02
「ビーマイセルフ。いいバンドだったよ」
テーブル越しに座る秀一が、ワインを飲みながら言った。
自分たち二人はワインバーにいた。ワイン樽風のテーブルに載っているのは、チーズの盛り合わせとバーニャカウダ。牛の炭火タタキ。そして開封したばかりのスパークリングワインだった。つまるところ、サイフの事情から普段の自分には縁のない店である。
ちとせも父さんもおらず、夕食は一人でどうしようかと悩んでいるときに「よければ今晩飲まないかい?」と秀一から連絡が来たのが二時間前。いざ合流し連れられたのが、このお店だった。店構えに顔が引きつり、頭でサイフの中身を確認していると「急に悪かったね。今日は僕に持たせてくれ」と秀一はさらっと言った。これが本物のモテる男か、嫌味なく思わずにいられなかった。
秀一は床に直置きしたバックに手をかけた。その中からCDケースを取り出すと、それを差し出してきた。
「忘れない内に返しておくよ」
先日貸したアルバムだった。
「久しぶりにツボに入ったバンドだった」
「気に入ったならやるよ」
「悪いよ。折角だし自分で手に入れるさ」
「いいんだ。もう市場には出回ってないし。なにより家にはまだ五枚はある」
「五枚も? なんでそんなに」
「母さんのバンドなんだよ、それ」
ハッとするも吟味するように「なるほど」と秀一は呟いた。
「だからちとせが一番好きなバンドというわけか」
◆
秀一と知り合ったのは、一ヶ月前の話である。
四月といえば入学シーズン。そして新入生歓迎会。飲み会中心のインカレサークルに所属している自分は、当然、新たな出会いを求めて参加していた。
会場は大学から近い居酒屋の貸し切りで、広い座敷だ。対面には女の子が三人。両隣に座る男二人は、飲み会以外での交友こそないが、既に見慣れた顔だ。
話はお酒も手伝ってすぐに盛り上がった。中身など盛り上がればなんでもよく、あってないようなもの。しかし一時間もすれば座卓をうろつく者たちばかりの中で、ここまで盛り上がったのは素晴らしい戦果であった。
男三人、手応えを感じながら狙いの相手もバラけたところで、二次会の算段でも立てようとしたところ、
「アマチュアバンドだけど、最近だとひととせが一番好きですね」
ドキッとする発言が出た。よりにもよって、自分が狙っている女の子からだった。
「歌詞は英語でなに歌ってるのかわからないんだけど、心に響くっていうか。可愛いのに歌ってるときはカッコよくて。たまらないんです」
「ほら、これです」と差し出されたスマホの画面に映っていたのは、ほぼ毎日顔を突き合わせる妹の顔。それも普段のにへら顔とは一転、ギターを手にしながらビシっと締っている。
冷水を浴びた気分だった。まさか鼻の下を伸ばしながら「これ、俺の妹なんだ」とちとせをダシにするほど、分別がない兄ではない。どうにか機嫌を損ねないよう、話題を変えようと考えを巡らせていたときだった。
「もしかして四季の話かい?」
黄色い声を堪える音。目の色が変わった女の子たちの瞳は、自分の背後に釘付けになっていた。
一言で表すなら、王子様がいた。柔らかなくせっ毛のない茶髪に、均整が取れた甘い容貌。麻ジャケットにシャツ、チノパンという自分と同じ構成だが、物と土台がまるで違う。宮野家に生まれて十九年に数ヶ月。我が家に不満を覚えたことはないが、育ちの違いを見せつけられた気分だった。
同時に既視感を覚え困惑していた。似たような人を見たことがある。ただそれが思い出せない。そんな奥歯に物が詰まったような苛立ちだ。
「まさかここでその名前を聞くとは思わなかった」
だがそんな苛立ちの矛先は一転。これ見よがしにバンドの愛称を口にする、物腰柔らかな声に向かっていった。
「よかったら混ぜてもらっていいかい」
いいわけがなかった。こんな天然ハンサムに混ざられようものなら、この二時間近くの苦労は水の泡。両隣もその思いは一緒のはず。三本の矢に教えを従えば、きっとハンサムにだって勝てるはずだ。
しかし思いも虚しく、矢は束ねられる前に折れてしまった。女の子たちに進められるがまま、かの王子様は上座へと腰を下ろした。つい数分前まではほぼ一対一だったはずが、一対三対残り三となる始末。
隣から「ちょっとトイレ」という声。声の主は白けた顔をしており、この席に帰ってこないのは明白だった。便乗するように「俺も」と一緒に腰を上げた。
便器に向かって二人仲良く並びながら、誰とはなしに呟いた。
「やってられないよな」
折角積みあげた石が、鬼によって潰された気分だ。むしろ地蔵菩薩の助けがある分、賽の河原はまだ救いがある。
トイレを出る頃には解散ムードが漂っていた。空席や席を立つ者たちが出始め、ちらほらと二次会へ流れるグループが目につく。
本当だったら自分もそんなグループを作れたはずなのに、最後の最後で妨げられた。
そんなやるせない気持ちを持て余す自分に、
「やあ」
と品の良さが窺える声がかけられた。
「さっきはどうも」
声の主は、積み上げた石をフルスイングで崩した鬼だった。対面してみると、百七十後半はある自分より、目線が五センチ以上は高い。
当然自分は苦々しげに、かつ不快感を表すしかめっ面を見せた。
「ええと、ごめん。さっきはの邪魔するつもりはなかったんだ」
敵意すら感じられる自分の対応に、彼は慌てるように弁明した。
自分だって普段は好戦的ではない。誠意に対して収めるべき鉾は持っている。
「あれが邪魔でなければなんだって言うんだよ」
今夜はしかし、お酒も手伝ってその鉾の行方は知れず。代わりに刺々しい視線で王子様を突き刺した。
「本当にごめん。ただ、声をかけるキッカケを探してて、四季の話が出たからつい」
「勘弁してくれよ。その顔とナリなら、いい相手なんていくらでもいるだろう」
「声をかけたかったのは女の子じゃない」
「は?」
「君だ」
悪い方向に回り始めていた酔いが、すっと引いた。
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