05
母さんが亡くなってから、我が家がようやく落ち着いた頃の話だ。
あいも変わらず遅い帰宅となった父さんに、作り置きではあるが、晩酌のお供を温め直していた。それだけではなく、晩酌の相手まで務めていた自分は、息子の鑑といっても差し支えなかっただろう。
「母さんの路上ライブを止めた次の日。今でもあの時のことは忘れられない」
当時高校生だった自分と父さんで、二本目のビールを空けた時、ふとそんなことを父さんは語り始めた。
「丁度今くらいの時間帯だったか。パトロールから戻ったら、母さんが交番で待っていたんだ。前日の件もある。また騒ぎを起こして、今度こそ交番まで引っ張られたのかと思ったよ。でも違った。ずっと俺が戻ってくるのを待っていたんだ」
空になった未成年のグラスに、刑事はビールを注いでいく。
「俺が戻るまで母さんを相手にしていた上司は、ずっとニタニタしていた。今思えばあれは、これから面白いものを見られるのを喜んでいた目だったな。てっきり前日の謝罪かと思った俺に、母さんはなんて言ったと思う?」
「一目惚れしたから付き合ってくれ、とか?」
少しばかりの間を置くと、父さんは言った。
「責任を取って結婚してくれ、だ」
グラスを口につけたまま噴き出した。
飛び散ったビールは全て、自分の衣類や顔面にかかった。晩酌のお供や、父さんにはかかることはない。今思い出すとあの間は、自分がグラスに口を付けるのを待っていたのかもしれない。
◆
そんなかつての父さんの真似をするように、秀一がグラスに口を付けるまで間を置くと、衝撃的なプロポーズを口にした。案の定秀一は、かつての自分と同じ末路を辿っていた。
「責任を、か。凄い人だね、君のお母さんは」
「恥じ入るでもなく、頬を赤く染めるのでもなく、さあ、今日から私達は夫婦よと言わんばかりの笑顔だったらしい」
ハンカチで顔を拭く秀一を、けらけらと笑った。
「母さんの凄い所は、『わかった。責任を取って結婚しよう』って言葉が返ってくると、信じて疑わなかった所だ。自分がこんなにも運命を感じたのだから、貴方もそうだったはずなのに、と後になって言ってたらしい」
「それで君のお父さんは、どうしたんだい?」
「心慌意乱、事情聴取、仰天長嘆。そして最期に子孫繁栄だ」
抱腹絶倒を抑えるように、ビールを一口呷る。
「責任を取って結婚しろと迫られたんだ。見に覚えのない父さんは、それはもう狼狽え慌てたそうだ」
「昨日ライブを止めた腹いせかと思ったんじゃないか?」
「だな。母さんの相手をしていた上司が間に割って入り、翻訳することでようやく意味は理解できたようだ。父さんはゴリラ。ゴリラらしく女と無縁の人生を歩んできたのに、母さんみたいな存在が降って湧いてきて、心慌意乱が落ち着くわけない」
「それで、その日はどうなったんだい?」
「交番だって暇じゃない。その日はプロポーズだけさせて、母さんはお引取り願われたよ。ただ、大変なのはそっからだ」
「事情聴取の始まりか」
「ああ、上からのお呼び出しだ。母さんは童顔。未成年に間違えられ補導されかけるなんてのは、日常茶飯事だったらしい。次の日にはもう、父さんが未成年に手を出したと、署内では噂が広まっていたんだ」
「警察官には致命的な噂だね」
「致命的も致命的。罪人扱いで糾弾されたそうだ。上司のとりなしもあって誤解は解けたが……警察と言っても所詮は人間の集まり。ゴリラに一目惚れをし結婚を迫る美少女。こんな面白おかしいイベント、皆が見逃すわけがない」
その時のことを苦々しく語る父さんを思い出すと、抱腹絶倒が蘇ってくる。
「署内では常にからかい、弄ばれ、先輩たちに飲みの席に呼び出される事情聴取の日々だ。警察官は特に結婚を推奨されてるからな。これを逃せば次はないぞとばかりに、上からの圧も強い。毎日のように進捗報告を求められたそうだ」
「仰天長嘆か」
「初めてのデートも、上司が調整したらしいからな。業務命令のように、明日はここに行ってこいと言われたらしい。警察は上下関係が絶対。父さんに拒否権はなかった」
「酷い話だ」
口元を抑えて秀一は笑っている。
「後はなし崩し、というわけでもなかったろうが、母さんの本気は伝わったようだ。周りの後押しという名の圧力もあって、半年後にはゴールイン。子孫繁栄はかくしてもたらされたとさ」
最後の締めとばかりに、ぐいっと一気にグラスを空にした。
「人生、なにが起こるかわからないな」
「……本当だね。本当に、なにが起こるかわからないよ」
ふと、秀一の声色が沈んだ。面白おかしい話だったというのに、憂いるように、俯きながらため息をつく。
物思いに耽る秀一の様は、どこか暗い影を背負っている。それがまた絵になっており、大人のお姉さんがこの場にいれば放っておかないだろう。その胸の内を優しく聞き出し、包み込んでくれるに違いない。
やはり美男子は得だ。そんな勝手なことを考えながら、仕方ないとばかりに口火を切った。
「それで、今日は一体どうしたんだ?」
「え?」
秀一は顔を上げる。
「まさか本当に飲みたい気分だった、ってわけじゃないだろう?」
「……わかるかい?」
「こんな場所まで用意されたらな」
「はは、それもそうだ」
空元気ながら、秀一の声に少し力が戻った。
「それで、ついこの俺に告白か」
酔いが回ったからこそ出た、頭の悪い軽口だ。秀一はそれに嫌味のない軽口を返す。これこそがいつもの流れだ。なのに秀一はいつまで経っても口を開かない。
たっぷり五秒の間。
「そうだ」
ついに口を開いた秀一の声色に、いつもの軽快さはない。むしろ反対の、覚悟を決めた重厚さがあった。
自分の目をしっかり捉え、離さない。前言を撤回し、冗談だと笑うにはもう遅い。
重苦しさすら感じられる空気の中、ふいに数日前のちとせの言葉が脳裏によぎる。
『噂のヒデとは距離を置いたほうがいいよ』
まさか、と。冷や汗が首筋に流れる。
自称、人を見る目がある妹との会話を思い出した。
◆
「おにいはさ、おかしいと思わなかったの?」
「今でも疑ってはいるさ、おまえのファンだなんて」
「その直感は正しい」
皮肉のつもりだったのに、素直に肯定され戸惑った。
「そもそもが嘘なんだよ。わたしのファンだってことが」
「嘘?」
「そう、おにいに近づくための嘘」
「近づく? 取り入るじゃなくてか」
「いきなり『やあ僕はヒデ、友達になろう』なんて言われて、友達になりたいと思う?」
「そりゃあ、まあ……そんな奴がいたら絶対ヤバイ奴だろ」
「でしょ? 異性が相手ならナンパ扱いで済むけどさ。特定の同性と交友を持とうとするのって、キッカケとかタイミングがないと難しいと思うんだよね」
ちとせの言う通りだ。大学は幼稚園ではない。同じ大学どころか、同じ学部の相手であっても、始めのタイミングを逃すと声をかけるのは難しい。それこそ共通するなにかを見いだせなければ、次のタイミングがくるまで待たねばならない。
秀一と仲良くなったのは、そのキッカケがあったからだ。
「わたしはダシにされたんだよ」
「俺に近づくための?」
「可愛い実力派ロッカーの妹を持つ兄。近づくための仮の動機としては十分すぎるよ」
自らを持ち上げることをちとせは忘れない。
冗談めかしてはいるが、ちとせの声色は珍しいくらい生真面目だ。なにかを懸念しているのは伝わってきた。
また口を開こうとするところ、ちとせに奥ゆかしさがない証明が到着した。二玉のバニラアイスの上に、たっぷりの黒蜜ときなこがかかっている。
待ちわびていた鬱憤を晴らすように、ちとせはアイスを口にし、その美味しさにうなりをあげる。大げさに美味しいと言うだけのアナウンサーより、よっぽど食欲がそそられる。
一口くらい食べてみたい。そんな兄の心情が伝わったのか、ちとせはアイスを味わいながらスプーンの先を向けてきた。気持ち、その上に乗っている量が多目である。
「結局、なにが言いたいんだ?」
そう言い、スプーンを口の中に迎えた。ほぼ予想通りの味だ。しかしスパイスを上書きするその甘さは、冷たさも相まって爽快感をもたらした。
「この前見たんだよ、二人でいるところを」
ちとせは自分の口からスプーンを引き抜いた。
「あの人、お兄を見る目が普通じゃなかった」
「普通じゃなかった?」
「噂のヒデに恋人は?」
「意外なことにいたことがないらしい」
質問に質問で返されたが、そこは指摘せず肯定した。
「ほら、おかしい。もう大学生だよ? あんな人が、普通に生きてて恋人ができないわけないじゃない」
「なにがおかしいんだ。ただお眼鏡にかなう相手がいなかっただけの話だろ」
「だからさ、おにいがそのお眼鏡にかかったんだよ」
「は?」と口から漏れる間抜けな声。ちとせがさらっと告げた言葉の中身について、理解が追いつかない。自分が言いだしたお眼鏡にかなうとは、一体どういう意味を含んでいただろうか。
物分りの悪い兄に、ちとせはため息をつきながら、
「あれは間違いなく、恋する乙女の目だよ」
すばり、そのとんでもない分析を口にした。
◆
まさか、と。妄想だと、あのときはちとせの忠告を鼻で笑った。
まさか、と。現実味が出てきた今、ちとせの忠告が脳裏を巡る。
『噂のヒデとは距離を置いたほうがいいよ』
まさか、あのヒデが本当に?
待つのだと理性は叫ぶ。なにも告白というのは、愛を告げるためだけに生み出された単語ではない。
「僕は君をずっと騙していた」
「……まさかちとせのファンだってことがか?」
「とっくにお見通しか」
苦々しい失笑。出来の悪い自らの嘘を嘲笑っているようにも見える。
「そう、四季のファンなんて君に声をかけるために騙りさ。あの飲み会だって、最初から君に近づくために参加したんだ」
秀一は唾を飲み込む。
我が理性の叫び。その抵抗は既に虚しいまでに落ち込んでいる。むしろ告白とは、世間で流通している通りの意味であり、それ以外の使いみちはあっただろうか、と疑問を掲げている。
なんで、と声を絞り出そうにも、喉はその音を鳴らさない。我が理性はついには話を進めることを放棄したからだ。
「これを口にしたら君は、僕の頭が狂ってると思うかもしれない。それはわかってる。正気とは思えないだろうし、なにより変質者のそれと変わらない」
淀みなく秀一は語る。
「でも最後まで聞いてくれ。遊びじゃない。僕らの人生に関わる話だ」
理性は既に現実逃避を諦めた。僕らの人生に関わる話だとまで言われたら、もう逃げ道はない。
ついに自分は覚悟を固めた。
「わかった、聞くよ」
秀一は素晴らしい友人である。好意こそ持っているが、それは友情の粋を出るものではない。彼がこの先の言葉を口にしたら、もうこれまで通りではいられない。だがせめて、秀一の人格を否定することだけはすまい。
「君の――」
例えその気持ちに応じられなくても、真摯に向き合おうとした。
「妹は、僕の妹かもしれないんだ」
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