04

 丁度ワイン一本を空けたのが皮切りだった。トイレから戻ると、会計を終わらせた秀一が待っており、「次に行こうか」と誘ってきた。


 向かったのは、またも自分にとって場違いな店。スナックだった。


 場所は歩いて五分、一見面白みのないビルの五階にあった。この階にはスナックしか入っていないようで、どれも濃淡がついた看板が自己主張している。だというのに、秀一が足を止めその店は一切の明かりを放っていなかった。


 目的の店『スリヴァ』は休みだったのかと思ったが、秀一はそれに構うことなく、重厚の扉を押し開いた。


 店内はカウンターとボックス席が二つだけとこじんまりとしている。夜のいい時間帯だというのに客はゼロ。休みじゃないのかと秀一に問おうとすると、


「いらっしゃい」


 艶やかな声が迎えてくれた。


 声はカウンターから聞こえ、そこにはワンピーススーツ姿の女性が一人。こんな小さな店に一人しかいないのだから、この店のママだと気づいた。


 化粧は厚めでこそあるが、決して下品ではない。ハーフアップの髪型がよく似合い、自分の見せ方を熟知している大人のものだ。


「その子が例の?」


 ママが自分に目を向ける。秀一はそれに対して「ああ」と首肯した。


 「適当に座って」とだけ告げ、ママは頼みもしないビールを注ぎ始める。


 言われうがままカウンターへ腰を下ろす。


「後はご自由にどうぞ」


 ビールが運ばれると、そのまま奥の扉へママは消えていった。


 初めからここへ来るつもりだったのは、この短い流れで窺えた。でなければこんなに手回しがいいわけない。


「ここ、友達のお兄さんの店なんだ」


 そんな自分の内心を見抜いたのか、秀一は説明した。


「だから融通が利くのか」


「歳は離れているけど、昔から仲良くさせてもらってるんだ」


「さっきの人は、いわゆる雇われママってやつか」


「ここは個人経営だよ」


 秀一がくくっと笑いを堪える。


 眉を顰めた。数秒して意味を理解し、慌ててママが消え去っていた扉へ向いた。そんな姿に、さっきの仕返しと言わんばかりに秀一は大笑いした。


 本日二度目の乾杯を交わした。


「さっきの話だけど、続きをいいかい?」


 互いに一杯目が空になった頃合いだ。


「どの続きだ?」


「ビーマイセルフの」


 秀一は立ち上がるとカウンターの中へ回った。


「なにが聞きたい」


「なんでアマチュアで終わらしたのか」


 空のグラスに秀一はビールを注いでいく。ママに言われたとおり、本当にご自由にしているようだ。


「あれは実力のあるバンドだ。スカウトが放っておかなかったんじゃないか?」


「声はかかってたらしい」


「なんでプロに挑戦せず解散したんだい?」


 注ぎ終えたビールを受け取り、言った。 


「やってきたんだ」


「なにが?」


「人生の分岐点が」



     ◆



 確かあれは、ちとせが十歳の頃だったと記憶している。


 ロックに見向きもしない自分と違い、ちとせは幼い頃から演奏する側だった。ロックを愛していたのではない。愛している母の真似をして、ねだった末に子供用ギターを与えられた。


 上達の動機は母さんに褒められたいから。褒めたら褒めた分伸びていき、いつしかちとせは面白さに気づいたようだ。まさかそれに乗じて、ベースやドラムにまで手を出すとは、ギターを与えた当時の母さんも思わなかっただろう。


 あの日ちとせはドラムの練習をしていた。母さんはギターの延長でベースしか扱ったことがない。だから母さんの元バンドメンバーのヒロさんが指導していた。


「じゃあなんで解散したの?」


 休憩中のことだ。


 昔話をせがむちとせに「もしビーマイが続いていたら、一時代築いていたわね、あたしたちは」とヒロさんが熱く語っていた。それに対してあがったのが、ちとせのそんな疑問だった。


「人生の分岐点がね、唐突にやってきたのよ」


 母さんは語った。


 プロとしてのデビューの目処も立ち、バンドの調子は右肩上がり。原点回帰を図るため、ギターを担いだ母さんは一人、思いつきで路上ライブを始めた。場所はかつて拠点にしていた路上。当初からよく足を止めてくれていた観客を皮切りに、数があっという間に膨れ上がった。


 膨れ上がった人混みへ飛んできたのが、当時交番勤務だった宮野寿幸だ。自分とちとせの父親である。


「バンドを取るか、結婚を取るか。一晩悩んだわ」


 当時の出会いを思い出したのか、母さんはニヤける。


「話が飛んでない?」


 ちとせは興味津々だが、当時の自分は中学生だ。両親の恋愛話なんて聞きたくなかったし、それこそが思春期の少年として正しいあり方だろう。


 ただし、これにはつい突っ込まずにいられなかった。


「それが飛んでないのよ」


 答えたのは困った顔のヒロさんだ。


「その次の日ね、何も知らないあたしに開口一番なんて言ったと思う? 結婚するからバンドを辞めるわ、よ」


「悪いとは思ったわよ」


 母さんはからっと笑う。


「でもヒロだったら祝福してくれると信じてたの」


 ヒロさんはいつだって、そんな母さんの笑顔に騙されてきたのだろう。まんざらでもないようで「仕方ないわね」とだけ言って肩をすくめるのみ。


 一方、自分は余計に混乱した。


「父さんと、その時なにがあったのさ?」


 大事なところが語られていない。


 ロッカーとしての母さんの人生を、父さんはたった一晩で変えたのだ。きっと十数年前のあの場には、自分では想像できないドラマがあったのかもしれない。


「あのときのお父さんは、回りくどかったわ」


 最愛の人との出会いを懐かしみ、噛みしめるよう母さんは言った。


「最初からそう言ってくれればいいのにってくらい」


「なんて言われたの?」


 期待に満ち溢れたちとせの声。今ここに、初めての夫婦の邂逅が明かされた。


「交通の妨げになるから、ライブを止めろって」



     ◆



「僕が悪いのかな」


 カウンター越しの秀一が混乱している。


「今の話に、恋に落ちる余地があったかい?」


「やっぱりないよな」


 ちとせは納得したが、自分は未だにそこがわからない。母の心の機微を読み取れない自分が悪いのではない、と秀一で証明し安堵した。


 空になったグラスを秀一に差し出す。


「ようはさ、一目惚れってやつらしい」


「ロッカーとしての人生を投げ捨てるほどの一目惚れか」


 秀一はグラスを受け取りながら、


「君のお父さんは、そんなにハンサムなのかい?」


 ビールを注ぎ返してきた。


「あれだ、あれに似てる」


「あれじゃわからないよ」


「一時期ブームになってただろ。ほら、写真集やDVDも出したあのイケメンすぎるあれ」


 アルコールも回り、記憶と語彙力の低下が著しい。


 俳優か、はたまたアイドルか。イケメンすぎるキーワードだから、芸能界とは縁のない業種かと、秀一は想像しているのだろう。ただ、そうではないのだ。


 そこでようやく思い出し、膝を打った。


「そうだ、シャバーニだ!」


「ゴリラじゃないか!」


 自分の哄笑と机を叩く音が店内をこだまする。


「実際、うちの父さんはゴリラみたいだ」


「刑事だっけ?」


「体格もいいから迫力が凄いぞ。強面ゴリラだ」


 自分で言ったワードがツボに入り、ケラケラと笑ってしまった。


「交番時代が一番辛かったらしい。なにせ交番前で立ってるだけで苦情が入るからな。怖いからなんとかしてくれって」


「それは気の毒だ」


「だな。そんな交番、迷子の子供も駆け込めない」


「君のお父さんがだ」


 秀一は呆れて言った。


「でも君のお母さんは、そんなお父さんに一目惚れしたのか」


「たった半年で結婚だ。スピード婚にも程がある」


「付き合ってかい? それはまた、凄い話だ」


「いや、出会って」


 秀一は目を見開き、絶句した。グラスも思わず落としそうになっていた。

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