03
昨今、セクシュアルマイノリティが市民権を獲得し始め、日本の行政もそのように動きつつあることは知っている。取り巻く人間関係もあり、自分も彼らに偏見はない。しかし、自分自身が性別の壁を乗り越えられるかは別問題だ。
言葉をなにか発しなければと口を開こうとすると、向こうが先に口を動かした。
「ちとせのお兄さんだろ、君は」
恋愛対象として見られず安心したが、同時に困惑もした。
「そうだけど……なんでそんなこと知ってるんだ?」
「四季はほら、新曲やライブのお知らせばかりで、自分のことはあまり発信しないだろう?」
しないだろうと言われても、ひととせの活動についてはまるで知らない。
「そうなるともっと知りたくなるんだ。彼女の音楽活動以外のことも。ファンの性ってことでそこは見逃してほしい」
「人気商売だし、わからんでもないが」
「だから色々と調べたんだ、ネットで。それでちとせのお兄さんである君のことを知ったんだ」
「怖っ!」
日本にいる限り、無関心だろうと関わらざるをえないこの情報社会。若者としてSNSを嗜む自分だが、個人情報の管理は厳格にやっているつもりだ。なのに意外な方面から、個人情報が流出している事実に、恐怖を感じざるをえなかった。それもしっかり顔を覚えられるほどに。
「信じてほしいと言っても難しいかもしれないけど、これだけは言わせてくれ。君を介してちとせと仲良くなりたいとか、サインが欲しいとか、そういうつもりは一切ない」
ちとせを呼び捨てにしていることに、鶏冠へくるものがあった。ただ堪えた。自分も有名人の名前を敬称で呼んだりしない。
「ただ自制心が足りなかった」
「なんの?」
「無関心に徹する」
「ちとせの兄ってだけでか?」
「マナー違反なのはわかってる」
申し訳なさそうに「わかってるけど止められなかった」と彼は肩をすくめている。
自分は流行りの曲やアーティストを追う平均的な若者だ。熱狂的なファンになるということがわからない。テレビに出ているほどのバンドなら頷ける。しかしちとせはただのアマチュアバンドの女子高生だ。その兄を見かけるだけで興奮するファンがいるとは、今日まで思いもしなかった。
ちとせの身が心配になった。ちとせのファンを甘くみていたが、熱狂的なファンは兄である自分のことすら調べ上げている。そんな世界で活動を続けていたら、いつか危ない目にあうのではないか。
幸い、目の前にいるのは育ちの良さそうな、誠実そうで、清潔感があり、キラキラしたオーラを放っている王子様だ。改めて値踏みしてみたが、これほどの男を虜にしているちとせに感心すら覚えた。
「ところでここって、二次会とかはどうなってるんだい?」
解散ムードの周囲を見渡しながらそう言われた。
「なんだ、ここは初めてか?」
「前から友人に誘われててね。今日が初参加さ」
「どうりで見たことない顔だ」
インカレサークルゆえに交流がないメンバーは多くいる。しかしこんなハンサムがメンバーにいれば、顔くらい覚えているはずだ。
「ここはいつも二次会はなし。終わったら各自ご自由にってスタンスだ」
「君はこの後は?」
「どっかの男に潰された」
やぶ蛇だったとことに、苦い顔を覗かせた。
ただの妹の熱心なファンというだけで、悪気はないのはわかっていた。毒気も抜けたことだし、帰る旨を告げようとすると、
「だったらこの後どうだい? お詫びに奢らせてくれ」
さっきの女の子が聞きたがっていただろう言葉がもたらされた。
あまりにも爽やかに、かつ自然なお誘いだ。いつもの調子で「だったら奢られてやるか」と皮肉交じりで受けてしまうところだった。
自分を懐柔し、ちとせとの接点を作る目的かもしれない。
「もちろん四季の話は抜きだ」
そんな自分の内心を読んだのか、
「こいつはダメだと思ったら、すぐに帰ってくれていい」
先回りするように二次会へ誘うレールを敷いてくる。
誠実を絵に描いたような笑みに、用心していた心が軟化してきた。心の内こそ完全に読めないが、下心はなさそうだ、と。
「わかった。だったら奢られてやるか」
結局、いつもの調子の言葉が出てしまった。
「はは、君は偉そうだ」
軽口に気を悪くした様子もなく、むしろ清々しさすら窺える。
次の予約客が入っているのか、店員は慌ただしく動き回っている。それを見て邪魔にならないよう店から出ようとした。そこで思い出したように「そうだ」と彼は声をだし、
「忘れてた。僕は朝倉秀一だ」
振り返りながらそう名乗った。
◆
結果から言って、その晩の内に秀一のことを気に入ることとなった。
読みどおり秀一は、欲しい物に不自由しないお坊ちゃまだった。しかし生来の気質か、それを鼻にかけることのない気のいい青年だ。
自分の皮肉交じりの物言いには、嫌味のない軽口を叩くユーモアを。飲み始めて一時間をすぎる頃にはすっかり打ち解けていた。お酒の力も手伝って、帰る頃には同じ『カズ』がつくもの同士、『トシ』『ヒデ』と呼び合うくらいにはなっていた。
以後、学部に格差はあれど同じ大学ということもあり、この一ヶ月交友を深めてきた。
気を使ってか、秀一からはちとせの話もバンドの話もない。だからそんな秀一に、ちとせが一番好きなバンドだと貸したのが、母さんのアルバムだった。
「それで、どっちが君の母親なんだい?」
アルバムのジャケットに映る、二人を交互に指を向けながら秀一は問いかけてきた。
一人は腰の位置にギターをかけている、背中まで届く黒髪の少女。小柄の体躯に白のパーカーとスキニージーンズという、極めてシンプルな装いだ。
対してもう一人は、ドラムスティックを手にした派手なメイクをした人物。黒を基調としたゴシック風のテールカットワンピースが、より一層二人を対比させていた。
ちとせの面影を見いだせない二人。相手が何も知らないとはいえ、つい噴き出しそうになった。
「これだよ、これ」
笑いを堪えながら指さしたのは、黒髪の少女。
「こっちはさ、どう足掻いてもないって」
「それは君が知ってるから言えることだろ」
ムッとこそしないが抗議する秀一。
「それ以前の問題だ」
「どんな?」
「こっちは男だ」
次の瞬間の秀一の反応に堪えきれず、笑いながらワインを流し込み、そしてむせた。
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