と惹かれ合ったわけでもない。受験を控えた高校二年生の冬、恋人の一つもできず終える高校生活に危機感を覚え、向こうの「私たち付き合おっか」という軽い気持ちに乗っかった結果だ。いわゆる、このまま高校生活を終えるなんてつまらない、である。


 最初こそ恋愛関係を楽しんでいたが、すぐに受験勉強に忙殺され、互いに遊ぶどころではなくなった。苦労の末、結果が実を結んだかと思えば向こうは浪人生。軽い気持ちで始まった関係だ。不和が訪れるのに時間はかからなかった。


「ほら、それが良くない」


 ちとせは行儀など気にせず、フォークの先を向けてきた。


「おにいはいつも一言多いの。だから向こうからの別れ話なのにもつれたんだよ」


 一言しか言っていない、と開きそうになった口を慌ててつくんだ。それが多い一言だと攻撃されることを察したからだ。


 別れ話には、わかった、とだけ元気よく返事をして通話を切った。その結果ちとせが口にしたとおり、本来すんなり終わるはずの別れ話がもつれてしまった。


 自分のことを棚にあげて、浮気をしていたのではないかと責め立てられたのが一日目。うんざりして通話拒否をすると、今度は友人を引き連れ直接罵りにやってきた。女三人寄れば姦しい。当初の目的である浮気疑惑の追求は、自分へのクレームへとシフトしていった。結局のところ、浪人している自分を差し置いて、大学生活を満喫している自分が気に食わなかったらしい。


「言っとくけどあの人たち、わたしのところまで来たんだから」


「嘘だろ」


 初めて知る事実に顔をしかめる。自分の不徳に巻き込んでしまったことに申し訳なく思いながら、姦しいあの三人に憤りを感じた。


 そんな憤懣やるかたない自分とは対照的に、ちとせはケロッとしている。


「そして収めたのもわたし」


「収めたってなにを?」


「話を。もうあれから来てないでしょ、あの人たち」


 言われて、思い当たる節があった。話はまだ終わっていないからと言われながら、その日は開放された。また明日からもこれが続くのかとうんざりしていると、これがどうしたことか、それっきり彼女らは姿を見せない。話は終わったことでいいのかと問いたいところだったが、藪から蛇が出ると目も当てられない。この件は放置することにした。


 あれから数日、日常は凪いだ海そのもの。狐につままれたような気分であったが、なるほど、答えは目の前にあったのかと納得した。


「なんて言ったんだ?」


「おにいはあれで、捨てられたことに腸が煮えくり返ってるからさ。あまり刺激しないであげて」


 むしろ今ここで腸が煮えくり返りそうだ。そう抗議しようとするも、言葉を飲み込みこらえた。


 元を辿れば、ちとせを巻き込んでしまったのは自分の責任である。預かり知らぬところで傷つけられた自尊心は甘んじて受け入れよう。と、思えば「今はまだ」とちとせの口は動き始めた。


「爆発してないからいいけど、後ろからガツンって来たら困るでしょ? って」


「それは洒落にならんぞ」


 時勢が時勢だ。この手の脅しに警察はいつだってぴりぴりしている。警察にかけこまれたりでもしたら、事情を聞きに来るくらいはあるだろう。そうなると誰に一番迷惑がかかるのは決まっている。そしてなによりも不謹慎だ。


 ちとせにそう説くも、とうの本人には馬耳東風。それよりも目下の問題は、チキンの骨を綺麗に剥がすことらしい。スプーンとフォークさばきに集中している。


「そうやって言うけどさ、元はといえばおにいが悪いんじゃない」


 今更なにをとは言わない。


「悪いとは思ってる」


「思ってるならさ、もうちょっと努力の方向性を見直すべきだよ」


「方向性?」


「女の子の扱い方。日頃の努力が実を結んでいないのって、つまりそういうことでしょ?」


 ちとせが示す努力というのは、新たな異性との交友関係を築くたのイベントへの参加。つまるところ合コンや飲み会である。戦績はちとせの示すとおりよろしくない。


「おにいに足りないのは細やかな気遣いだよ」


「例えば?」


「食べ終わりそうなわたしに気づいて『ちとせ、この黒蜜きなこアイスはどうだ?』とか」


「どうぞ勝手に頼んでくれ」


「奥ゆかしい女の子はね、男の人の前だとこういうのは頼めないの。そういうのに気づいてあげられることが、モテる男の第一歩だよ」


 なら眼の前でアイスを頼み始めた妹は、その奥ゆかしい女の子ではないらしい。


「それにさ、おにいが作りたい彼女って、どうせ理想が高いじゃない」


「どうせって言うな」


「そういう人って倍率が高いのが相場なんだから。相手が求めているものを把握して、効果的にアピールしていかないと」


「まるで就職の面接だな」


「結婚を就職だと考えると、むしろアルバイトに近いかもね」


「それで、そんなちとせさんの最近の就活事情はいかほどで?」


「わたし? わたしはほら、どちらかといば求人を出す側だから」


「俺の妹は偉そうだ」


「いいのいいの。だってわたし、可愛いから」


 ニコッと、自惚れを絵に描いたような微笑みを浮かべた。


 不服でこそあるが、自認するに相応しい容姿であることは認めざるえない。小顔に内包された大きい瞳に通った鼻筋。それらを扱う溌剌とした相好は、肩にかかる茶髪が一層明るさを際立たせ、個性ある魅力となっている。


「実際、今日だって面接の申し込みがあったんだよ。書類審査でお祈りしたけど」


「御社への申込みは、すぐにお祈りするような人材しかこないと?」


「いえいえ、とても優秀な人材でしたよ。人望の厚い、人気者のバスケ部のエースでございます」


 「ささ、これが履歴書の写真です」と言うと、ちとせはスマホの画面を見せてきた。写っていたのは手作り感あふれるたこ焼き屋台と、エプロンとバンダナをした十人ほどの少年少女たち。その中にちとせも紛れており、去年催された学園祭であることが見て取れた。ではこの中の誰が申し込みをしたのかと探すと、すぐにそれらしい人物は見つかった。


「御社はこれを書類選考でふるい落としましたか」


 バスケ部に相応しい背丈。しかしその中性的な顔立ちには男臭さもなければ癖もない。アイドル特有の顔つきだ。


「弊社としましては、前職の退職理由が気になるところです」


「というと?」


「解雇されたんだって」


 そろそろこのやり取りに飽きてきたのか、ちとせは素に戻りつつある。


「つまり振られたってことか。そんなに性格悪いのか?」


「和民くん、女受け以上に男受けが良いんだよね」


「攻守はバッチリか」


 同性受けをする男は、総じて性格が良い。こんな男が振られる世の中ならば、自分は一生新たな交際に辿り着けないのではないか、と苦慮するほどだ。


「きっとよっぽどのことがあったんだろうね」


「DVとか?」


「うん。ほら和民くんって、どう見たって何不自由なく生きてきてそうじゃない?」


「確かに」


「だからそういう人に限って、思い通りにならないことがあると暴力に走るんだよ」


 写真でしか見たことのない和民くんが可哀想になった。フォローしようとするも、ちとせはその隙をを見せないほどに、本日一番の舌の回りを見せつける。


「彼女なんてただの自分の可愛いお人形。それが反抗したら許せると思う? いいや許さない絶対DVするね。なのにいざ振られたら『一体俺のなにが悪かったんだ』って愕然としてるんだよ。そうやった溜まったストレスを、今はノックアウトゲームで解消してるんだろうね」


 結びとして「そういう人なんだよ、和民くんは」と人間性まで決めつけた。「実は嫌いなのか」と問いかけても「別に嫌いじゃないよ」という始末だ。


「ただわたしって、昔から人を見る目はあるんだよね」


「そいつは初耳だ」


「おにいの元カノの時だって、一目でこの人は面倒くさいって見抜いたじゃない」


「そんなこともあったっけ」


 その時はまだ向こうは正体を上手く隠していたか、はたまた初めての交際に浮かれて気づかなかっただけか。今となってはどちらとも言えないが、その時は「はいはい」と、ちとせの忠告を聞き流していたのを思い出した。


「あれは大好きなお兄ちゃんが取られてしまった嫉妬じゃなかったのか」


「いいね、大好きなお兄ちゃん。でもわたし、ないものねだりはしない主義なの」


「俺の妹は可愛くない」


「恋人がいないのがおかしいくらい可愛いよ」


「身の丈に合わない理想があるんじゃないのか?」


「おにいと一緒にしないでくださーい。その気になればすぐに作れますー」


「そういうのは作ってから言ってみろ」


「いらない。『ひととせ』で忙しくて構ってる暇ないもの。当分、わたしの恋人はロックだけで十分だよ」


 恋人がいない言い訳でもなく、強がりでもない。ハッキリとそれが不要だとちとせは断じた。そしてちとせがどれほどの真剣さで、自らのバンドに取り組んでいることを自分も知っていた。


「話は戻るけど、わたしが人を見る目があることはわかったでしょ?」


「実例が少なすぎる」


「そんなわたしからの忠告だよ、おにい」


 もう反駁に付き合う気がないらしい。


 ちとせはただ一言、先程までの陽気さとは対象的な、鹿爪らしい声色で言った。


「噂のヒデとは距離を置いたほうがいいよ」

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